一.後ろを振り向くことなかれ

「ほれ。持っていってやンな。ほンとは俺がやることなンだがよ。すまねぇな」

 雨麟が寄越した盆の上には蓋のついた水桶と手拭い、小さな茶器が乗っている。

「ううん、ありがとう、雨麟」

 受け取ると地味に重い。羽鶴よりも背丈の小さな体は一度見上げると「貸しだな」なんて呟いた。

「えっ」
「俺がだよ」

 間を置かず小さな手が羽鶴のもと来た道を指差して、雨麟は賑やかな廊下の奥へと駆けていく。

「さかずきさまぁー! こちらにいらしたンですかぁー! 雨麟さびしゅーございましたぁー!」
「大瑠璃連れてきてよ大瑠璃! 料理の味が違うしやだあぁああ!!」
「あーんしてさしあげます」
「大変そうだな……」

 賑やかを通り越して騒がしい奥の廊下を見つめながら、羽鶴は先程雨麟が指した方を向いた。

「あれ」

 暖簾がない。
 磨かれた階段があるばかりで、長い廊下などどこにも見当たらない。羽鶴はきょろきょろと辺りを見るも、雨麟が駆けていった廊下さえ、見失ったような感覚に陥った。

「なんか、変だ……」

 この建物。

「雨麟」
「あーっ! 誰だよその銀髪ぅ! 今日は貸し切りだって言っただろお!?」

 ずかずかと派手な着物の男が歩み寄り、鮮やかな露草色の髪から覗く橙色の瞳を大きく見開いて羽鶴を指差した。

「雨麟! こいつ誰だ!」
「地元の学生さンですわぁ杯様ァ。オシゴト体験の打ち合わせに来ておりましたのー」

 可愛げある声と仕草の雨麟が、杯と呼ばれた派手な男の後ろですこぶる機嫌の悪そうな顔をしたのを羽鶴は見逃さなかった。

「体験!? ならこいつ大瑠璃に会うの!? 俺も住み込みしたい!! 大瑠璃の私生活に混ざりたい!!」
「恥ずかしいですわ杯様っ! 雨麟困っちゃう!」

 杯という男を見上げる雨麟は眼を潤ませやたらと可愛い顔をしているが、言葉のひとつひとつが別の意味に取れて羽鶴は身震いした。

「大瑠璃は誘ったのに断るしさぁ! 何で!? 何回目!? 最初は一緒にご飯食べてくれたじゃん!! 擦り寄りたい!! 大瑠璃に!!」
「いらっしゃいませ、杯様。大瑠璃は臥せております。腕をふるいますゆえ、どうか」

 似たような背丈の鉄紺の着物が羽鶴の隣に並ぶ。胸をなだめるような花の香りが、羽鶴の思考を掬い上げては柔らかに溶かしていった。

「宵ノ進! 今度はすぐ治るんだろうな!? 見舞いの品を用意するから受け取るんだぞ!」「はい。そのように」
「料理の味が違う! 一番高い料理を持ってこい! すぐにだ!」
「はい。只今御用意致します」
「頼むから大瑠璃に会わせてええ!! お見舞いしたい!! 今日こそ会わせてええ!!」
「なりません」
「倍払うよ!? 好きなだけ払うよ!?」
「御座敷はあちらです」
「宵ノ進も来てくれなきゃやだ!!」
「誰が料理を作るのですか」
「うわあああその乾いた眼ぇやめて!! 兄貴にそっくりな眼ぇするのやめて!!」
「御座敷で御待ちくださいませ」

 慌てて引き返し奥の廊下をずいずい進んでいった杯に丁寧に頭を下げた宵ノ進を、むくれた雨麟が見つめている。

「雨麟、おいで」
「なンだよ」

 ふんわりと、頭を撫でた手に雨麟はそっぽを向いた。撫でられながら、天色の眼はしばらく一点を見つめ、一度大きく瞬きする。

「いつまで撫でてンだ。羽鶴、てめぇも部屋に戻ンな」
「落ち着きましたらお伺い致します。階段を上れば、すぐですから」
「あ、うん、はい」

 丁寧に一礼した宵ノ進はやんわり微笑んで、階段を上るまで見ているのではないかと羽鶴はお辞儀をしてそそくさと階段を上った。
 水差しに気を遣い何も言わなかった彼に聞きたいことを思い返しながら、ただ一度、安堵した。
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