一.後ろを振り向くことなかれ

 客室で休ませてもらうと、もう感じることはないのだろうと思っていた朝がきていた。羽鶴は隣の綺麗に畳まれた布団を見つめる。昨日は食事をしながら歓迎会のような雰囲気で遅くまで会話をしていたと思うのだが、隣に寝ていた筈の榊はやはりしっかりしている、と苦笑した。食事の席に宵ノ進の姿はなかった。聞けば、傷が開き再度寝込んでいるとのことだった。見舞うと気を遣われるから放っておくのが良いと聞き、何やら複雑めいた気分になる。
 襖が開くと制服姿の榊が笑いかけ、ねぼすけとからかう。鞄を持ち上げた彼は、今日はゆっくりしていろと言い、出ていこうとしたので羽鶴は慌てて引き止めた。

「僕も行く……! 榊、後から行くから先に行ってて……!!」
「いや、どうせ遅刻するなら今日は休んどけよ。上手く言っとく。腫れてるぞ、顔」
「うげ……! 相当酷い……?」
「それはもう。終わったら顔出すよ。じゃ」
「いってらっしゃい……」

 榊が出ていく姿をぽかんと見送った。簡単に身を整えて客間を出ると、既に廊下は朝の空気で一杯で、人の姿はない。どちらが座敷の方だろうか。ただでさえ広い籠屋の道を数日で覚えられるほど羽鶴は余裕がなかったし、使ったことのない部屋からでは尚更である。それに時折、道が変わる。
 羽鶴が適当に歩を進めていると、ばたばたと足音が近付いてきては視界を揺らがせた。

「羽鶴ーぅ! おはよー! 部屋決めに行こうぜー!」
「雨麟おはよう。元気だなあ朝から」
「おうよー朝だかンな! 三階の中なら好きな部屋使っていいンだぞ! 空いてる部屋な!」
「わかった、見に行こう」
「よっしゃー! 案内は任せろ!」

 雨麟は機嫌良く羽鶴の前を行く。時折鼻歌混じりで階段を上りながら、三階に出ると窓枠からの風が鮮やかな桃色の髪を翻した。

「こないだ、羽鶴も住み込みになればいいのになーって言ったら、ほンとになってた。嬉しいなあ」
(雨麟の願い事は叶う……?)
「さてー! 気になる部屋を選びな羽鶴! 開けてある部屋ならどこでもいいぜ」
「閉まってる部屋は使ってるわけだ」
「そゆこと。誰の部屋かは後からな。ふふ」
「うわあ一緒に説明してくれよおお」

 日当たりのよい長い廊下が続く。所々開け放たれた窓枠からは心地好い風が吹き、しばらく歩くうちに木彫りの窓枠の模様が角を曲がる度に違うのだと気が付いた。
 花の窓枠は確か、宵ノ進の別室を使った時に見た模様だ。その他に鳥、風を模したもの、月夜の木枠に出くわした。

「僕、鳥の木枠がいいな。部屋のもそうなんでしょ」
「ほほう、おっけー羽鶴。あとは部屋だな。確か十二部屋ある。一番奥は二つぶち抜きで使ってるから、それ以外だな」
「じゃあ一番手前。迷子になりそうだもの」
「よし決まり! あー、別室はいいのか? 俺らは二部屋もらってンだが」
「僕はいいよ。一部屋もらえるだけで充分だよ」
「そっかー気が向いたら言ってもいいかンな。荷物移しちまおーぜ!」
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