三.菊花百景

「電話が来たってことは今んところ無事だろぃ、歩いて行こうや」 
「そんな悠長な……」
「話してりゃあすぐさ。怪我だってまだ治りきってねぇだろがぃ」
「それは、そうなのですが……」

 二人は歩きながらぽつりぽつりと話をして、時折沈黙を持った。その僅かな沈黙が耐えられなくて、あの、と声を掛けようとした宵ノ進を鉄二郎の声が遮る。

「また、もう一度俺と付き合ってくれねえかぃ。何も覚えてなくてもいい。そのままで、いいから。もう一度、寄り添わせてほしい」
「わたくし、は……」

 杯の顔が浮かぶ。声が、重ねた指に、温度。
 同時にちかちかと断片が浮かぶ。青い髪、離れた指に、心の砕けた、笑顔。

「これ、は……」

 鉄二郎は恋仲だったと言った。身に覚えがないと振り払ったけれど、けれど、杯への心が鉄二郎との思い出をなぞったものであるならば。

「なんて、ことを……!」

 逃げ出したくて、宵ノ進は駆ける。すぐに捕まってしまうことも、すぐに息が上がることも承知で。相手が追いかけてきてくれるということも、承知で。
 橋の上から身を乗り出そうと置いた片手を掴まれて、宵ノ進は鉄二郎の顔を見つめる。
 ああ、自分は逃げてばかりだ。

「俺は宵ノ進に死んでほしいわけじゃない。一緒に、生きてほしい。添い遂げたいんだ」
「わたくしが鉄二郎と恋仲だったとしても、杯様の……紫京さまのお顔が浮かんでしまう……貴方も。このようなわたくしが、許されて良いはずがない、添い遂げて良いはずがない……!」

 ざあざあと川の声が煩い。その中に、ぽつりと望まぬ名を呼ぶ声がする。絹糸と。

「…………っ!」
「決めてくれ。宵ノ進。どちらからも離れる訳じゃなく。宵ノ進の声で、聞きたい」
「いいえ、いいえ、鉄二郎。わたくしは離れなくては!! 浮かれていたのです、きっと! この手を離してください、あれが来る……!」

 ざば。
 橋の真ん中に、べしゃりと乗り上げたそれは姿が見えずともずるずると体を引き摺り水の跡を残しながら二人に近付く。

「全くもって見えねえが俺にもやばいってことはわかる」
「う……なんて姿……今まででいちばん酷い……ひゃ!」
「悪ぃが走るぞ!!」

 宵ノ進を抱きかかえ走り出した鉄二郎は、ぼそりぼそりと何事かを呟く声を聞きながら急ぎ橋を離れた。びたびたびたびたと追いかけてくる音が近付くにつれ、声が聞こえてきてしまう。

「絹糸、絹糸絹糸絹糸絹糸」
「うるっせぇなああ!! 俺の宵ノ進だ追っかけて来んなってぇのな!!」
「鉄二郎、あれが今ここにいるならば、籠屋に行ってはなりません、皆を、巻き込んでしまう」
「ならどうしろってんでい! 俺の心当たりは……いや俺が影響された時点でだめだった。どうにかできる場所なんて籠屋以外にあるかぃ!」
「……、たしかに、籠屋には入って来れぬ筈ですが……でも……」
「もう手を出しちまったんだろ!? ならとっくに覚悟決まってらぁ!」

 走り続ける鉄二郎の足首に飛沫が飛ぶ。それは熱を持ち激痛を伴う。

「……っ!!」

 歯噛みした鉄二郎は足を止める事無く駆ける。自分はなんにも役に立たなくて、集まってくれた心当たりたちを寝込ませ、うち一名は光を失い。すばめ屋から逮捕者を出し。自分はといえば引き寄せ刀に操られ。助ける、と心に決めたはいいが周りを傷つけてばかりで。

(何が、助ける、だ……!)

 耳障りな水音が近い。脳裏に無数の手が映る。それらが地面を這い迫る様を歯噛みして振り払っては駆け続ける。
 両足首の激痛を耐え速度を落とさず走る鉄二郎の腕の中で先程からおとなしい宵ノ進の様子を見てやる余裕も無く、籠屋の大門に提がる灯りが見えると痛みが増した。

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