一.後ろを振り向くことなかれ

 只、と宵ノ進は首をかしげた。

「あれが羽鶴様を狙うのだというなら、大瑠璃を刺しにくる方が来たのだと思います。拐い元はわたくし以外には何もしないのですから」

 羽鶴は返す言葉がなかった。呑み込んで自分の考えと結び付けるまでに、途方もなく時間がかかるような気さえしていた。そのような気性だと理解しているように、宵ノ進は少し間を置いてから話を続ける。

「御返事は何時でも構いませんので、ひとつ御願いしてもよろしいでしょうか。引き寄せ刀がいる間、羽鶴様に籠屋へ入ってほしいのです。お渡しした御守りは、羽鶴様を守ります。なれど、限りがあるのです」
「……僕が持ってたら、また宵ノ進が刺されちゃうじゃない。父さんと母さんに、話をしないと。ねえ、宵ノ進」
「どうされました、羽鶴様」
「男娼って、何」
「ええと…………」

 宵ノ進は目を真ん丸にした後視線を外し小首をかしげる。それでは話の大半は通じていたのだろうか、どのように話したら良いものか、と思ううちにだんだんと眉が下がり途方に暮れてしまった。
 しばし考え込む宵ノ進は背後の物音に気が付きそちらを向くも、真っ白な指先が襖を勢い良く開け放ち、ずかずかと裸足で畳を進む着流しの大瑠璃が羽鶴の頭を殴り付けたところだった。

「い、痛い……!! 全力で殴ることないじゃないか!!」
「はァ? 話にならんだろうが鶴。宵を困らすな」
「まさか立ち聞き……」
「馬鹿げた辺りからだよ。通りかかったの鶴を殴るために」
「いっっみわかんないよ!」

 大瑠璃は無表情で羽鶴の頬を殴り付けた。羽鶴は畳に打ち付けられ、よろりと上体を起こし突き刺す視線の方を向けば、漆黒の眼が静かな闘志を持って見下ろしているのである。

「馬鹿野郎。因みに先程の質問だが」

 大瑠璃は羽鶴の胸ぐらを掴むと美しい容姿とはかけ離れた言葉を羅列しその度に頬を打った。暴言と説明とを耳で拾いながら、羽鶴はしなやかに自分を打つ手を掴まえる。

「知らないこと聞いて悪かったよ、調べりゃいいんでしょ!」
「耳の赤いまま聞きやがれ馬鹿野郎。いつまで宵に無理させてんだ」
「え、お話ししようって」
「大瑠璃、わたくしがそうしたのですから羽鶴様を」
「宵、いいから寝てろ。帳簿見てたら杯呼ぶぞ」

 ぴたりと宵ノ進が話すのをやめ、大瑠璃から視線を逸らしては首を横へとふるふる振った。

「さて鶴よ。両親に話をつけてくるなら日暮れ前には戻りなよ。夜は誰も行ってやれない。今晩も馬鹿刀は行くさ。おまえを刺しに。御守りを返せば宵は助かるだろうがね、おまえが死ぬよ」
「大瑠璃やっぱ全部聞いてたんじゃないかあああ……! 何だよ、散々殴っておいて……! 前はキスしたりさ! 意味わかんないよ!」
「鶴は、死なないと言ったから。そうじゃなかったね。今度は自分の言葉で話してごらんよ」

 大瑠璃は羽鶴を襖の向こうへ放った。漆黒の眼が早く行けと促して、とぼとぼと背を向け歩き出す。殴られたことでも、暴言を吐かれたことでも、眼が怖かったわけでもない。ただ一言が、胸へと潜り込んだのだ。

(自分の言葉で……)

 自分という形を保つことに必死だった羽鶴の結び目が、容易くほどかれた日だった。
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