一.後ろを振り向くことなかれ
羽鶴は重い身体を起こした。這いつくばるようにして花枠の廊下へ倒れ込んでいた四肢の冷たさが、長い間そうしていたのかと力を入れては立ち上がる。
「鶴ちゃん発見!!」
元気のいい声が今回ばかりは羽鶴の望みを絶つのに充分であった。きっちり化粧をして振り袖を着ている朝日の姿は宴会時のきらびやかなものである。とうに昼どころか、籠屋が開く時間まで突っ伏していたなどと。言葉をなくす羽鶴に、朝日は首をかしげながらも腕を掴んではぐいぐい廊下を引っ張っていく。
「鶴ちゃんさっき宵ちゃんが降りてきたよ」
「えっ、休んでるんじゃ……」
「みんなに謝ってお座敷の用意してる。厨房は香炉ちゃんに任せているから、香炉ちゃんが張り切っちゃってて何だか変な感じ。鶴ちゃん今日は一階だけを使うから、ちらっと見ておいてね」
「……もしかして、僕の顔まだ腫れてる……?」
「だいぶひいたよ。少し赤いけど」
朝日は複雑な廊下をぐいぐい進むと階段を降り、一階の受付へ出ると右上に下がる黒塗りの木札を指差した。上に三枚、下に四枚並ぶ艶のある木札の中央には金の文字で名前が彫られている。黒塗りの札を朝日が椅子に上ってひっくり返すと、朝日の名前が書いてあった。
「その日出番の人は名前の札を見せておくの。非番は裏返し。飾りのようなものだと思われるけれど、常連さんはここを見るの。今日は誰がいるのかなって」
朝日の札は上段の一番右端にあった。下段の左から白鈴、雨麟、香炉の札が下がっている。香炉の札の隣をめくると羽鶴の文字が見えた。今日は出番だ、羽鶴がそう思いながら札を眺めていると、朝日の隣に宵ノ進の札を見つける。その隣は黒塗りのまま、大瑠璃の札なのだろう。
「宵ノ進、出番なの……? 怪我をしたのに……?」
「お手伝い程度ですがーってことで。宵ちゃん働いてない日があると普段の倍頑張っちゃうから」
朝日が椅子を受付へ置くと、玄関先から雨麟がやってきた。
「おう朝日、羽鶴ー、火ぃ入れたぜー」
「お店を開ける前に表の門の提灯に火を入れるの。両脇に下がってる火の番は鈴ちゃんがしてくれるよ。門を開けばお客さんが来る。その前に持ち場へ行って待機ー!」
「まァ羽鶴は食器の下げ洗い手伝ってくれよ。俺と宵ノ進が運ぶからよ」
店が開くと客が押し寄せた。
白鈴が丁寧に案内をし、人数に見合う座敷へ朝日と雨麟が通す。朝日が座敷へ通すのは開店後の一度きりで、あとは雨麟が担当している。一度座敷へ入れば閉店まで客に付き合う朝日であるから、目当てで来る客もいるのだという。
忙しなく動き回る雨麟は一通り座敷へ通すと厨房へ向かい、手早く作られてゆく料理を運んだ。初めの方の客分は既に宵ノ進が運んでおり、雨麟が息を整えてから歩く間を生んでいる。
雨麟が運んでいる間に客が来れば宵ノ進が座敷へ通し、逆もまたあり。時折食器を下げながら、羽鶴はうまいこと回るものだと感慨に浸る。
少し落ち着いた頃、榊が姉を連れてやってきた。
「すまん、羽鶴。姉貴に捕まった」
「捕まったって何よー! うわあ羽鶴君着物おお! 札もあるー!! 榊! 毎日来よう!」
「こ、こんばんは……」
「白鈴ちゃん可愛いよおおお! 二人とも可愛いいい!!」
「で、姉貴、何食うの」
「花御膳! 香炉ちゃんなら飛翔膳!」
はしゃぐ姉に腕をがっちり捕まれた榊の、冷静を通り越して呆れた表情を羽鶴は初めて見たような気がした。
名前の札は出番を知らせるだけで担当まではわからない。受付の白鈴へ尋ねることもできるが、それをせず考えることもまた楽しみなのだという。
白鈴はくすくす笑っていたが、榊は視線だけをやっていた。
「鶴ちゃん発見!!」
元気のいい声が今回ばかりは羽鶴の望みを絶つのに充分であった。きっちり化粧をして振り袖を着ている朝日の姿は宴会時のきらびやかなものである。とうに昼どころか、籠屋が開く時間まで突っ伏していたなどと。言葉をなくす羽鶴に、朝日は首をかしげながらも腕を掴んではぐいぐい廊下を引っ張っていく。
「鶴ちゃんさっき宵ちゃんが降りてきたよ」
「えっ、休んでるんじゃ……」
「みんなに謝ってお座敷の用意してる。厨房は香炉ちゃんに任せているから、香炉ちゃんが張り切っちゃってて何だか変な感じ。鶴ちゃん今日は一階だけを使うから、ちらっと見ておいてね」
「……もしかして、僕の顔まだ腫れてる……?」
「だいぶひいたよ。少し赤いけど」
朝日は複雑な廊下をぐいぐい進むと階段を降り、一階の受付へ出ると右上に下がる黒塗りの木札を指差した。上に三枚、下に四枚並ぶ艶のある木札の中央には金の文字で名前が彫られている。黒塗りの札を朝日が椅子に上ってひっくり返すと、朝日の名前が書いてあった。
「その日出番の人は名前の札を見せておくの。非番は裏返し。飾りのようなものだと思われるけれど、常連さんはここを見るの。今日は誰がいるのかなって」
朝日の札は上段の一番右端にあった。下段の左から白鈴、雨麟、香炉の札が下がっている。香炉の札の隣をめくると羽鶴の文字が見えた。今日は出番だ、羽鶴がそう思いながら札を眺めていると、朝日の隣に宵ノ進の札を見つける。その隣は黒塗りのまま、大瑠璃の札なのだろう。
「宵ノ進、出番なの……? 怪我をしたのに……?」
「お手伝い程度ですがーってことで。宵ちゃん働いてない日があると普段の倍頑張っちゃうから」
朝日が椅子を受付へ置くと、玄関先から雨麟がやってきた。
「おう朝日、羽鶴ー、火ぃ入れたぜー」
「お店を開ける前に表の門の提灯に火を入れるの。両脇に下がってる火の番は鈴ちゃんがしてくれるよ。門を開けばお客さんが来る。その前に持ち場へ行って待機ー!」
「まァ羽鶴は食器の下げ洗い手伝ってくれよ。俺と宵ノ進が運ぶからよ」
店が開くと客が押し寄せた。
白鈴が丁寧に案内をし、人数に見合う座敷へ朝日と雨麟が通す。朝日が座敷へ通すのは開店後の一度きりで、あとは雨麟が担当している。一度座敷へ入れば閉店まで客に付き合う朝日であるから、目当てで来る客もいるのだという。
忙しなく動き回る雨麟は一通り座敷へ通すと厨房へ向かい、手早く作られてゆく料理を運んだ。初めの方の客分は既に宵ノ進が運んでおり、雨麟が息を整えてから歩く間を生んでいる。
雨麟が運んでいる間に客が来れば宵ノ進が座敷へ通し、逆もまたあり。時折食器を下げながら、羽鶴はうまいこと回るものだと感慨に浸る。
少し落ち着いた頃、榊が姉を連れてやってきた。
「すまん、羽鶴。姉貴に捕まった」
「捕まったって何よー! うわあ羽鶴君着物おお! 札もあるー!! 榊! 毎日来よう!」
「こ、こんばんは……」
「白鈴ちゃん可愛いよおおお! 二人とも可愛いいい!!」
「で、姉貴、何食うの」
「花御膳! 香炉ちゃんなら飛翔膳!」
はしゃぐ姉に腕をがっちり捕まれた榊の、冷静を通り越して呆れた表情を羽鶴は初めて見たような気がした。
名前の札は出番を知らせるだけで担当まではわからない。受付の白鈴へ尋ねることもできるが、それをせず考えることもまた楽しみなのだという。
白鈴はくすくす笑っていたが、榊は視線だけをやっていた。