一.後ろを振り向くことなかれ
風呂敷包みを大切に持つ宵ノ進が歩く姿はどうにも品があり、和の町並みである観光地を抜けてしまえば目立つことこの上ない。朱で描かれた小槌などの柄を尋ねれば、宝尽くしというそうだ。
花の香りを纏うその礼装に着替えた宵ノ進が後ろをついて歩く様は妙な心地で、羽鶴は歩幅を会わせてくれている彼の隣に並んでみた。
「本当に挨拶に行くんだ。籠屋体験なのにね」
「羽鶴様をお預かりすることになるのですから、御挨拶は必要です」
綺麗な人だ。近くで見ると、尚更そう思う。
ふわふわの髪。透き通り柔らかそうな肌。触り心地が良さそうな、なんて思うのは、彼の春の日のような、何でも許してしまいそうな雰囲気がそうさせるのかもしれない。
穏やかに、どこか嬉しそうな彼は瞬きをしながら優しい金の眼を、空や時折顔を出す庭木や小鳥に向けている。
店主代理だという宵ノ進と二人きりの状況は、初めこそ羽鶴を緊張させたが、彼が振り返る度にふわりと笑うのでだんだんとその雰囲気に慣れてしまったのだった。
「宵ノ進、聞きたいことを、聞いてもいい?」
「ええ。私の知る限りでしたなら」
「何が、好き?」
「お料理が、好きです。喜んでいただけますから」
「他には?」
「花が好きです。とても可愛らしいですから」
「人といるの、好き?」
「わかりません。こうして歩くことはとても心地の良いものだと思います。なれどわたくしは、ただ頷くことさえ難しいと、思うことがあるのです」
彼はどこを見ているだろうか。
優しい声音を紡いだ唇は、今はそう、思います。と静かに言った。
「羽鶴様は、ございますか。好きだと、思うこと」
「僕は。僕はね、宵ノ進。何が好きか、わからないんだ。自分のことなんだけど。なんとなく、何かをして、誰かといて、楽しかったり嬉しいと感じる。けれど僕は、いつも誰かのしていることを、見ているだけなんじゃないかって」
「羽鶴様は、今もそう思われますか」
「え」
「御断りしても、よいのです。わたくしは、羽鶴様が御自分の足で歩いているように思えます」
「宵ノ進、嫌じゃないよ。僕が、籠屋に行ったんだ」
言えばまた、ふわりと笑う。眼を見つめ、瞬いて。
「ほら、ここが僕の家。洋風だからあまり馴染みがないだろうけど」
真っ白い壁にターコイズの屋根。白い柵にグラデーションの効いた植物がぐるりと囲み、正面に花細工の門戸が構える。それが羽鶴の家である。
ピンポーン。インターホンが鳴り、開いたドアから顔を出した人の良さそうな男はきょとんとした後すぐさま後ろに向かって叫んだ。
「ママぁー!! 羽鶴が嫁さん連れてきたぁー!!」
「父さん違うから!! 嫁じゃないから!!」
「遂にこの日が来たか……」
「聞けよ話くらい聞けよ!!」
羽鶴の両肩に手を置いて眼をきらきらさせている男は、門戸の前に立ったまま頭を下げた宵ノ進を見て小声でやったな、羽鶴などと言う。
「遠目に見ても美人じゃないかぁ~よかったなぁ羽鶴、僕はママが一番だけど」
「父さん眼ェ洗ってきなよ。恥ずかしいよ。むしろ全身洗ってきなよ。で正座しとくといいよ」
「あらぁ~っ羽鶴ちゃんお帰りなさい。榊君は? あちらが羽鶴のお嫁さんね、頭を下げなくてもいいのよ、いらっしゃい」
「ただいま、母さん。榊は恋人の緊急コールですっ飛んでった。そして嫁じゃないから。籠屋の板前さんだから」
「御初に御目にかかります、宵ノ進と申します。主人の命にて参りました。お話が済みましたなら、おいとましますゆえ。こちらは、皆の気持ちにございます」
何やら榊の言った妙な言葉遣いというのがほんの少しわかった気がする。羽鶴はふんわりと風呂敷包みを母へ渡す宵ノ進が、遠退いた気がした。
「ママぁ中身は何かな!?」
「黙れ外道」
「もうパパったら。板嫁さんの前ではしたないんだから」
「母さん、混ざってる。ほら宵ノ進きょとんとしてる。玄関の時点でこれは恥ずかしい」
ずっと立たせておくわけにもいかないので、羽鶴ははしゃぐ父を押しやり宵ノ進を招き入れた。
花の香りを纏うその礼装に着替えた宵ノ進が後ろをついて歩く様は妙な心地で、羽鶴は歩幅を会わせてくれている彼の隣に並んでみた。
「本当に挨拶に行くんだ。籠屋体験なのにね」
「羽鶴様をお預かりすることになるのですから、御挨拶は必要です」
綺麗な人だ。近くで見ると、尚更そう思う。
ふわふわの髪。透き通り柔らかそうな肌。触り心地が良さそうな、なんて思うのは、彼の春の日のような、何でも許してしまいそうな雰囲気がそうさせるのかもしれない。
穏やかに、どこか嬉しそうな彼は瞬きをしながら優しい金の眼を、空や時折顔を出す庭木や小鳥に向けている。
店主代理だという宵ノ進と二人きりの状況は、初めこそ羽鶴を緊張させたが、彼が振り返る度にふわりと笑うのでだんだんとその雰囲気に慣れてしまったのだった。
「宵ノ進、聞きたいことを、聞いてもいい?」
「ええ。私の知る限りでしたなら」
「何が、好き?」
「お料理が、好きです。喜んでいただけますから」
「他には?」
「花が好きです。とても可愛らしいですから」
「人といるの、好き?」
「わかりません。こうして歩くことはとても心地の良いものだと思います。なれどわたくしは、ただ頷くことさえ難しいと、思うことがあるのです」
彼はどこを見ているだろうか。
優しい声音を紡いだ唇は、今はそう、思います。と静かに言った。
「羽鶴様は、ございますか。好きだと、思うこと」
「僕は。僕はね、宵ノ進。何が好きか、わからないんだ。自分のことなんだけど。なんとなく、何かをして、誰かといて、楽しかったり嬉しいと感じる。けれど僕は、いつも誰かのしていることを、見ているだけなんじゃないかって」
「羽鶴様は、今もそう思われますか」
「え」
「御断りしても、よいのです。わたくしは、羽鶴様が御自分の足で歩いているように思えます」
「宵ノ進、嫌じゃないよ。僕が、籠屋に行ったんだ」
言えばまた、ふわりと笑う。眼を見つめ、瞬いて。
「ほら、ここが僕の家。洋風だからあまり馴染みがないだろうけど」
真っ白い壁にターコイズの屋根。白い柵にグラデーションの効いた植物がぐるりと囲み、正面に花細工の門戸が構える。それが羽鶴の家である。
ピンポーン。インターホンが鳴り、開いたドアから顔を出した人の良さそうな男はきょとんとした後すぐさま後ろに向かって叫んだ。
「ママぁー!! 羽鶴が嫁さん連れてきたぁー!!」
「父さん違うから!! 嫁じゃないから!!」
「遂にこの日が来たか……」
「聞けよ話くらい聞けよ!!」
羽鶴の両肩に手を置いて眼をきらきらさせている男は、門戸の前に立ったまま頭を下げた宵ノ進を見て小声でやったな、羽鶴などと言う。
「遠目に見ても美人じゃないかぁ~よかったなぁ羽鶴、僕はママが一番だけど」
「父さん眼ェ洗ってきなよ。恥ずかしいよ。むしろ全身洗ってきなよ。で正座しとくといいよ」
「あらぁ~っ羽鶴ちゃんお帰りなさい。榊君は? あちらが羽鶴のお嫁さんね、頭を下げなくてもいいのよ、いらっしゃい」
「ただいま、母さん。榊は恋人の緊急コールですっ飛んでった。そして嫁じゃないから。籠屋の板前さんだから」
「御初に御目にかかります、宵ノ進と申します。主人の命にて参りました。お話が済みましたなら、おいとましますゆえ。こちらは、皆の気持ちにございます」
何やら榊の言った妙な言葉遣いというのがほんの少しわかった気がする。羽鶴はふんわりと風呂敷包みを母へ渡す宵ノ進が、遠退いた気がした。
「ママぁ中身は何かな!?」
「黙れ外道」
「もうパパったら。板嫁さんの前ではしたないんだから」
「母さん、混ざってる。ほら宵ノ進きょとんとしてる。玄関の時点でこれは恥ずかしい」
ずっと立たせておくわけにもいかないので、羽鶴ははしゃぐ父を押しやり宵ノ進を招き入れた。