一.後ろを振り向くことなかれ

 旅行鞄を引きながら榊の家へ着いた頃には、日は傾き始めていた。煉瓦造りの塀と門、間に聳える黒い柵。表札の二条院と柵の間から覗ける広い中庭とを何度か見ているうちに、静かな声が羽鶴を呼んだ。

「おかえり榊。今日はありがとう。これまでも。僕は行くよ。日が落ちちゃう」

 帰宅したばかりの榊は羽鶴の鞄を投げて寄越した。少し待て、と言いながら携帯を取り出し電話を掛ける。呼び出しの間に、羽鶴は携帯持たないからな、なんて言いながら電話先で相手が出てからも表情は変わらない。

「ああ。鈴、そうなんだ。そっちもそうだろう。ああ。わかった」

 電話を切ると、榊の黒い目と羽鶴の薄茶の目がしばし間を作る。電話で人の名前を呼ぶことが榊にしては珍しいと、羽鶴は首をかしげる。

「鈴?」
「白鈴。俺の恋人」

 黙ってて悪かった、なんて言う榊に、羽鶴は慌てて首を横に振る。

「いいんだ。今聞いたから。びっくりした……電話持ってたんだ……」
「すぐに連絡取れるように持たせた。細かいことは全部俺が受けてるから問題ない。なあ羽鶴。俺の家へ来るのは初めてか?」
「え? 何度か来てるでしょ」
「よかった。――夏の日は? 夏休み。羽鶴、何してた?」
「……夏祭りに行ったよ。一人で。話しただろ、そこで大瑠璃に会ったって」

 いつだって優しい友人の眼が、母親と似た色を乗せていた。

「その夏祭りの数日前に、夏休みは終わってる。あの美人に会った日、目を覚ましたんだってさ。羽鶴。俺達は夏休みの間泊まり込みで何かをしようとしていた。内容は話し合って決めようか、と全く計画性もなく。羽鶴は隣町から俺の家へ来る途中だった。そうして、撥ねられた」
「榊、何を言って――」

 羽鶴はふと大瑠璃の去った後に続いた光景を思い出す。
 咲き乱れた曼珠沙華。白むほどに眩しいあの日。対岸にいたワンピースの女の子。大きな四角い荷台の車。――車。柊町には車は存在しない。車両といえば鉄二郎が引くような、手押しの荷車くらいのものだ。

「両親は車のない柊町へ越してきた。口止めされてたんだ。羽鶴が入院している間に転校手続きは済んでいたし、目が覚めてからは事故以前の事はあまり覚えていないようだったから」

 縁を焼き付くしながら影を引きずり燃え続ける半円が闇夜を呼んでいる。つられるようにあいつがやってくる。だからその前に、人気のないところへ行かねばと急いたのに。

「榊は……僕のこと、迷惑だと思わない?」
「俺と羽鶴は友人。迷惑だとかは他人に対して考えろ」

 涙が溢れた。おそらくはどうすることもできないだろうというのは、お互いにわかっている筈だった。榊は笑った。ようやく羽鶴に隠し事をしなくて済むと。

「羽鶴、走るぞ。荷物は持ったままでいい」
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