一.後ろを振り向くことなかれ

「なんにも、返せないよ」

 ただ一言、大瑠璃は言った。
 どういう意味なのかと羽鶴が何度訊ねようが、緩く首を横へ振り答えてはくれない。

「なんだよ、僕は死なないよ。引き寄せ刀だってどうにかなるよ。解決できないことなんてあるもんか。大瑠璃、口に出すことを怖がってるんだろ。そうならなくていいようにしようよ」
「曼珠沙華、食べたことある?」
「は? 食べれるの、あれ」
「毒だよ。食べれない」

 急に何を言い出すのかと呆れていた羽鶴は頭の中が真っ白になった。
 大瑠璃が口を塞いだのである。僅かに触れる程度、唇を重ねた彼は、ただただ無表情だった。

「最低だろ」

 離れる際に良い香りまでがふんわりと流れ離れていく。そのくせ緩く笑ってそんなことを言う。
 羽鶴は固まったまま何も言えずに大瑠璃を見つめた。
 彼は、眼に映せど何も見ていない。夏祭りで感じた、何かへの恐怖がちらりと過る。

 “ねぇ、頂戴。羽鶴の持ち物を、ひとつ”

「どうせならすべて食えやしない花になりたかった」

 淡々と吐き捨てる大瑠璃の声に思考の淵から戻れば、羽鶴を見ることもなく部屋からゆるりと出ていく。

「――待って……! 今逃げて、どうするっていうんだ……!」

 気を許したかと思えば離れてしまう。むしろ、彼が予め引いた人との距離はそのように、繰り返されてきたのかもしれない。
 大瑠璃の背を追って、部屋から出たならば廊下は赤い花に埋め尽くされていた。曼珠沙華。
 その花の群れを見るや、ひどい目眩に襲われた。

 大きな車が転がっている――四角い――積み荷が溢れて。
 日照り、アスファルト、霞んで、白い。
 帽子とワンピースの、女の子。――女の子。
 ――白い部屋。両隣にいる誰か。

 羽鶴はずるずると花に吸い寄せられるようにして座り込んだ。選んで着せてくれた白い着物が何故だか遠い日のように感じた。見つめていると、雨麟や大瑠璃に会ったことさえ、そのように感じた。
 無性に、情けなくなった。
 人を振り向かせることのできない自分。引き留められない自分。してもらうばかりの自分。
 それが涙となって、着物へ落ちた。

「鶴ちゃん?」

 綺麗に化粧をした朝日だった。赤い花はなく、ただただ優しい午後の陽射しが廊下に柔らかな色を作り出していた。
 彼女は羽鶴の隣に膝を折ると、ゆっくりと背をさする。そうされているうちに涙が零れ、声を上げて泣いた。
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