一.後ろを振り向くことなかれ
片方は途方に暮れ、もう片方はただ呟いただけなのだろう、視線は誰をも見ておらず、大瑠璃は我に返り慌てふためく隣に構わず思考を乗せないままの顔で考え込んでいるようだった。
「どうしようも何も、朝日が抱きついたンが原因じゃねぇか」
「いつもなら一言二言浴びせながらひっぺがすもん!! 最近はよくなってたんだから!!」
「様子見てから行けよ、普段と違うなーて思ったら他にやり方あンだろ」
「宵は働きすぎなんだよ。たまには休ませようかあはは」
「あのー、話が見えないんですけど。あ、大瑠璃、あとで話がある」
短い上がり眉を吊り上げて睨む雨麟と、涙眼の朝日、隣で考え事をしながら緩い笑いを寄越す大瑠璃の三人が一斉に羽鶴を見た。
「あとで聞いてあげるよ鶴。そうだね宵は放心に近いね。板前が欠けると、料理が遅れて困るって話だよ」
「よいのしん、はやいから……」
「そうそう。虎雄に話つけてくるからそれまで誰も厨房に入らないでね。香炉、火は消してあるよね」
「へいき……」
大瑠璃がさっさと座敷を出ていき、雨麟の隣に座った香炉以外が食事を再開する。雨麟が座っていた座布団を差し出して、お礼を言いながらちんまりと座る香炉と畳に胡座の雨麟がなんとも奇妙なものに感じる。
羽鶴が香炉に食べないのかと訊ねれば、雨麟の向こうから天むすを食べたと返ってきた。
朝日と白鈴に視線をやれば、何やら首をかしげたままの振り袖と何故か泣き出しそうな真っ白着物が黙々と箸を運んでいる。
何かがしっくりこない。
「宵ノ進が抱きつかれたくらいで放心するのって、何で?」
「さァ。知らねえよ、体質なンだろ。羽鶴おめーは料理運ンだら座敷から出て待ってろ、いいな」
「うん。ところでさ、籠屋って時計ないよね。何時まで?」
「あ? 夜中だ夜中。そうか、羽鶴は明日ガッコか。途中で送ってくから気にすンなよ」
オールバック遊女は吸い物に口をつけながら何度か瞬きをした。じっと前を見て、しばし間が空く。
その間に、大瑠璃が戻ってきた。
「今日は大座敷だけになったよ。一、二階の個室はなし」
「超楽だなァおい」
「たまにはね。いい機会だから休ませろって。そのうえ早く閉めていいそうだよ」
「なんという厚待遇……」
「宵ノ進は店主代理だかンな。休みの日すら休まねえし」
雨麟が箸を揃え置く。食べ終わったら一階のどこかにいろ、等と言いお膳を置いたまま座敷を出ていった。
「雨麟、怒ってるのかな……」
「ちがう、煙管……」
紫髪の無表情な黒い目が羽鶴を見つめている。
「あ、あの紅いやつか。というか香炉、僕、何かした?」
「なにも……お膳、そのままでいいから……」
香炉はすっと立ち上がると雨麟のお膳を持って厨房へ入っていった。大瑠璃が入るなとか言ってなかったっけ、などと思い座敷を見回すもその大瑠璃の姿がない。
朝日と白鈴に視線をやると何故か猫の物真似をされたのだった。
「どうしようも何も、朝日が抱きついたンが原因じゃねぇか」
「いつもなら一言二言浴びせながらひっぺがすもん!! 最近はよくなってたんだから!!」
「様子見てから行けよ、普段と違うなーて思ったら他にやり方あンだろ」
「宵は働きすぎなんだよ。たまには休ませようかあはは」
「あのー、話が見えないんですけど。あ、大瑠璃、あとで話がある」
短い上がり眉を吊り上げて睨む雨麟と、涙眼の朝日、隣で考え事をしながら緩い笑いを寄越す大瑠璃の三人が一斉に羽鶴を見た。
「あとで聞いてあげるよ鶴。そうだね宵は放心に近いね。板前が欠けると、料理が遅れて困るって話だよ」
「よいのしん、はやいから……」
「そうそう。虎雄に話つけてくるからそれまで誰も厨房に入らないでね。香炉、火は消してあるよね」
「へいき……」
大瑠璃がさっさと座敷を出ていき、雨麟の隣に座った香炉以外が食事を再開する。雨麟が座っていた座布団を差し出して、お礼を言いながらちんまりと座る香炉と畳に胡座の雨麟がなんとも奇妙なものに感じる。
羽鶴が香炉に食べないのかと訊ねれば、雨麟の向こうから天むすを食べたと返ってきた。
朝日と白鈴に視線をやれば、何やら首をかしげたままの振り袖と何故か泣き出しそうな真っ白着物が黙々と箸を運んでいる。
何かがしっくりこない。
「宵ノ進が抱きつかれたくらいで放心するのって、何で?」
「さァ。知らねえよ、体質なンだろ。羽鶴おめーは料理運ンだら座敷から出て待ってろ、いいな」
「うん。ところでさ、籠屋って時計ないよね。何時まで?」
「あ? 夜中だ夜中。そうか、羽鶴は明日ガッコか。途中で送ってくから気にすンなよ」
オールバック遊女は吸い物に口をつけながら何度か瞬きをした。じっと前を見て、しばし間が空く。
その間に、大瑠璃が戻ってきた。
「今日は大座敷だけになったよ。一、二階の個室はなし」
「超楽だなァおい」
「たまにはね。いい機会だから休ませろって。そのうえ早く閉めていいそうだよ」
「なんという厚待遇……」
「宵ノ進は店主代理だかンな。休みの日すら休まねえし」
雨麟が箸を揃え置く。食べ終わったら一階のどこかにいろ、等と言いお膳を置いたまま座敷を出ていった。
「雨麟、怒ってるのかな……」
「ちがう、煙管……」
紫髪の無表情な黒い目が羽鶴を見つめている。
「あ、あの紅いやつか。というか香炉、僕、何かした?」
「なにも……お膳、そのままでいいから……」
香炉はすっと立ち上がると雨麟のお膳を持って厨房へ入っていった。大瑠璃が入るなとか言ってなかったっけ、などと思い座敷を見回すもその大瑠璃の姿がない。
朝日と白鈴に視線をやると何故か猫の物真似をされたのだった。