一.後ろを振り向くことなかれ

(――まただ)

 羽鶴が初めて籠屋に来た日。振り返れば道はなく。真っ暗闇に包まれて。そして、前を向けば。

「また、暖簾……」

 真っ暗闇を切り取ったように黒く映る暖簾に羽鶴は後ずさる。潜れば何枚も続き面が降るに違いない。
 この廊下を探していた。存在を確かめたかった。雨麟が存在しないと言っていたこの廊下が何なのかを知りたくて。昼前に現れる暗闇が、何を意味しているのか飲み込めず、ただただ後ろへと足が向く。暖簾は遠ざかるも、ふいに羽鶴の足は宙へと放り出された。
 川の音がする。水が流れていく音が。体ごと足を踏み外して落ちて行く。後ろに階段などなかった廊下で。
 体が芯から冷えてゆく。凍り付いたように開かれたままの眼は暗闇以外の何者も映してはくれずに、涙が溢れてはその黒いすべてに吸い込まれていく。
 誰か、――誰か。
 叫ぶように祈った。声など出ないことは頭の隅が理解していた。いくら凍えても今ここへ来ることのない誰かへ、手を伸ばすも流れる川の音が一人である事実を交えては羽鶴個人を飲み込んでいく。
 暗がりの中で目を閉じ、身を委ねてしまえばずっとあなたを見ることもないのだと思えることが。ああせめて、あなたが無事でいたのなら。

 羽鶴は涙が止まらなかった。恐怖ではない。理由などいくら訊ねても答えてはくれない。
 ただ深く、深いところへ落ちてゆく。

「――や……」

 川の音に紛れて声が聞こえた。空間すべてが水であるかのような息苦しさを覚え羽鶴はもがいた。身体中が寒かった。

「――く」

 ごうごうと流れる川の音が、小さな声を飲み込んで羽鶴の呼吸さえもを沈めてゆく。真っ暗闇の中、四肢は埋まり息を求めた口内から水が流れ臓器が沈みゆく。羽鶴が一切の抵抗を手放すと、川の音がぴたりと止んだ。

「――さくや、さくや……」
(さくや……?)

 声の主は泣いている。泣いているのだ。ひたすらに誰かの名を呼んで。
 羽鶴は声の方へ手を伸ばした。声は泣き続けるばかりで、次第に消え入りそうなほどに小さくなってゆく。

『火を放ってみんな殺したの。巻かれて死ぬはずだった』

 静かに言い放った大瑠璃の顔が浮かんだ。

『――わたくしは人を殺めています』

 穏やかな宵ノ進の顔が浮かんだ。


 ああ、そうか。この寒さは。

「宵ノ進」


 心の中で名を呼んだ。真っ黒な川の真ん中にぽつんと立った小さな身体を見つけた。
 長い髪を束ね上げ玉や簪で飾り豪奢な着物を重ねられ。泣き腫らした眼が合わさると、綺麗な人だと再度思った。
 その白い首が後ろから絞められ、喘ぎ黒い川へ沈んでゆくのを止めることができなかった。
 川の流れが木の葉を拐うように、遠退いてしまった。
 豪奢な着物は川の色へ染まり、羽鶴は何も見えなくなった。
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