一.後ろを振り向くことなかれ

 羽鶴は走った。荷物も持たず内履きで、行けと促した黒い眼に何も言えずに。
 全力で走った。舗装された道を抜け、剥き出しの地面を駆け、砂利に足をとられながら進んだ先の橋を越え。息を上げ、閉ざされた重厚な門と火の消えた提灯の前に立ち視線を左へとやれば、塀の間に空いた和菓子屋から朝日が茶椅子を出すところだった。

「あれ、鶴ちゃん? 学校は?」
「朝日、宵ノ進は……?」
「宵ちゃん? 帳簿を見てると思うけど。今日は香炉ちゃんが厨房だから」

 ――よかった、生きてた。

「話が、あるんだけど……」

 朝日が呼んできた宵ノ進は、驚いた顔をして朝日と同じことを訊いた。次いで朝の挨拶と、昨日の失態を詫びる。変わらず鉄紺の着物を着て、花の香りをさせる彼に、緩く首を振りながら息を整えて羽鶴は手のひらにお守り袋を乗せて見せた。

「これ、どうして僕に。宵ノ進が必要なものなんじゃないの。宵ノ進を守るものなんじゃ」
「おや、紐が切れていますね。直しましょうか」
「答えてほしいんだ。僕は、昨日の晩引き寄せ刀に刺された。夢かもしれない。でも、そうじゃない気がする。宵ノ進、お願いだから隠さないでよ。僕、これじゃ何にもわからないよ」
「お怪我はございませんか」
「なにも……」
「よかった」
「だから、僕は……」

 どうしようもない距離があるように感じた。安堵したという宵ノ進の微笑みが、影を纏っているような。単に、顔色が優れないようにもとれる。
 朝日は口を挟まずにショーケースの上で折り鶴を作っては並べ、大きめの紙を取り出して折り始めては視線すら寄越さない。

「僕は、何も知らないでいるのが嫌だ。無理をいってるのはわかってる。あれこれ考えて、僕が暮らしている間誰かを傷付けている気がしてだめなんだ。お願い、はぐらかさないで」

 思わず宵ノ進の着物を掴んでいた。その重みに体を前へ傾けた彼は、一瞬金色の眼から光を欠いた。

「宵ノ進」

 彼は前へ傾いた体に逆らうことをせず、驚いた羽鶴に受け止められるに任せた。四肢へ力を入れることを諦めた彼の体は、僅かに背の低い羽鶴でさえ支えることのできる程に軽い。
 ぽそりと、彼は言った。

「わたくしが、身代わりに。次は、わたくしの番ですから」

 昨日の晩、刺された。
 羽鶴は真っ青になった。昨晩、痛みはなかった。ただ眺めていた。夢なのではないかと思えるほどに、感覚もなく。暗い染みができていた。できている筈だった。それは、知り合って日の浅い彼が全部持っていった。お守りを寄越して、自分へと来るように。その上で笑ってみせていた。優しく、皆に慕われ。その危うさに気が付くこともなく。
 今でさえ、普段通りに振る舞う彼がそのままであったなら、また、気が付くことさえなかったのだ。
 朝日は鶴を折っている。羽鶴と眼が合うと、彼女は無理して起きて帳簿を見ていたのだと言ってほんの少し笑うのだった。
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