三.菊花百景

「宵が帰ってこないんだけど」

 たっぷりの不満を声に乗せた大瑠璃からの電話に、鉄二郎は狼狽える。

「宵ノ進は寝てるんだが……」
「じゃあ迎えに行く」
「俺が! どうにか連れて行くから待っててくれ」
「ハァ? 台車にでも乗せて運んでみろ、ぶっとばすぞ」
「勘弁してくれぃ……」

 最悪そうしようと思っていた鉄二郎は内心どきりとした。

「鉄二郎」
「はいっ!!」
「かわって」
「はいっ!!」
「大瑠璃、もう少ししたら帰ります、ええ、ええ。うっかり眠ってしまって。大丈夫です。一人で帰れますから」

 電話を切った宵ノ進が静かに鉄二郎を見つめる。

「宵ノ進、俺は……」
「いいんです、鉄二郎。これでおあいこです。わたくし、男娼なんですもの。怒ってなどいません、ただ、悲しかったのですけれども」
「それがよ、宵ノ進……その、覚えて、ないんだ。なんにも」
「はぃ?」
「宵ノ進に酷ぇことしたのによ、覚えて、なくてよ」
「きつめに叩いたら思い出しますでしょうか? なれどええ、うん。……………………もしや、鉄二郎の言うところの化け物が影響したのでは?」
「いやなんでそんなに冷静なんでぃ。叩いてくれて構わねぇが、俺が、化物に? それであんな事を? …………だとしてもすまねぇ、傷付けてばかりだな……かっこ悪りぃところばかりでよ。すまねぇ」
「わたくし男娼だと申し上げましたでしょうに。すべてはあれのせいです、…………、先程皆で退治した筈なのですが……。おかしい。悪足掻きにしてはたちが悪い」
「おい、それは……」
「まだ息の根があったなどと……」

 低い声で唸るように言った宵ノ進が出口の方へ駆けたので鉄二郎は追った。橋の上、駆けることの得意ではない宵ノ進に追い付くのは簡単で、すぐに息の上がった様子に鉄二郎は声をかける。

「宵ノ進、大丈夫かぃ?」
「急がねばならぬのに……これほどまでとは……」
「いや無理すんな、どうしたんでぃ」
「皆に……何かあっては遅いのです……」
「いや、そんなぜぇぜぇしてるんじゃ着く前にぶっ倒れちまうだろがぃ。おぶろうか?」
「結構です! わたくし、歩けます」
「おーえらいえらい、歩くと決めたか」
「走らなければいいのでしょう!」
「そんな怒らなくても……」
「自分が不甲斐ないのです」
「いや責めてもなんにもならねぇよ、急ぐことは急ぐけどよ」
「わたくしが甘かった。わたくしの眼に映らぬのであれば、もう終わったのだと。人に害をなすならば、皆が危ない。何事もなければ良いのですが……」
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