三.菊花百景

 どうして、どうして、どうして。
 小さな子供は泣きじゃくり、思うように動かぬ身体。ああ、どうして。指が動かぬ。口が動かぬ。ああ、子供が泣いている。黒い影がもぞりと蠢く。やめろ、その子は。
 ぼたり、どうしてかお守り袋が震えた足元に落ちていた。

「…………」

 天井と布団の温かさに羽鶴はゆるゆると瞬いた。ずきり、痛む頭が一気に気分を曇らせる。
 おかしな夢を見た。いや、籠屋に来てからというもの夢見はよろしくないのだが、頭痛までこられては気分に関わるものである。薬はあるだろうか。身体を起こせば尚痛む頭に舌打ちをして、布団を畳んで制服へ着替える。顔を洗って手拭いで拭く頃にはがんがんと痛み立つのがやっとであった。

(薬でなんとかなるかな……)

 ふらふらと、階段を伝って一階へ降りたはいいが。いつもの座敷で出くわした雨麟が短い眉を八の字に下げる。

「羽鶴、具合悪ィンじゃねぇのか? 顔色悪ィぞ」
「頭が痛くて……薬ある? 雨麟」
「あるけどなンか食わねえと。つーかガッコ行けそうか? 俺は無理な感じすンぞ。ほれ、座った座った」

 座布団を勧められるままに座った羽鶴はくらくらとする視界を歯をくいしばることで耐えていた。様子を見た雨麟がぱたぱたと駆けて行っては既に座敷の端に布団一式を用意しており、一枚の紙切れを見せる。

『学校には電話しておいたワ、休め』

 ハートがあちこちに書かれていたが突っ込む気力も無く、羽鶴は野菜や豆のおかずを少しつまむと薬をもらい座敷の端に寝かされた。


「へぇ、珍しい。鶴でも寝込むことがあるわけ」
「どうしましょう大瑠璃、わたくし出かけぬ方が良いのでは……!」
「いや二人とも用事あンなら行ってこいよ、俺らが見てるからよ」

 がんがんと痛む頭の向こうで小さく声がする。構わず行けと思うのだが声を出すのも億劫で、ただただ痛みに耐えながら眼を閉じる。ああ、お守りを返し損ねてしまう。けれども指の一つ動かしたくはない、帰ってきてからでいいだろうか。

「鶴をよろしく。ほら宵、行くよ」
「うう……看病しとうございます……」
「いいから」

 気配が二つ遠ざかり、厨房から洗い物をする音だけが聞こえる。薬がだんだんと効いてきたのか、気がつけばすこんと眠ってしまっていた。



「障りが出たのかもしれませんねぇ」
「てーと、治るンか? これ」

 雨麟は壁掛け電話の向こうがはれ、と困り顔をしたのを気配で察した。

「行って祓えば楽なのですがね、足が痛くて山を下りれぬのですよ」
「えっつつ兄足怪我したンか?! 羽鶴といいどーなってンだ!」
「昨晩急に腫れましてねぇ。ほら、例の声に嗤われたと言っていたでしょう。雨麟も気をつけることです。でも私の弟ですから、いいようにはさせませんけれど。他が気掛かりですねぇ」
「こういうのって耐性ないトコから崩れるよな。つつ兄また身代わりやったろ。山登りばっちりなその脚が腫れるなンざ聞いたことねえもンよ」
「はてねぇ。弟、可愛いんですもん。だってあの子、……じゃ……です……か……」
「つつ兄電話遠いンだけど? つつ兄?」
「……………………、ああ繋がった、雨麟、じきゆきますから、それまで持ちこたえてくださいね。部屋に札があるでしょう、それを使っておきなさい」
「わかったけど無理すンな……って、切れてら……」

 電話が嫌いな兄からの忠告に雨麟はしばし考え込む。これはだいぶまずい。言われた通りに部屋へしまっていた札を取りに行き、勝手ながらも自身と羽鶴の部屋の前に貼り付ける。すれば、白い紙は羽鶴の部屋に貼った途端に黒く染まりひらりと落ちた。

「試験紙じゃねぇンだからよマジでよ……」

 溜息交じりに黒い札を拾った雨麟は庭先で焼くとすることとしたのであった。
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