一.後ろを振り向くことなかれ

「なぁ美人、いくつか質問するがいいか」
「構わないよ」

 茶器を傾ける大瑠璃に、胡座をかいた榊が普段と変わらぬ涼しい顔で問う。

「引き寄せ刀とは何だ」
「嫉妬の塊。執着というものが形を持って、刺しにやって来る。紙風船の中に人が沢山入っているような。昨日は中で揉めたんだろう、中身がひとつ出てきていたから。あれの好きなようにさせて、どうなるのかは知らない。刺された傷は一晩で塞がる。けれどとてもいやな夢を見る」

 傾けた茶器はひとつ雫を垂らしただけだった。空の湯飲みを見る漆黒の眼は、淡々と返した言葉のように静かだ。

「昼間は来ない。夜に彷徨く。この籠屋には直接入れない。ただ、誰かに引っ付いて入り込まれたら、虎雄がいなけりゃわからない」
「それ、籠屋は昼間営業したらいいんじゃない」
「それはね、鶴。この大瑠璃の我が儘なんだ。夕方から店を開けるのは、待っているからだよ。――あ、そうそう。鶴の家には宵が挨拶に行くから、着替えた方がいいんじゃない」
「え!! 宵ノ進が!? なんでまた……」
「支度があるって言ってたろ」
「そうそう。宵は店主代理だもの。家まで案内してあげて」

 大瑠璃はゆるりと立ち上がると、茶器を乗せたお盆を片手で持ちながら襖を開けそのまま奥の廊下へ消えた。

「榊、家までついてきてくれない?」
「理由は」
「二人きりってのが……」

 何事かを言いかけた榊は携帯を見るなり青ざめた。

「すまん、羽鶴!!」
「まさか恋人からの緊急コールか!!」

 頷いた榊はご両親によろしくと言い残し畳んで置いていた制服をひっ掴むと校内首位を争うその脚で廊下を駆けていった。

「相変わらずだなあ榊……」

 榊は授業中だろうが用事があろうが恋人の呼び出しならば必ず駆けていく。寄り道の途中で離脱したこともあれば、行事の途中ですら姿をくらますこともある彼は、理由を「俺が行かなければ死んでしまう」と真顔で言うのである。
 承諾した上での交遊関係だが、羽鶴は少し俯いてしまった。

(しっかりしなきゃ……いつも榊に甘えてしまう)

 頼りない背中を押したり支えたりしてくれる人がいないというのはなんとも心細かった。
 羽鶴は制服に着替えると浴衣を抱え、部屋をぐるりと見回した。

「あ……お代……」
「いらないよ。ひどいめにあわせたからね」

 振り向けば大瑠璃がいた。視線が少し下へゆく。やや羽鶴を見上げる漆黒の眼は二度瞬くと、宵ノ進の支度ができたのだと伝えた。
 大瑠璃が手を伸ばすと羽鶴から浴衣を剥がすように引っ張っては丸めてしまう。ボールを持った子供に似ている、羽鶴はなんとなくそう思った。

「みんなにお礼言わないと……よくしてもらったんだから……」
「宵が聞くよ。さよなら、羽鶴」
「大瑠璃、そんな言い方ないだろ、僕雑用で来るんだし、また顔会わせるじゃないか」
「そうだね」
「なんだよ、もう」

 大瑠璃から視線を外し、背を向けると彼はそっと寄りかかった。

「悪かったよ。心配かけて」

 彼は背に額を当てたまま、ただ一言告げて背を押した。
17/54ページ
スキ