三.菊花百景
「走って逃げなさい!!」
ぴしゃりと言い放った宵ノ進は背を向けて駆け出した羽鶴へ向いた男の体に血の気が引く。これは子供を傷付けるつもりなのだと、殺めてしまう気でいるのだと、その手が握る刃物はああどうして、幼子に気を許したばっかりに。
咄嗟に掴んだ男の腕がいやな音を立てた。怯まぬ憎悪が向けられて、安堵と罪悪感とが綯い交ぜになる。このような眼を向けられて、あの子はさぞ傷付いただろう。恐ろしかったろう。そのようなものなど、知らず、過ごしてほしかった。甘味を食べて綻ぶ顔のままにできたら。あの子は思い出してしまうのではないか、同じ場所を通り気紛れに与えた甘味を誰と食べ刃物を持った男に会ってしまったことを。あの子にいらぬはずの恐怖を。こんなもの、知らずによかったのに。
「若を弄び屋号に泥を塗るでは飽き足らず……! 子供まで誑かすか……!!」
鉄二郎は苦しそうだった。でも良いと言った。格式高いすばめ屋の皆が納得している訳ではないとも聞いていた。この者が行なっていることさえも"泥を塗る"であるのに、せずにはおれぬほどの憎悪に返す言葉がなかった。もとより聞く耳など無い。
紫京は良いと言った。嫉妬するとも。
二人に甘えてしまった。二人から去ればよかった。子供まで巻き込んだ。――子供。
宵ノ進は青ざめた。この男の耳に子供の話が聞こえたなら。自分と関係のあるすべての者たちに危害を加えないなどと手緩いことでは済まされぬのではないのか。行かせてはいけない、この男は。
「ごめんなさい、てっちゃん」
激昂した結井郎が折れていない方の腕を振り下ろした。鎖骨の下に刃物が突き立つ。酷い痛み、引き抜かれ再度振り下ろされる刃物。心の臓を逸れるも、宵ノ進の口から血が溢れると男の力が増した。
揉み合いになった。触れられて気分が悪い。好きな香りがしない。既に片腕を折ってしまった、この者はこの後苦しむだろう、ああ、腕は治るのだろうか、治ったとて、子供を襲わぬだろうか。
押し倒して、男の片脚を折った。叫び呻いた弾みで蹴り飛ばされると、今度は男の方が馬乗りになった。
「――!!」
言葉にならぬ叫び声が上がる。それは憎くて堪らない引き寄せ刀に酷似していた。
血飛沫が上がる。片脚を折った分の重みが胸へと突き立って、宵ノ進はごぼりと血を吐いた。
男の首を絞める。苦しそうに歪める表情に、強い憎悪が宿る。見下し、何を思うのか。握る刃は宵ノ進の喉を貫いて、男は気を失った。
ゆらゆらと、男から黒い煙が立ち上る。霞む視界の中、それは嗤った。
(おのれ、おのれ――)
紫京に貰った小刀を思い出す。あれは、この刀を嫌っていなかったか。
懐に手をやって、握りしめるも鞘を抜くには至らずに、宵ノ進の意識は途絶えた。
ぴしゃりと言い放った宵ノ進は背を向けて駆け出した羽鶴へ向いた男の体に血の気が引く。これは子供を傷付けるつもりなのだと、殺めてしまう気でいるのだと、その手が握る刃物はああどうして、幼子に気を許したばっかりに。
咄嗟に掴んだ男の腕がいやな音を立てた。怯まぬ憎悪が向けられて、安堵と罪悪感とが綯い交ぜになる。このような眼を向けられて、あの子はさぞ傷付いただろう。恐ろしかったろう。そのようなものなど、知らず、過ごしてほしかった。甘味を食べて綻ぶ顔のままにできたら。あの子は思い出してしまうのではないか、同じ場所を通り気紛れに与えた甘味を誰と食べ刃物を持った男に会ってしまったことを。あの子にいらぬはずの恐怖を。こんなもの、知らずによかったのに。
「若を弄び屋号に泥を塗るでは飽き足らず……! 子供まで誑かすか……!!」
鉄二郎は苦しそうだった。でも良いと言った。格式高いすばめ屋の皆が納得している訳ではないとも聞いていた。この者が行なっていることさえも"泥を塗る"であるのに、せずにはおれぬほどの憎悪に返す言葉がなかった。もとより聞く耳など無い。
紫京は良いと言った。嫉妬するとも。
二人に甘えてしまった。二人から去ればよかった。子供まで巻き込んだ。――子供。
宵ノ進は青ざめた。この男の耳に子供の話が聞こえたなら。自分と関係のあるすべての者たちに危害を加えないなどと手緩いことでは済まされぬのではないのか。行かせてはいけない、この男は。
「ごめんなさい、てっちゃん」
激昂した結井郎が折れていない方の腕を振り下ろした。鎖骨の下に刃物が突き立つ。酷い痛み、引き抜かれ再度振り下ろされる刃物。心の臓を逸れるも、宵ノ進の口から血が溢れると男の力が増した。
揉み合いになった。触れられて気分が悪い。好きな香りがしない。既に片腕を折ってしまった、この者はこの後苦しむだろう、ああ、腕は治るのだろうか、治ったとて、子供を襲わぬだろうか。
押し倒して、男の片脚を折った。叫び呻いた弾みで蹴り飛ばされると、今度は男の方が馬乗りになった。
「――!!」
言葉にならぬ叫び声が上がる。それは憎くて堪らない引き寄せ刀に酷似していた。
血飛沫が上がる。片脚を折った分の重みが胸へと突き立って、宵ノ進はごぼりと血を吐いた。
男の首を絞める。苦しそうに歪める表情に、強い憎悪が宿る。見下し、何を思うのか。握る刃は宵ノ進の喉を貫いて、男は気を失った。
ゆらゆらと、男から黒い煙が立ち上る。霞む視界の中、それは嗤った。
(おのれ、おのれ――)
紫京に貰った小刀を思い出す。あれは、この刀を嫌っていなかったか。
懐に手をやって、握りしめるも鞘を抜くには至らずに、宵ノ進の意識は途絶えた。