一.後ろを振り向くことなかれ

「羽鶴ーぅ!」

 宵ノ進に連れられ、元来た廊下を更に奥へ進むと襖が勢いよく開き、雨麟が羽鶴に飛び付き肩口を掴んでは容赦なく磨き抜かれた床を引きずる。しばらく引きずるといきなりしゃがんだオールバックのピンク頭は声を潜めた。
 つられてしゃがんだ羽鶴は眼を丸くする。

「大瑠璃がものすっげーふきげンなンだけど、なンかしたの羽鶴。部屋で食べるっていうから持ってったら、曇り空ってーか雷雲ってーか、それはもうドロッドロに流れた溶岩みたくなってて凄まじく近寄りがたいンよ」
「溶岩って雨麟お前……というかうん、僕と口喧嘩した感じ。謝ろうと思うんだけど、部屋がどこかもわからなくて」
「口喧嘩!? 大瑠璃と!? 何言ったンよ羽鶴……! あンなン久しぶりに見たわ!」
「二人とも、食事が冷めてしまいますよ。食べてからになさい」

 すっと廊下の真ん中に立つ宵ノ進が恐ろしい。ふんわりしていながら、言い様のない威圧感を時折孕ませる。
 雨麟がいい返事をして背筋をぴんと伸ばしすぐさま羽鶴の手を引き歩き出すと、早足のピンク頭は振り向くなとぽそりと言った。

「何でだよ、振り向いたら何かあるわけ?」

 羽鶴が声を潜めて言うと、雨麟は手を引きながら早足で座敷へと入る。良い香りの先を視線で辿れば部屋の端と端、左右の暖簾へ目がいった。

「あの先が厨房、俺らは大体この座敷で飯食ってンよ」

 雨麟が座布団の上へ腰を下ろす。既に御膳が並べられ、向かいにも同じように二つ揃えられているが人の姿はない。
 雨麟の隣へ座った羽鶴は柔らかな座布団に感嘆しながら頷いた。
 宵ノ進が左の暖簾をくぐり奥へ行ったのを見るや、雨麟は再度声を潜めた。

「さっきの話だけどよ、昔酔っぱらった客がいてな、俺らじゃ手に終えなかったンよ。虎雄はいないし、大瑠璃は非番だし、茶器は壊されるわ座敷のみンな追いかけ回すわ、宥めようにも笑いっぱなしでな。そしたら宵ノ進が何か話してて、げらげら笑いながら客がおとなしくさせてみろよって言ったンよ」

 その時彼は、普段通りの柔らかい物腰で、お望みでしたなら。と言い一度頭を下げてから、客の手をとり奥の部屋まで引っ張っていったという。抵抗した腕や言葉の一切を何事もないようにしながら、座敷にいた皆が呆然としていると、ほどなくして客が両手両膝をついて宵ノ進の後をついてきた。赤子はああして歩くよな、と雨麟は思ったが、前を歩く宵ノ進が「擦らない」と言うと手膝を持ち上げてはそっと畳に下ろしながら進む不格好な生物が蠢いていた。
 返事は、と短く言った声に、客はワンと答えたという。

「その後“おうちはわかりますね”って言いながら首に巻き付けたネクタイの間に請求書挟んでた」
「なにそれ恐ろしい」
「話聞いた虎雄と大瑠璃は笑ってたンだけどな。大抵のことなら普段何も言わないから、言われた時はすぐ言葉の通りにしてンよ。さて、いただきます」

 手を合わせてから食べ始めた雨麟に倣い昼食を頂く。
 前の空席に白鈴がぺこりとお辞儀をしてから座り箸を取ったところで朝日が加わり座敷が一気に騒がしくなった。
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