一.後ろを振り向くことなかれ

 宵ノ進は身体を起こした。閉めきった窓枠を眺め、風も入れずに、とそちらへ手を伸ばすも畳を撫でるに終わり、身代わりとなった傷口をなぞる。
 黙っていればいいものを、羽鶴が引き寄せ刀の元へ行こうとしているのだと耳にしたならば追うのだと身体を動かした。宥められ、開いた傷口もあって布団へ沈めた身体が憎らしい。
 身体を傷つけてはならぬと幼馴染と店主からはきつく言われている。先日客に刺され休暇を言い渡されたばかりで、その上羽鶴が来てからは倒れ、身代わりになったのだから言われもするだろうと思いはせど、すとんと箍が外れるのを知っている。
 それはかつて人に触れられ逃げ出せずにいた頃の諦めに似ている。

(……羽鶴様が来てから、わからない)

 これまで繕っていた形が崩れた。容易く、崩れてしまいそうな姿を晒すなど。
 いつからだったのだろう。上手くできたと店主と幼馴染が誉めてくれた菓子を売り、庭を駆け、花を植えては眺め。料理を習い、笑いながら囲った食卓。焦がした魚を黒焼きだと言いながら食べた二人。
 ――充分だったではないか。
 朝日が加わり、賑やかになった小さな家。白鈴が加わり、更に賑やかになった食卓。
 その頃であったか、客へ料理を出すようになったのは。その頃から、やってきたのだ。引き寄せ刀は。
 宵ノ進は両手で顔を覆った。

(わたくしは、手に入れすぎた)

 身に余る程の幸福を。
 人を殺め生きている事実を引き寄せ刀は揺り起こしてくれた。身を抱かれ涙も枯れた日々を揺り起こしてくれた。客へ小刀を握らせて、早くこちらへ来いと何度も刺しに来るほどに。
 ずるずると引き寄せられ続けるうちに、思考が曖昧になった。幼馴染と店主は何度も引っ張り上げてくれた。

『――もういい、咲夜。皆を巻き込んでは――』

 幼馴染と喧嘩になった。腕で敵う筈もなかった。もとより動かすことに適さぬ体だった。幼馴染は言った。引きずられてゆくならば何度でも引き上げてやるのだと。

「――咲夜……」

 涙が溢れた。庭を駆け、食卓を囲んだ日のように過ごせたなら。
 けれどふと、意識が遠退くのだ。気が付けば微睡むように身体を手放しているのだ。

 引き寄せ刀は二つに割れた。それが誰であるのかを知っている。彼らは身体の一部を好んだ。唯一嫌うのは自傷である。
 故に先日敷地の端で血を垂らして見せた。もがきはせど、消え失せるまでには至らない。引き寄せ刀がどうすれば消滅するのかを何度か幼馴染と話したが、それは向き合うことなのだと言っていた。
 羽鶴が来てから、幼馴染は以前にも増して努めている。

(羽鶴様……)

 ふと、暗がりに羽鶴の姿が見えた。
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