三.菊花百景

「いいかい鶴ちゃん。宵ちゃんが遅いこの場合籠屋に転がり込んでくる可能性がある。さっきの退治の続きだ。鶴ちゃんの思ってた通り、脅威に段階があるのだとしたら奴はさっきの虎雄様とつつにーの札で皮が捲れて次の段階へ落ちたことだろう。ゲームとかでいう最終段階だと助かるんだけれど、そうでない場合は朝日たちも視る必要がある。状態は宵ちゃんにしか見えてないけれど、今日で終わりにしないといけないと思う。で、これ。お札紙飛行機」
「お札紙飛行機……」
「つつにーのお札と虎雄様のお札で折った特製紙飛行機だぞ! 一機限定! ……まあこれをぶつけてどうなるかは朝日もわかんないけど、鈴ちゃんたちみたくクラ~ってはするかも。我々は大瑠璃みたく武器なんて使えないんだから、効果あるのに頼るしかないよね」
「すごいなあ朝日は。服も着替えて別人みたい。なんか司令官っぽい」
「こないだ買ったお気に入りの服だぞ! 朝日ちゃんだって素敵なら洋服は着るのだ!」
「もしかして状況ちょっと楽しんでる?」
「バレた? えへへ~。お札の反動きてないの朝日と鶴ちゃんだけってのもなんだか面白~。残機ニ! ってかんじ!」
「ゲームじゃないんだから……。あ!」

 門の内側で作戦会議もといやや雑談していた朝日と羽鶴の正面から真横をびゅん、と宵ノ進を抱えた鉄二郎が駆け抜ける。同時に門にはびっしりと黒い手形が幾つも空間構わず貼り付いて、羽鶴は息を呑んだが隣に立った朝日が紙飛行機を投げた姿にあ、と思った。また自分は何もしていないと責める思考を押し退けて、強い寒気が這い上る。

「宵ノ進!!」

 声の方を向けば、鉄二郎の腕の中でぐったりと目を閉じた宵ノ進が映った。呼びかけるも反応が無く、声をかけ続ける鉄二郎の息も上がっており朝日が「まずいな」、と呟いた。
 門を出た紙飛行機は何かに当たると黒く染まって破け散った。瞬間、羽鶴は真っ暗闇に呑まれがたがたと震えながらその声を聞いた。

『何故邪魔をする。絹糸は私のものだ』

 嗤うでもなく、叫ぶでもなくただただ静かに発せられた引き寄せ刀の言葉に羽鶴はふつりと怒りを覚える。どれだけの苦しみを与え続ければ気が済むのかと真っ暗闇を睨め付けて、凍えた声を押し出した。

「誰もおまえのものにはならない。渡さない」
『私は絹糸を』
「言うな!」
『絹糸』
「……!」

 真っ暗闇に赤い橋が浮かび、その中央に幾分幼い宵ノ進が立っている。長い髪を簪で纏め上げ、豪奢な着物を重ねられた――暗い廊下で見た、川で泣いていたあの子供の背を引き寄せ刀の真っ黒な手がとん、と押す。虚ろな彼は無抵抗に暗闇へと落ちてゆく。
 ばしゃん、水音の方へ羽鶴が駆けると沈みゆく白い腕をがしりと掴んだ。

「宵ノ進……! 負けるな……!! 僕がいる!!」

 力の入らぬ白い腕の先で、ごぼりと泡が上ってくる。
 あれほど望んだ“誰か”。凍えてたまらなかった身体に伝わる温度。


『死んでしまえ、小僧。我らの邪魔をするな』
「宵ノ進! 今引き上げるから……!」

 羽鶴の耳がひゅ、と音を拾いそちらを振り向けば真っ暗闇から刀が現れ羽鶴の両眼を斬りつけた。

「ああああ……!」

 痛い痛い痛い! 何も見えない!
 どろりとした感触が眼から頬へと纏わりつく。

『守ったか。今度こそ死ね』

 ツツジの最後の札が破け散る。同時に、羽鶴の両眼は開かれ白い腕を強く引く。

「宵ノ進!」

 羽鶴の脳裏に一瞬、舞降る雪が映った。

「葉琴!!」


 ぶわり、花の香りが羽鶴を包む。夢で見た白い着物の子供が羽鶴の前に立っており、顔を埋める花々が暗闇に浮かび上がりそれらは極彩色の花弁をひらひらと散らす。
 子供は真っ暗闇へと手を伸ばすと、現れた刀を叩き折った。

 引き寄せ刀の悲鳴が上がる。お前は誰だと苦しげに問う声に子供は一切応えない。
 花が舞っている。羽鶴の頬を撫でつけて、次々と散ってゆく花が。先程まで凍えていたというのに温かく、次々と現れる刀を折る度に顔を埋める花が散る。

 羽鶴の脳裏にぼんやりと子供達の姿が浮かんだ。
 助けてあげて。小さな唇が動いたきり、子供達の姿は遠退く。
 自分に何ができると責めて生きてきた。どう助けてやれる。
 次々と花が散る。子供の口元が見え、固く引き結ばれた様子に羽鶴ははっとした。この子は、無理をしている。
 咄嗟に子供の手を掴んで走り出していた。その様を嗤う引き寄せ刀が追ってくる。暗闇の中、どこへ逃げるというのだと。
 息が上がる。子供は変わらず現れる刀を叩き折り、その度に花を散らした。

(どこでもいい……! この子が、力尽きてしまう前に帰さなきゃ……! ……、籠屋、籠屋に帰れれば……!)

 羽鶴は暗闇の中を走った。しかしどこにも出口など見つからない。嗤い声が迫る中、籠屋の人々の顔が浮かんだ。
 皆が優しいあの場所に、帰してやらなくては。凍えるようなこの場所から、帰してやらなくては。

 ぽつりと、前方に白い光が見えた。それは子兎であり、羽鶴と子供の方へ黒い眼を遣ればぴょん、と駆け出す。
 羽鶴は子兎を追った。不思議と距離は縮まらず、けれども確かに、子兎の向かう先には光があった。
 追うごとに、光は大きくなる。羽鶴は子供を抱きしめると、光の中へと飛び込んだ。



 光の先に子兎の姿は無く、赤い川がごうごうと流れている。羽鶴が抱きしめていたはずの子供も消えており、さっと青い顔をした心の波を鎮めたのは片腕で抱き寄せられる感触だった。
 花の香り。羽鶴はこれをよく知っている。

「貴方が来てから不思議だった。どうして自分がこんなにも揺れてしまうのかと。けれどわかった気がします。わたくしは、もう一度守る機会を与えられたのだと。貴方に、生きていてほしい」

 対岸の真っ黒な引き寄せ刀が何事かを叫んでいた。けれどそれは羽鶴に届くことなく、強く身体を寄せられて。

「御別れです、引き寄せ刀」

 空を切る音に次いで、ごうごうと唸る川の音が羽鶴の耳に流れた。
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