三.菊花百景
早朝、羽鶴らは山にいた。先を歩くのはいつもの着流しに草履の大瑠璃、にこにこと羽鶴の様子を見ながらゆっくりと歩く宵ノ進。背中には籠を背負い、中には早起きして作ったお弁当。緩い上り坂でぜえぜえいう羽鶴に、宵ノ進が声を掛ける。
「羽鶴様、一休み致しましょうか。大瑠璃、こちらへ」
「ん、鶴は登るの初めてだっけ」
「何で二人とも草履で平気なんだ……」
「鶴こそスニーカーでよく登るもんだ。草履ならうんとあるのに」
「すに……? 炭……?」
「僕は着物で山登りなんて無理ですー! ていうか何で山? 近いけどさー!」
「羽鶴様どうぞこちらへお座りくださいまし。お水をどうぞ」
倒木の上に小奇麗な布を敷いて手招きする宵ノ進の言うままに座った羽鶴は適当な岩に腰掛ける大瑠璃とそこいらの草地にちょんと座った宵ノ進とを見比べて小首をかしげる。何だろういつもと違うような。
「紅葉はこれからですねぇ」
「少し早かったね」
「二人とも着物汚れない? 大丈夫?」
「ご心配なさらず、見合うものを選びましたゆえ」
「昨日準備してって言ったじゃない鶴」
葉の緑が深い。所々黄色く色付いている木もあるが、秋とはいえ二人が会話していたようにこの山は少し紅葉が遅いのだろう。夏季よりも艶の減った草地を撫でる宵ノ進と、岩肌を撫でる大瑠璃とで羽鶴は唐突に夏祭りの夜を思い起こした。
「夏祭りの時も岩に座ってたよね」
「そうだね、宵が見つけやすいようにしていただけなのだけれど」
「他の人達がみんなお面をかぶってて今思えばちょっと怖かったかも……変な柄だったし……」
「ああ面祭りだからね。特に倣う気も無いから面は持たなかったのだけれど」
「面祭りか……聞いたことなかったな……」
「鶴はよく一人で来れたね」
「僕あんまりどうやって行ったか覚えてないんだよね……ぼーっとしてたかも……」
「おやまあ」
「そういえばどこまで行くの? 帰り道わかる?」
「この山ならね。川だよ川。もうすぐだから辛抱しておいでよ」
「釣りでもするの? 釣り竿も持ってないけど」
「行ってからでいいでしょ。さあ鶴、宵、行くよ」
「空気が澄んでますねぇうふふ」
「宵ノ進嬉しそうだね」
「ええ、山は好きなのです」
羽鶴は歩き出した二人を見ながらほっと胸を押さえる。ちらりと見てしまった過去の宵ノ進は自然の中で酷い目に遭っていたから。思い出してパニックになるのではないかと案じていたのである。
どうも杞憂だったようで木々や葉を見ては金の眼を輝かせている。
「あ、川が見えましたよ!」
「ほんとだすぐそこだったんだね」
「鶴がへばるから」
「悪かったな」
さらさらと流れる川へ宵ノ進が近付いて腰を落としては水を手で受けている。冷たい、と些か嬉しそうな声音で言うので少し和んだ羽鶴の隣でばしゃりという音が。そちらを向けば、着物をたくし上げ川へ入った大瑠璃がジッと川底を見つめ動かずに、透明で透き通った川に勢い良く両手を突っ込むと見事に一匹の大物を捕まえて見せたのである。
宵ノ進の背負っていた籠へ放ると、ビチビチと中で暴れる魚に宵ノ進がわあ、と手を合わせ目を細める。また川へと入った大瑠璃は二匹、三匹と魚を捕らえると「冷たい」と言って川原へ腰を下ろした。
「大瑠璃凄……素手で捕まえるとかお前熊だったの?」
「無傷のが美味しいから」
「わあ、大瑠璃捌いていいですか?」
布で包んだ包丁を取り出した宵ノ進がきらきらとした笑顔を見せている。何だろういつもより二人とも元気な気がする。
「二人ともいつもより元気な感じでいいね」
「息抜きしないとね。山は慣れているんだよ。ほら鶴御覧よ、魚の心臓だよ」
「三角だ……へえ……って捌くの速いな?! さすが板前だ……」
「わたくしは内臓も頂けるのですけど皆に止められまして……はあ、何故でしょうあんなに美味しいのに……」
「宵だけだからねそれ他人には黙っといてね」
「塩焼きにしましょうね」
「宵ノ進モツ煮とか好きでしょ僕直感がそう言ってるよ好きでしょ」
「はあ良いですね、美味しくて。捌いている時から思うのです、こんなにも綺麗で美味しそうだと。ふふふ、そのままでも良いですよね、皆に止められるのですけれど」
「そういえばお肉料理ってないよね、今度食べたいな……」
「ええ、ええ勿論ですとも。羽鶴様を御満足させられる自信が御座います。うふふ、楽しみですね、楽しみですね」
「鶴、宵に肉料理は」
「大瑠璃も食べたいでしょう? わたくし腕を振るいますゆえ……うふふ、ふふ……」
うっとりと包丁を握る宵ノ進に漸くなんかおかしいぞこれと気付いた羽鶴だが遅し、大瑠璃が溜息をついている。
「ああ言う感じで暫く自分の世界から帰ってこれないから肉料理は出してなかったんだよ。出せば絶品なのだけど、板前が使い物にならなくなるのは困るでしょ。出すとしても宵に会わない条件付きで最後に、とかね。殆ど肉は香炉に任せていたけど一度夏馬が宵の肉料理が食べたいと駄々を捏ねてね。出したら出したで半日使い物にならなかった。夏馬は満足してたけどね」
「どうしてそんな……あっ」
「へぇ、わかったわけ」
「うん……鬼だから……」
「そうだよ鶴。宵は臓物を生で食べれるし好んでもいるけどみんなで止めてるんだよ。せめて火を通すか刺身辺りにしてくれない? ってね。まず人だよ、宵は。忘れさせちゃいけない」
木の枝に刺して焼いている魚からぱちぱちと音が立っている。
「大切なんだね」
「だから連れて来た。山は宵が元気になるから。昔山暮らしだったそうだよ。だからかな、山に来ると子供のようで……」
「大瑠璃も元気そうだよ。素手で魚捕まえられたりさ。凄いよ」
「父に」
ひとつ間が開く。
「父に教わったから。教えるのが上手かったんだと思う」
「へえ、凄いね。僕も父さんにスケボーとか教えてもらって遊んだ覚えあるなあ。魚の掴み取りはないけどさ。母さんが魚を捌けなくてやってあげたりとかさ。なんだか懐かしいなあ……元気にしてるかな……」
「ホームシックとか言わないよね?」
「誰が言うか! 僕の意思で家を出たんだ! まったく。……そういえば二人は時越えなんだよね? 両親は心配してないの? こっちに来てるの?」
「いや……父は病で死んだし……母は……」
自分の名を呼ぶ悲鳴が頭から離れない。
「知らない。生き別れたからどうしているのかわからない」
「咲夜」
「うるさいな、何」
「不躾だった、ごめん」
「何にも悪くないよ鶴。本当のことでどうにもできなかったんだから」
「宵ノ進は家族がわからないって言ってたから……二人とも、ごめん」
「しんみりするために山に来たんじゃないんだけど」
「うう……」
「あ、大瑠璃羽鶴様焼けましたよ!」
「宵ノ進戻って来たか」
「? 良い焼け具合かと」
「羽鶴様、一休み致しましょうか。大瑠璃、こちらへ」
「ん、鶴は登るの初めてだっけ」
「何で二人とも草履で平気なんだ……」
「鶴こそスニーカーでよく登るもんだ。草履ならうんとあるのに」
「すに……? 炭……?」
「僕は着物で山登りなんて無理ですー! ていうか何で山? 近いけどさー!」
「羽鶴様どうぞこちらへお座りくださいまし。お水をどうぞ」
倒木の上に小奇麗な布を敷いて手招きする宵ノ進の言うままに座った羽鶴は適当な岩に腰掛ける大瑠璃とそこいらの草地にちょんと座った宵ノ進とを見比べて小首をかしげる。何だろういつもと違うような。
「紅葉はこれからですねぇ」
「少し早かったね」
「二人とも着物汚れない? 大丈夫?」
「ご心配なさらず、見合うものを選びましたゆえ」
「昨日準備してって言ったじゃない鶴」
葉の緑が深い。所々黄色く色付いている木もあるが、秋とはいえ二人が会話していたようにこの山は少し紅葉が遅いのだろう。夏季よりも艶の減った草地を撫でる宵ノ進と、岩肌を撫でる大瑠璃とで羽鶴は唐突に夏祭りの夜を思い起こした。
「夏祭りの時も岩に座ってたよね」
「そうだね、宵が見つけやすいようにしていただけなのだけれど」
「他の人達がみんなお面をかぶってて今思えばちょっと怖かったかも……変な柄だったし……」
「ああ面祭りだからね。特に倣う気も無いから面は持たなかったのだけれど」
「面祭りか……聞いたことなかったな……」
「鶴はよく一人で来れたね」
「僕あんまりどうやって行ったか覚えてないんだよね……ぼーっとしてたかも……」
「おやまあ」
「そういえばどこまで行くの? 帰り道わかる?」
「この山ならね。川だよ川。もうすぐだから辛抱しておいでよ」
「釣りでもするの? 釣り竿も持ってないけど」
「行ってからでいいでしょ。さあ鶴、宵、行くよ」
「空気が澄んでますねぇうふふ」
「宵ノ進嬉しそうだね」
「ええ、山は好きなのです」
羽鶴は歩き出した二人を見ながらほっと胸を押さえる。ちらりと見てしまった過去の宵ノ進は自然の中で酷い目に遭っていたから。思い出してパニックになるのではないかと案じていたのである。
どうも杞憂だったようで木々や葉を見ては金の眼を輝かせている。
「あ、川が見えましたよ!」
「ほんとだすぐそこだったんだね」
「鶴がへばるから」
「悪かったな」
さらさらと流れる川へ宵ノ進が近付いて腰を落としては水を手で受けている。冷たい、と些か嬉しそうな声音で言うので少し和んだ羽鶴の隣でばしゃりという音が。そちらを向けば、着物をたくし上げ川へ入った大瑠璃がジッと川底を見つめ動かずに、透明で透き通った川に勢い良く両手を突っ込むと見事に一匹の大物を捕まえて見せたのである。
宵ノ進の背負っていた籠へ放ると、ビチビチと中で暴れる魚に宵ノ進がわあ、と手を合わせ目を細める。また川へと入った大瑠璃は二匹、三匹と魚を捕らえると「冷たい」と言って川原へ腰を下ろした。
「大瑠璃凄……素手で捕まえるとかお前熊だったの?」
「無傷のが美味しいから」
「わあ、大瑠璃捌いていいですか?」
布で包んだ包丁を取り出した宵ノ進がきらきらとした笑顔を見せている。何だろういつもより二人とも元気な気がする。
「二人ともいつもより元気な感じでいいね」
「息抜きしないとね。山は慣れているんだよ。ほら鶴御覧よ、魚の心臓だよ」
「三角だ……へえ……って捌くの速いな?! さすが板前だ……」
「わたくしは内臓も頂けるのですけど皆に止められまして……はあ、何故でしょうあんなに美味しいのに……」
「宵だけだからねそれ他人には黙っといてね」
「塩焼きにしましょうね」
「宵ノ進モツ煮とか好きでしょ僕直感がそう言ってるよ好きでしょ」
「はあ良いですね、美味しくて。捌いている時から思うのです、こんなにも綺麗で美味しそうだと。ふふふ、そのままでも良いですよね、皆に止められるのですけれど」
「そういえばお肉料理ってないよね、今度食べたいな……」
「ええ、ええ勿論ですとも。羽鶴様を御満足させられる自信が御座います。うふふ、楽しみですね、楽しみですね」
「鶴、宵に肉料理は」
「大瑠璃も食べたいでしょう? わたくし腕を振るいますゆえ……うふふ、ふふ……」
うっとりと包丁を握る宵ノ進に漸くなんかおかしいぞこれと気付いた羽鶴だが遅し、大瑠璃が溜息をついている。
「ああ言う感じで暫く自分の世界から帰ってこれないから肉料理は出してなかったんだよ。出せば絶品なのだけど、板前が使い物にならなくなるのは困るでしょ。出すとしても宵に会わない条件付きで最後に、とかね。殆ど肉は香炉に任せていたけど一度夏馬が宵の肉料理が食べたいと駄々を捏ねてね。出したら出したで半日使い物にならなかった。夏馬は満足してたけどね」
「どうしてそんな……あっ」
「へぇ、わかったわけ」
「うん……鬼だから……」
「そうだよ鶴。宵は臓物を生で食べれるし好んでもいるけどみんなで止めてるんだよ。せめて火を通すか刺身辺りにしてくれない? ってね。まず人だよ、宵は。忘れさせちゃいけない」
木の枝に刺して焼いている魚からぱちぱちと音が立っている。
「大切なんだね」
「だから連れて来た。山は宵が元気になるから。昔山暮らしだったそうだよ。だからかな、山に来ると子供のようで……」
「大瑠璃も元気そうだよ。素手で魚捕まえられたりさ。凄いよ」
「父に」
ひとつ間が開く。
「父に教わったから。教えるのが上手かったんだと思う」
「へえ、凄いね。僕も父さんにスケボーとか教えてもらって遊んだ覚えあるなあ。魚の掴み取りはないけどさ。母さんが魚を捌けなくてやってあげたりとかさ。なんだか懐かしいなあ……元気にしてるかな……」
「ホームシックとか言わないよね?」
「誰が言うか! 僕の意思で家を出たんだ! まったく。……そういえば二人は時越えなんだよね? 両親は心配してないの? こっちに来てるの?」
「いや……父は病で死んだし……母は……」
自分の名を呼ぶ悲鳴が頭から離れない。
「知らない。生き別れたからどうしているのかわからない」
「咲夜」
「うるさいな、何」
「不躾だった、ごめん」
「何にも悪くないよ鶴。本当のことでどうにもできなかったんだから」
「宵ノ進は家族がわからないって言ってたから……二人とも、ごめん」
「しんみりするために山に来たんじゃないんだけど」
「うう……」
「あ、大瑠璃羽鶴様焼けましたよ!」
「宵ノ進戻って来たか」
「? 良い焼け具合かと」