三.菊花百景
その日、鉄二郎に血の気は無かったし、いつまでも顔を上げずに頭を垂れるばかりで、籠屋との間に長い間言葉は無かった。
結井郎、宵ノ進の両者は病院へと運ばれたが、意識を取り戻し痛みに呻いたのは結井郎の方だった。大瑠璃の姿はなく、手術室の前から動かずに項垂れる姿にかける言葉が浮かばなかった。
羽鶴はただただ双方を見るばかりだった。この柊町で重傷患者が出れば、一件だけの病院へ担ぎ込まれるが車両が無い分間に合わなければ死ぬ。間に合いさえすれば助かるのだといわれる名医に託す他ないのだが、滅多に変わらぬ杯の顔色が変わったのを羽鶴は見逃さなかった。
血の気が引く、とはあのような様子を言うのだろうか。見るに耐えない深い傷、いや、表情の抜けた顔を前にして、医師は一瞬狼狽えたのである。
幸いといえば日曜で。救急患者はその二人のみだったという事くらいだろうか。いや、近所に住む小さな子供が通報してくれたおかげで、羽鶴が駆けて助けを呼ぶよりも早く病院に担ぎ込まれる事になったのだが。その子供は当初女の人が刺されていると言っていたという。
手術室の明かりが消えると、項垂れていた大瑠璃がばっと顔を上げ杯を問い詰める。
「宵は?! 宵は無事なの?!」
「傷は塞いだが意識が戻らない」
「鉄二郎! お前んとこの馬鹿が……!」
「大瑠璃、もうおやめ」
諭したのは困り顔の虎雄で、ぎりと歯噛みした大瑠璃はそっぽを向いた。
「……」
「……」
杯と鉄二郎は互いに視線を投げたがそれきりで特に会話は無く、冷ややかな空気に羽鶴は虎雄の裾を握った。
病室に運ばれてからの宵ノ進は静かなものだった。首の包帯以外にどこを怪我したのか羽鶴は知らされなかったが、患者衣をめくるなど憚られるし空気が重すぎるので聞くに聞けない。
大瑠璃が貼り付く無機質な白いベッドに眼をやる。広めの個室で話し声さえせず静かだ。個室という割にホテルよろしく隣室への扉がある。身支度を済ませる部屋のものとは別なので、宿泊者用の部屋なのだろう。
(いやに広いな……入院だからこの部屋なのかな……気を遣ってもらった感じはあるけど……)
羽鶴はふと思い至った。自分は籠屋の外をあまり信用していない。
(なんか……母さんのこと言えないかも僕……)
心配性の母。それを大丈夫だよと毎回諭す父。バランスが取れているなぁと思うことがある。
「入院手続き終わったわよ~ご飯にしましょ。あら香ちゃん達にも電話したわよ。ここ軽食ならあるのよ。取りに行ってお部屋で食べましょ。心配しないの、すぐそこよ」
「俺はいい」
「わかったわ」
部屋を離れるのが不安だと顔に出ていたらしい羽鶴は渋々虎雄についていく。静かに引き戸を閉め、長く歩かぬうちにカウンター越しに軽食を受け取って戻るまでに誰とも会わなかった。
「これ、食器が紙なんだ」
部屋に戻り二人の存在を確認してからまたも渋々隣室へついていった羽鶴はテーブルの上に乗る定食をまじまじと眺め、白い食器を爪でコツコツ叩いている。真っ白な箸を持ちながら、お行儀など一切無視してこちらも音を確かめていると向かいに座る虎雄が優しい顔で眺めていた。
「紙屋が本気出したんですって。食べた後はお盆ごと捨てていいそうよ。洗わなくて済むし、お部屋を離れなくてもいいでしょう?」
「すごいな……でもきっと高コストだ……」
「取り入れる価値があったのね。この建物、奇妙でしょう? 柊町は景観保持なんたらで居住区以外は和モノじゃないといけないのよ。古い建物を壊せないから、改修を繰り返したらこうなったみたいよ。まァ中は半分くらい普通の病院って感じかしら」
「奥に行くほどシンプルだもんね。なんかこう、細かい規制やってらんない感ある……」
「昔杯ボーイが手術室まで文句つけるなって物申したのよ。正規の手段で黙らせたらしいわ。年末の杯ボーイが不在の酒盛りで一度は話題に出る」
「僕その酒盛り出たくない……店長お疲れ様です」
「私もあんたとデートでもしてすっぽかそうかしら。あら固まるんじゃないわよ。本気で予定捩じ込むわよ」
「あーびっくりした。籠屋は年末も忙しいなぁ」
「年末年始はがっつり休むわよ? というかもうクリスマスイヴから休むわよ。挨拶回りはあるけどみんなでゆっくり過ごすことにしているの。あの子達自分の誕生日がわからないから、まとめて大晦日に誕生会してテンションブッチギリのままあけおめするのよ」
「誕生日……」
そうだった。そういえば家に挨拶に来た時に宵ノ進から時代を超えて来ていると聞いてたまげたのを再度思い出した。
「時越えって、全員……?」
「あんたからすればそうなのかもしれないわね。イヤかしら?」
「そうじゃなくて……僕配慮が足りないなぁって思ったから……」
「なんにも気にしなくていいのよ、おばかさんね」
お喋りしながら少しずつ食べ進めた食事は心に味が残らなかった。
結井郎、宵ノ進の両者は病院へと運ばれたが、意識を取り戻し痛みに呻いたのは結井郎の方だった。大瑠璃の姿はなく、手術室の前から動かずに項垂れる姿にかける言葉が浮かばなかった。
羽鶴はただただ双方を見るばかりだった。この柊町で重傷患者が出れば、一件だけの病院へ担ぎ込まれるが車両が無い分間に合わなければ死ぬ。間に合いさえすれば助かるのだといわれる名医に託す他ないのだが、滅多に変わらぬ杯の顔色が変わったのを羽鶴は見逃さなかった。
血の気が引く、とはあのような様子を言うのだろうか。見るに耐えない深い傷、いや、表情の抜けた顔を前にして、医師は一瞬狼狽えたのである。
幸いといえば日曜で。救急患者はその二人のみだったという事くらいだろうか。いや、近所に住む小さな子供が通報してくれたおかげで、羽鶴が駆けて助けを呼ぶよりも早く病院に担ぎ込まれる事になったのだが。その子供は当初女の人が刺されていると言っていたという。
手術室の明かりが消えると、項垂れていた大瑠璃がばっと顔を上げ杯を問い詰める。
「宵は?! 宵は無事なの?!」
「傷は塞いだが意識が戻らない」
「鉄二郎! お前んとこの馬鹿が……!」
「大瑠璃、もうおやめ」
諭したのは困り顔の虎雄で、ぎりと歯噛みした大瑠璃はそっぽを向いた。
「……」
「……」
杯と鉄二郎は互いに視線を投げたがそれきりで特に会話は無く、冷ややかな空気に羽鶴は虎雄の裾を握った。
病室に運ばれてからの宵ノ進は静かなものだった。首の包帯以外にどこを怪我したのか羽鶴は知らされなかったが、患者衣をめくるなど憚られるし空気が重すぎるので聞くに聞けない。
大瑠璃が貼り付く無機質な白いベッドに眼をやる。広めの個室で話し声さえせず静かだ。個室という割にホテルよろしく隣室への扉がある。身支度を済ませる部屋のものとは別なので、宿泊者用の部屋なのだろう。
(いやに広いな……入院だからこの部屋なのかな……気を遣ってもらった感じはあるけど……)
羽鶴はふと思い至った。自分は籠屋の外をあまり信用していない。
(なんか……母さんのこと言えないかも僕……)
心配性の母。それを大丈夫だよと毎回諭す父。バランスが取れているなぁと思うことがある。
「入院手続き終わったわよ~ご飯にしましょ。あら香ちゃん達にも電話したわよ。ここ軽食ならあるのよ。取りに行ってお部屋で食べましょ。心配しないの、すぐそこよ」
「俺はいい」
「わかったわ」
部屋を離れるのが不安だと顔に出ていたらしい羽鶴は渋々虎雄についていく。静かに引き戸を閉め、長く歩かぬうちにカウンター越しに軽食を受け取って戻るまでに誰とも会わなかった。
「これ、食器が紙なんだ」
部屋に戻り二人の存在を確認してからまたも渋々隣室へついていった羽鶴はテーブルの上に乗る定食をまじまじと眺め、白い食器を爪でコツコツ叩いている。真っ白な箸を持ちながら、お行儀など一切無視してこちらも音を確かめていると向かいに座る虎雄が優しい顔で眺めていた。
「紙屋が本気出したんですって。食べた後はお盆ごと捨てていいそうよ。洗わなくて済むし、お部屋を離れなくてもいいでしょう?」
「すごいな……でもきっと高コストだ……」
「取り入れる価値があったのね。この建物、奇妙でしょう? 柊町は景観保持なんたらで居住区以外は和モノじゃないといけないのよ。古い建物を壊せないから、改修を繰り返したらこうなったみたいよ。まァ中は半分くらい普通の病院って感じかしら」
「奥に行くほどシンプルだもんね。なんかこう、細かい規制やってらんない感ある……」
「昔杯ボーイが手術室まで文句つけるなって物申したのよ。正規の手段で黙らせたらしいわ。年末の杯ボーイが不在の酒盛りで一度は話題に出る」
「僕その酒盛り出たくない……店長お疲れ様です」
「私もあんたとデートでもしてすっぽかそうかしら。あら固まるんじゃないわよ。本気で予定捩じ込むわよ」
「あーびっくりした。籠屋は年末も忙しいなぁ」
「年末年始はがっつり休むわよ? というかもうクリスマスイヴから休むわよ。挨拶回りはあるけどみんなでゆっくり過ごすことにしているの。あの子達自分の誕生日がわからないから、まとめて大晦日に誕生会してテンションブッチギリのままあけおめするのよ」
「誕生日……」
そうだった。そういえば家に挨拶に来た時に宵ノ進から時代を超えて来ていると聞いてたまげたのを再度思い出した。
「時越えって、全員……?」
「あんたからすればそうなのかもしれないわね。イヤかしら?」
「そうじゃなくて……僕配慮が足りないなぁって思ったから……」
「なんにも気にしなくていいのよ、おばかさんね」
お喋りしながら少しずつ食べ進めた食事は心に味が残らなかった。