一.後ろを振り向くことなかれ

 二人は走った。日は沈み行く最後の輝きを放って、暗闇を呼び込んだ。同時に、二人の背を遠くから見続け貼り付く視線を感じた。
 距離は一定を保たれたまま、視線だけが付いてくる。榊、と羽鶴が名を溢すと、彼は振り向くなと強く言った。
 旅行鞄の砂利を弾く音が響いて、ずらりと提灯の灯る商店街へ出ると、貼り付く視線が強まった気がした。商店街はちらほらと人がいる。走りながら目をやると、そのすべてが夏祭りで見た白い面をつけていた。
 ――ここで捕まれば終わる。そうなのだと思った。途中から榊が羽鶴の手を引いた。縺れそうになっても、それを感じとり支えながら走る。
 緩い坂へ差し掛かると、背後に走る気配を感じた。視線は更に強く、それだけでも息を詰まらせた。
 籠屋の屋根が見えると、襟を何かが引っ掻いた。

「羽鶴!!」

 榊の叫ぶ声に、羽鶴は背後を気にすることをやめ、引かれるまま懸命に走った。
 籠屋には灯りが入っている。階を追い、開いた門と提灯が見えると、息の上がっている榊が強く羽鶴を引いた。
 羽鶴は息が詰まった。強く襟を引かれ、喉が潰されるのではないかと思った。前へと引いてくれている榊の姿が霞む。彼の強く掴んだ手の感触だけが、羽鶴の意識を繋ぎ止めた。
 耳元でごうごうと音がした。それが燃え盛る炎の音に似ていると思えば、脳裏に大瑠璃の姿が浮かんだ。
 顔を覗き込まれれば、もう榊も見えなくなってしまう。

 二人が門の敷居を越える間際に、激しい地鳴りと怒号が響いた。

「これ以上ウチの家族追い回すんじゃないわよ」

 久しく聞いた店主の声だった。
 門を越え、丸石の上で息を整えている榊と羽鶴に、白鈴が手拭いを差し出した。

「おかえりなさい。虎雄様が羽鶴さんから引き剥がしてくれたよ。籠屋にいれば、大丈夫だからね」

 榊が黒い目を寄越した。羽鶴も息を切らしながらそれに応えると、二人で少し笑った。

「おかえり」
「――大瑠璃……」

 羽鶴は言葉をなくした。玄関先に立つ大瑠璃は、髪がうんと短くなってしまっていた。その上、切り揃える訳でもなく輪郭の辺りで不揃いのまま、本人はどうということはないという顔をしている。

「自分で髪を切ったのよ。あいつを黙らせるのに使えって。あんた、小刀なんて使うもんじゃないわよ」
「煩いな。剥がれたんだからいいじゃない」
「羽鶴さん、大瑠璃、あれで物凄く心配してたんですよ。死ににいく馬鹿があるかーって」
「鈴に電話で聞いたら、門を開けといてくれるから飛び込めって話でな。こっちも大変だったらしい」
「まァ皆中へ入んなさい。今日は香炉ちゃんがもてなすわよォ。羽鶴、あんたは飛び出したりしないで、ウチにいて頂戴。部屋は後から選ぶといいわ」

 羽鶴は言葉にならずにそれぞれの顔を見ながら泣いた。まだこんなに人がいた。いてもいいのだと言ってくれるような人たちがいた。それが、言葉にしない形でも。

「泣き虫だな鶴」
「うるせえよ髪整えろよ大瑠璃いい……!」
「泣き虫に言われたくないね」

 力の入らぬ羽鶴を、榊と大瑠璃が支えながら中へと連れていった。
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