一.後ろを振り向くことなかれ
雨麟が座敷へ酒を運び、羽鶴が香炉の隣で洗い物をしている頃、雨麟と分けた半分ずつの持ち場が落ち着き受付脇に控えていた宵ノ進は、受付へやってきた顔ぶれにほころんだ。
「鉄ちゃん。いらっしゃい。妹さんも御無沙汰致しております」
「宵ノ進! 会いたかったああ!」
「兄貴が仕事を投げすぎなんだ。くそ兄貴がいつもお世話になっております」
「すばめ屋様には助けていただいてばかりですよ。良い品をくださいます」
「仕事の話はあとにしようぜ昴ぅ。宵ノ進っ! 座敷にいるたぁ珍しいじゃねえかあ」
「ええ。御座敷で御話ししましょうか」
「宵様。私は聴聞会がありますので挨拶ばかりですがこちらを」
昴は熨斗の巻かれた桃色の箱を宵ノ進へ差し出した。宵ノ進が礼を言い、大切そうに受け取ると昴は頭を下げた。
「白様。これを朝日に……」
白鈴は薄桃色の封筒を受け取ると、柔らかく笑んでは頷いた。
「くそ兄貴、酒は飲むなよ」
「ええー」
「すばめ屋の若が飲んだくれて潰れるなんざ恥だからな! では兄を頼みます」
「お気をつけて」
一礼して去る昴に鉄二郎が苦い顔をしている。籠屋の注文とあらば張り切るくせに、他との差が激しいと気持ちの面で日々説教されている鉄二郎は宵ノ進さえ見ることが叶えば昴の説教など吹き飛んでしまう。
宵ノ進が小さな座敷へ案内している間も、後ろ姿を見るだけで惚けた。問屋であるすばめ屋への注文の際が会話もできる至福の時であるが、最近はもの足らず、近くの物見へ誘ったりする機会が増えていた。
あまりに回数が多いので、大瑠璃は顔を合わせる度に口で言い負かしにかかり、突っぱね会わせてすらもらえないので引きこもりの非番をいいことにこっそり会いに来てみたのである。
「宵ノ進、花祭りがあるんだが一緒にどうだぃ?」
「ああ、朝日が楽しみにしている四季のお祭りですか。良いですね、大瑠璃もお祭りが好きで――」
小さな座敷で宵ノ進は言葉を切った。座りもせず佇む鉄二郎の方を向けば、彼は明るく笑って取り繕う。
宵ノ進はふわりと笑う。そのような取り繕いに、何の意味があるのかと。
「以前、わたくしを好きだと仰いましたね」
鉄二郎がびくりと肩を震わせた。真っ直ぐに見つめる金の眼を逸らすことができない。
羽鶴が来るずっと前のこと。手のひらに触れられたことを覚えている。
「それはどのような意味合いなのですか。花祭りは皆でゆきましょう」
「俺はな、宵ノ進。お前の中身が欲しいんだ。物凄く遠くに感じればそれほど欲しいと手を伸ばす。お前が笑う。それは嬉しい。だけれどお前は笑うばかりで、一度たりとも答えてはくれない」
「いつからなのですか。いつから、鉄ちゃんは。――人から好かれることを、幻のように感じたことはありませんか。皆が好意を持つなど、訝しいとは思いませんか。わたくしは、貴方にもあの方のようになってほしくはない。貴方も――」
引き寄せ刀に惹かれてわたくしのもとへとやってきたのだから。
「わたくしの中身など、飲み干したなら貴方は潰れてしまう。貴方はとても優しい方。わたくしは貴方の幸福を願う。花は枯れます。どうかわたくしなど、捨て置いてください。貴方を待つ方はたくさんいるのですから。わたくしのところへいては、貴方は枯れてしまう。どうか――」
宵ノ進は抱き寄せられ、力の込もる腕に絶望した。言葉など届かずに、また一人殺してしまうのだと震えた。
鉄二郎は茶店を始めた頃から材料を相談しながら仕入れ味を見てくれる良い友であった。引き寄せ刀が現れるまでは、このようなことなどなかったのに。
人前で流す涙は枯れている。
絶望感が巡る身体は力を失い、最も恐れていたあの感覚がやって来る。
何度も引き上げてくれた。助けてもらってばかりいた。応えなくては、ああ、けれど。
宵ノ進の思考は真っ暗闇の中へと放り込まれた。
「鉄ちゃん。いらっしゃい。妹さんも御無沙汰致しております」
「宵ノ進! 会いたかったああ!」
「兄貴が仕事を投げすぎなんだ。くそ兄貴がいつもお世話になっております」
「すばめ屋様には助けていただいてばかりですよ。良い品をくださいます」
「仕事の話はあとにしようぜ昴ぅ。宵ノ進っ! 座敷にいるたぁ珍しいじゃねえかあ」
「ええ。御座敷で御話ししましょうか」
「宵様。私は聴聞会がありますので挨拶ばかりですがこちらを」
昴は熨斗の巻かれた桃色の箱を宵ノ進へ差し出した。宵ノ進が礼を言い、大切そうに受け取ると昴は頭を下げた。
「白様。これを朝日に……」
白鈴は薄桃色の封筒を受け取ると、柔らかく笑んでは頷いた。
「くそ兄貴、酒は飲むなよ」
「ええー」
「すばめ屋の若が飲んだくれて潰れるなんざ恥だからな! では兄を頼みます」
「お気をつけて」
一礼して去る昴に鉄二郎が苦い顔をしている。籠屋の注文とあらば張り切るくせに、他との差が激しいと気持ちの面で日々説教されている鉄二郎は宵ノ進さえ見ることが叶えば昴の説教など吹き飛んでしまう。
宵ノ進が小さな座敷へ案内している間も、後ろ姿を見るだけで惚けた。問屋であるすばめ屋への注文の際が会話もできる至福の時であるが、最近はもの足らず、近くの物見へ誘ったりする機会が増えていた。
あまりに回数が多いので、大瑠璃は顔を合わせる度に口で言い負かしにかかり、突っぱね会わせてすらもらえないので引きこもりの非番をいいことにこっそり会いに来てみたのである。
「宵ノ進、花祭りがあるんだが一緒にどうだぃ?」
「ああ、朝日が楽しみにしている四季のお祭りですか。良いですね、大瑠璃もお祭りが好きで――」
小さな座敷で宵ノ進は言葉を切った。座りもせず佇む鉄二郎の方を向けば、彼は明るく笑って取り繕う。
宵ノ進はふわりと笑う。そのような取り繕いに、何の意味があるのかと。
「以前、わたくしを好きだと仰いましたね」
鉄二郎がびくりと肩を震わせた。真っ直ぐに見つめる金の眼を逸らすことができない。
羽鶴が来るずっと前のこと。手のひらに触れられたことを覚えている。
「それはどのような意味合いなのですか。花祭りは皆でゆきましょう」
「俺はな、宵ノ進。お前の中身が欲しいんだ。物凄く遠くに感じればそれほど欲しいと手を伸ばす。お前が笑う。それは嬉しい。だけれどお前は笑うばかりで、一度たりとも答えてはくれない」
「いつからなのですか。いつから、鉄ちゃんは。――人から好かれることを、幻のように感じたことはありませんか。皆が好意を持つなど、訝しいとは思いませんか。わたくしは、貴方にもあの方のようになってほしくはない。貴方も――」
引き寄せ刀に惹かれてわたくしのもとへとやってきたのだから。
「わたくしの中身など、飲み干したなら貴方は潰れてしまう。貴方はとても優しい方。わたくしは貴方の幸福を願う。花は枯れます。どうかわたくしなど、捨て置いてください。貴方を待つ方はたくさんいるのですから。わたくしのところへいては、貴方は枯れてしまう。どうか――」
宵ノ進は抱き寄せられ、力の込もる腕に絶望した。言葉など届かずに、また一人殺してしまうのだと震えた。
鉄二郎は茶店を始めた頃から材料を相談しながら仕入れ味を見てくれる良い友であった。引き寄せ刀が現れるまでは、このようなことなどなかったのに。
人前で流す涙は枯れている。
絶望感が巡る身体は力を失い、最も恐れていたあの感覚がやって来る。
何度も引き上げてくれた。助けてもらってばかりいた。応えなくては、ああ、けれど。
宵ノ進の思考は真っ暗闇の中へと放り込まれた。