一.後ろを振り向くことなかれ

「みんな、この容姿を観に来る。観たいのなら、籠屋へおいで」

 夏の終わり頃、瑠璃色の浴衣を夜店の灯りと夜闇にさらして彼は言った。
 無数の提灯が一つの紐で括られ夜店や石畳の両脇を延々と照らしているのだが、彼は灯りに伴う人混みを避けるように外れの大岩に腰を下ろしている。

(来た。ほんとうに来た。――羽鶴)

 彼は呆然と正面に立つ少年へ緩やかな笑みを向けた。真っ直ぐにひかれた石畳は夜店の終わりから剥き出しの土へ変わり、数歩離れた少年の靴の下へと続く。

「君、この世の人じゃないみたい」

 少年の声は些か高く、なれど静かに溶けていく。
 誰もが白い面を被っていた。のっぺりとした曲線に乗る朱の線は何度もうねりその中央を縦に走るという、奇妙な形を見せている。“串”という字に似ていると、少年は思った。
 面ばかりの人々の先に見つけた彼の顔は浮世離れした美しさだった。仄白く、夜闇に浮かぶほどの肌を整った造形と烏羽の髪と漆黒の眼が切り取り、瑠璃の浴衣が映えている。足を止め言葉を探す少年に、最初に言葉をかけたのは彼の方だった。“観たいのなら”と、微笑んで。

「つくりものといわれる」

 彼はただ穏やかに返した。
 少年はその微笑みに息を飲む。目の前の相手にではなく、知りもしない誰かへ向けられた色濃い私憤を垣間見た気がしたのだ。

「ねぇ羽鶴。それ、かき氷っていうんでしょ。少し頂戴」

 肩までの滑らかな烏羽の髪を揺らして彼は座っていた大岩から飛び降りた。漆黒の瞳が真っ直ぐに、頭の先から足元までを捉え柔らかく瞬いては答えを促す。

「何で、僕の名前……知って……」

 羽鶴と呼ばれた少年は、一歩後ずさる。
 考えを見透かすように薄く形のいい唇で微笑んだ彼は、背を優しくさするような、居心地の良さを引っ張り出す澄んだ声で言った。

「この大瑠璃に知らないことがあるとでも? ねぇ、頂戴。羽鶴の持ち物を、ひとつ」
「おおるり……? ――どうして、僕のなんだ。屋台があるだろう」
「一度きりでいい。なんでも、いいから」
「待たせたね。おや、こちらさんは」

 面の人々が行き交う中から細身の男が片手を上げ、萌葱の着物をひらひら遊ばせながら歩いてくる。にこにこと柔らかい笑みと雰囲気を引っ提げて、落ち着いた声でやんわりと言うものだから羽鶴はなんともいえぬ気分になるが、男の笑みは人懐こくそれでいて何か許してしまうものがある。
 癖のある髪の片側に短い三つ編みをした男の手を振るために上げていた腕には夜店のヨーヨーがぶら下がっていた。

(この人も面を被っていない)
 祭りで面を被っていないのはこの場にいる三人だけだった。夜店で面屋を見かけなかったのに、と羽鶴は浮世離れした美人と小首を傾げた三つ編み男を見比べる。どちらも細身で小柄だが、漆黒と丸い金の眼を見るなり、何故だか足がすくんだ。

「……宵、帰る。この人は、鶴の人だよ」

 その一言と微笑みを残して、一礼したヨーヨー男と去る小柄な彼の後ろ姿は羽鶴の脳裏に焼き付いて、以後離れることはなかった。
 羽鶴はすっと息を吐く。呼吸の仕方を忘れていたかのような、浅いそれは安堵だったのか、それとも。
 面の人混みに吸い込まれた二人が見えなくなり、もう一度、息を吐く。
 提灯の灯りが浮かぶ夜闇の先に似た、得体の知れぬ感覚。

(……怖かった……? でも、何に僕は――)

 羽鶴は頭を振って思考を押しやった。考えると、もっと恐ろしくなりそうで。
 夜店で偶然見つけて会話をしただけの、そんな些細なことで頭の一部が持っていかれるなんて。
 羽鶴が手に持つかき氷は生ぬるく、赤色の水になったカップの中身を啜りながら彼の言う籠屋について考えた。確か、観光地の奥に構えるでかい屋敷だったような。

「“観たいのなら”か」

 ふざけたことを。

 それだけの理由で赴くのも、たまには悪くない。
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