三.菊花百景

 夕刻前の帰り際、疲れた様子の大瑠璃と籠屋へ向かう羽鶴はしばらくの間無言だった。結井郎に話を聞くもよく思っていないのは確かだが刺した覚えはないという、怒りのやりようのない返答に内側から疲れてしまって言葉が出ないようだった。ずっと張り付くのだろうと思っていた大瑠璃が「帰る」と言ったのは羽鶴の予想外で、このだんまりとした美人の考えなど到底予測などできないと知る。機嫌が悪いでもなく、ただ疲れた表情の大瑠璃が心配になって羽鶴は言葉を押し出した。

「明日またお見舞いにいこうよ、僕は学校終わってからすぐ行くよ」
「……」
「今日は店長が泊まり込んでくれるっていうし安心……ううん、やっぱり心配だなあ……」
「虎雄に任せるしかないよ」
「うん……。あのさ、結井郎って人、引き寄せ刀に操られてたんじゃ――」
「わかってる。利用されただけだってのは。でも宵を刺したのも、宵がその馬鹿に怪我を負わせたのも変わらない。たちがわるい、……」

 言葉を飲み込んだ大瑠璃は、一度目を伏せるとそれきり黙った。籠屋に着いても同様で、出迎えた朝日達に「ただいま」と言ったきり自室へ戻ったようだった。
 おかげで、事の次第を皆に話すことになった羽鶴だが、意外にも見舞いに行くと言ったのは朝日だけで、胸の内が一瞬冷えた。

「鈴ちゃんは面会時間に出歩けないから朝日が鈴ちゃんの分も行く。うりちゃんとこーちゃんの分も行く!」
「頼ンだ、朝日」
「あさひ、よろしく……」
「お願いします朝日、羽鶴さん」
「不満顔の鶴ちゃん、鈴ちゃんは日光に当たるとダメだから夜しかお外出れないの。うりちゃんとこーちゃんはお店を護らないといけないの。おっけー?」
「虎雄がいねえから俺らが“代わり”をしなきゃなンなくてよ。籠屋から出れねえンだわ。すまン、羽鶴」
「わかった、僕学校帰りに行ってくるから」
「朝日ちゃん待ってるから一緒にいこ!」
「うん」



 夜、大瑠璃以外と夕食を済ませ風呂と身支度も済ませた羽鶴は早々に布団へ潜り込んだ。みんなが薄情な訳じゃなくてよかった、明日はお見舞いに行かないと、…………。怖かった。
『走って逃げなさい!!』
 あんな剣幕の宵ノ進など見たことがなかった。体が震える。その後、意識が戻らないくらいの目に遭ったのだ。ああ、引き寄せ刀め。ついには人を操ってくるなんて。
 許せない、と思いながら、羽鶴は夢へ落ちる。


 白い、白い世界。
 気がつけば静かに降り続く雪を雲間から白い太陽が照らし視界と足元を埋めてゆく。不思議と寒くなく、肌を撫でる雪粒も溶けもせず積もるばかり。辺りをよく眼を凝らしてみれば、黒い枝葉がちらと見え。

(森……?)

 静かに雪が降り続く世界で、ふいに声を掛けられる。

「ここはさむいよ、こっちへおいで」

 小さな男の子だ。――金の眼の。

「宵ノ進?」
「?」

 きょとんと小首を傾げられ、腰辺りまで伸びた黄朽葉色の髪がさらりと揺れる。白い着物の子供は羽鶴の手を引くと、とてとてと洞穴へ連れ込んだ。
 洞穴には鳥の巣のように敷かれた草木がちんまりとあり、その横には凍った肉やしなびた木の実が転がっている。その一つを摘んでずいと羽鶴へ寄越した子供はじっと顔を見つめてくる。

「ありがとう、あとで食べるよ」
「……」
「わかった、今食べる」

 羽鶴がしなびた木の実を食べると子供はほぅ、と息を漏らして安堵したようだった。

「ねえ、宵ノ進」
「? だれ?」
「えっ……」

 ざあ、と雪が洞穴へ流れ込む。長い黄朽葉の髪が幼い顔を撫でる。

「葉琴」
「はこと……?」

 子供はつられるようにこてんと首を傾げた。

「首、ほしい?」
「そういうこと言っちゃいけません」
「……? ……? いらない……?」
「いらない。自分を傷つけちゃだめだよ」

 洞穴の外で雪が舞う。裸足の子供はにこ、と笑うと雪に変わって消えてしまった。



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