一.後ろを振り向くことなかれ

 ふと、羽鶴は目を覚ました。 見慣れた天井は暗く、明かりを点けずに眠っただろうかと頭の隅で思うも、微睡みを引き摺る眼はひときわ濃い闇だまりを捉えた。暗く、深く、羽鶴に覆い被さるようにしてゆっくり伸びた闇だまりは、首をもたげて一点を見つめているように映る。
 ――首。
 羽鶴が思えば、闇だまりは人の形をとった。長い髪が羽鶴の胸へ垂れ、見下ろしたまま笑む。その、浮世離れした見知った顔。

「――大瑠璃」

 小刀が握られていた。降り下ろされた刃は羽鶴の衣服を突き、皮膚を連れ肉を沈めてゆきながら、穴を埋めるように溢れ出ていった血を絡めては再度降り下ろされる。
 不思議と痛みはなかった。何度も刺され、何度も飛び散った血を眼が追った。
 夢なのではないか。そう思うほどに、感覚もなければ恐怖心もない。ただ呆然と降り下ろされる小刀を眺めては、思う。

 どうして。

 優しい奴だった。不甲斐ないばかりに、傷付け続けていた。いちいち言葉を拾って、返せるだけを返してやるような、優しい奴だった。
 言葉を切るだけで突き放すこともできように、できる限りは付き合うような奴だった。

「大瑠璃」

 何の支障もなく出ていった声を拾い上げる者はない。
 羽鶴が視線を体へ向けると、暗い染みが広がってゆくのが見えた。長い髪が胸を滑るには、その淀んだ淵は重すぎる。
 長い髪。浮世離れしたあの美人は、肩までだった筈。

「おまえは、誰だ……」

 問えば、小刀を握ったまま闇だまりは霧散した。信じられないものを見たような顔をして。
 ふと、羽鶴は刺され続けた腹の辺りを撫でた。幾度指を滑らせても、繊維を撫でるばかりで指が窪みへ嵌まる感触を伝えることはなかった。
35/54ページ
スキ