三.菊花百景

 夜、何故だか眠れなかった。みんなで美味しくご飯を食べて、お風呂もいただいておやすみと、何の荒事もないというのに、どうしてか目が冴えて布団から身を起こしてしまった。部屋の中をうろうろ、うろうろ、尚の事目が冴えて一度頭を抱える。明日も学校があるのに、と羽鶴は頭の隅で思った。

(水でも飲んで寝直そうか)

 思えど、襖の前で立ち止まる。また様子の妙な宵ノ進がいたらどうしよう。そういえば、噛んだ部分は大丈夫だろうか。何事もなく抹茶を飲んでいたけれども、痛くない血の量ではなかった。
 再度うろうろ、うろうろ。そうだ、散歩しよう。思い立った羽鶴はそっと襖を開けて薄暗い廊下へ出た。
 秋の夜、ひやりと貼り付く床を歩いているのを見つかれば、また世話を焼かれるのだろうかと暗くてよく見えない周囲を警戒しながら壁に手を添え進んで行く。突き当たりには籠に入った壁掛け行灯がぼやりと灯りを寄越していたが、左右を見遣ると奥は静かな闇溜まりで息を呑む。振り返れば何が起こるかわからない。
 そうだ、一周しよう。もし突き当りに出くわしたら壁に沿って方向転換すればいいのだ。多分、いやきっといける、そうでなくては困る。既に進んでしまったのだから。

(右に行ったら花枠の方だよね……もう倒れたくないから逆行こう逆……)

 そろりと左に進んだ羽鶴は鳥の枠組みが月夜の枠になる頃はっとした。

「一周したら花枠も通るじゃん!!」

 馬鹿なのか、としゃがんで頭を抱えるも既に出てしまった。ついでに言うと下へと降りる階段も過ぎてしまった。別の道に逸れる行程が思い浮かばない。そもそも内部の構造なんて殆ど知らない。

(途中でぐにゃぐにゃーって花枠を通らなくていい道があればああ……!)

 もう正直に怖いから通りたくない。なにがあるのかわからない実態の掴めないようなものを日本人は怖がるらしいと榊が言っていたことがあるがどこまで本気なのかもわからない。個人的には生きた人間が一番想像がつかなくて怖いのだが。

(…………、はあ。大丈夫、ここは、大丈夫だ)

 籠屋のいい匂いがする。誰も明確な悪意を以て接したりはしない。
 悪意。羽鶴は身震いした。ひとつ覚えがあった。引き寄せ刀が大瑠璃を刺した時、先日の嗤い声のどちらにもそれは乗っている。
 自分の違和感はそれなのではないか。榊は急だと言っていて、それが悪意ある行動で現されるなら。

(だめだこれ、悠長に考えてる場合じゃない……でも僕に何ができる……!?)

 悪意を撒く者にとって人数は重要ではない。目的が果たせればよい。
 大瑠璃の方は刺しはせど命は奪わない。じめじめどろどろとした嫌なものを感じる。あるとすれば、宵ノ進の方だ。

 誰か。誰かに伝えねば。想像以上に危険な状態なのではないのかと。買い物の荷物持ちにされるような日常に、切り込みを入れようとしている悪意がたしかにあるのだと。

(もうバレようがどうだっていい、店長……! 店長はどこにいるんだ……! この階のどこかなのか……?)

 たしか雨麟は案内した時使っていない部屋は戸が開いていると言っていた。ともなれば閉まっている部屋を不躾ながら訪ねて回るしかない。しかし、広い籠屋、伝い歩いている壁沿いに使っている部屋はあるのだろうか。
 ひたひた、ひたひた。月夜の枠を歩けどどの部屋も戸は開いていて、人の気配も無く羽鶴は焦った。どうしても早く誰かに伝えねばならない気がしていた。悪意がそこにあると頭の隅に置くことで何か対策ができればと思うのだ。同時に、これも引き寄せ刀の策略であったならどうしようと胸が跳ねた。皆を不安にさせてしまうこととなる上に、いやでも引き寄せ刀が悪意をもってそこにいるのだと常に意識させてしまう。それで相手に利があったら。

 しかし何かをせずにはいられない。悶々と、他のことが手につかないような性分と住人の優しさが浮かんで羽鶴を動かしていた。単純に、優しい人々が傷つくのは嫌だった。心配性の母の困り顔が浮かんだ。宥める父の顔も。


(あああああだめだ誰もいない……! 壁沿いの部屋誰も使ってないい…!! 階段もないし夜だし……!! うわああ枠も雲っぽいのに変わってるううう!! いや風か……? 結構歩いたもんな僕! みんな内側か! 内側使ってるのか! でも内側行ったら僕完全に迷子だな!!)

 壁沿いの灯りにぽつりと照らされながら進む羽鶴は突如出現した突き当たりにばっと横を向いて青ざめた。

「花枠だ……!」

 突き当たりは部屋になっている。戸が半分開いているので覗くと暗くて殆ど見えやしない。うっすらと廊下とは違う心地好い香りが鼻先を掠めて、何故だか眠り落ちるように一度意識が飛びかけた。
 いやいやいや、と羽鶴は頭を振って耐える。既に謎現象なのか単に眠いのか判らずにいるがここはまずいと覗き込んでいた顔を引っ込めた。
 そして進行方向の廊下を見るや、闇。進むのが躊躇われる真っ暗闇。

「なんで灯りないんだよおおおおおおおおおおおおおお」

 思わず叫んだが闇だまりは変わらない。振り返ってはならないがとっぷり暗い闇だまりの中へ行くのも同じような気がする。どっちも嫌だ、無事部屋へ戻れるのだろうか。

「だいぶうっさいぞー鶴ちゃん!」
「はああああああああその声は朝日! 朝日いいいいいいいいい!!」

 朝日が横から覗き込んできたのでほっとした羽鶴だが、束の間、疑問がふつりと湧いてくる。

「朝日なぜここに」
「朝日ちゃんお風呂帰りにお部屋行こうとしてたらうるさいんだもん、雨麟ちゃんはぐっすりだと思うからいいけど、別の場所なら怒られてたよ」
「ご、ごめん……あ!! そうだ朝日店長の部屋ってどこ!? 教えて! お願い!!」
「鶴ちゃん興奮してる丸? 虎雄様起きてるかなあ」

 言うと、朝日は壁掛け行灯の裏に手を入れ紫色の太い紐を引く。するとがたんと音を立て上階への階段が伸び羽鶴はぽかんと口を開けた。
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