一.後ろを振り向くことなかれ

「悪かったな、羽鶴」

 羽鶴の一日は先日の詫びをいれる榊から始まった。朝食の席で両親が仲睦まじく繰り広げていた会話も食事の内容さえ覚えていない。眠れなかった訳でもないが、衣服が水を吸ったように全身が重かった。

「謝ることじゃないよ。榊の大切な人なんだから」

 手短に榊が不在の際に体験したことを話したなら、彼は朝食の入った紙袋を机に置いたまま、ぼんやりとしている羽鶴に黒い眼を向ける。

「昨日、変な夢見た」

 朝起きて再度身体中を見るも、傷などひとつもなかった。何もなかったのではないか。ただの悪夢なのではと。

「引き寄せ刀だな」

 普段と変わらぬ静かな口調で、榊は続ける。

「羽鶴を追いかけて、家まで来た。美人は羽鶴が入れてしまうのだろうと言ってたろ。嫉妬の塊だとも。あれは、羽鶴に嫉妬して刺しに来たんだろうな」
「え、僕に嫉妬? というか、傷とかないから夢だと思うのだけど。痛くもなかったし」
「何に対する嫉妬なのかは知らん。だが、籠屋の連中が引き込んでまで守るというのは異常だ。傷がないというのは言葉の通りだ。守ったんだろう、手段は言い切れないが」

 榊は紙袋を開け冷めてしまったコーヒーを口にする。黒い眼はだんだんと青ざめてゆく羽鶴を映しては僅かに細められた。

「お守り……。僕、お守りをもらった。宵ノ進から……」

 些か重みのあるお守り袋の、結び紐が切れていた。
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