一.後ろを振り向くことなかれ
板張りの床は歩く羽鶴の姿を映し、軋むこともなくただ真っ直ぐに伸びていた。普通に歩く分には足音がしない。奇妙なものだ、と羽鶴は思う。音ひとつない廊下に灯りはなく、時折開いたままの木枠が夜を告げるばかりで存在ごと溶けてしまいそうな、眼を閉じさえすれば消え入りそうな感覚に陥る。
榊が追いかけてこない。
開けたままの襖の向こうには、確かに立ち上がる姿が見えたのに。
「……榊」
羽鶴は後ろを振り返る。
そこには、真っ暗闇を抱え込んだ廊下。
足元が心なしか冷えてくる。戻り進むことを拒むような、ずっと見つめていては呑まれるような、真っ暗闇。
知らない場所を一人で歩くことが、未だ恐ろしくあるなどと、言えば彼は笑うだろうか。
羽鶴は真っ暗闇に背を向け前を見る。行く手には暖簾が下がっており、何かの絵が描いてあった。
「……鬼、……?」
そもそも先程まで行く手に暖簾など見えただろうか。首をかしげながら暖簾を潜れば、更に模様の描かれた暖簾が現れそれは何枚も続いていた。
一枚潜るごとに、深い処へゆくような、底のない情感と共に。
からからと、音がする。
そちらを向けば、頭上から仄白いものが降っては足元へ落ち、何度か繰り返されては止んだ。
羽鶴が眼を凝らして足元を見れば、いくつか転がるそれは鬼の面であった。
「…………………………!」
心の中で悲鳴を上げ、羽鶴は前へ急ぐ。
とにかく誰かに会いたかった。
何故だか身体中が寒かった。
何故だか、無性に泣きたくなった。
奥に下がった暖簾を潜ると、眩しい光が眼に飛び込み、籠屋へ来て始めに見た磨かれた柱の色に似ていると気付く。華やかな色合いの廊下は所々に装飾品が置かれ、磨き抜かれた柱や廊下に目眩を覚えるほど。
音楽や賑やかな話し声が遠くに聞こえ、羽鶴はそういえば大瑠璃がお得意様の宴会がどうとか言っていたのを思い出した。
「そうだ、お水……。誰か探さないと……それか、水場があれば……」
きょろきょろと廊下を見回しながら歩くと、遠目に鮮やかな頭と着物の人物が見えた。
「味が違うって言ってるじゃないか!! 宵ノ進は!? 大瑠璃はぁ!?」
よく響く声に足が止まる。その露草色の頭をした人物はずかずかと廊下の奥を行き、もう少し覗こうとした羽鶴の体が前のめりに傾いた。
「出歩かず、とお伝えしましたがお客様」
愛くるしい表情を引っ込めきりりとした雨麟が腕を組み短い上がり眉を更につり上げ羽鶴を見ていた。
雨麟に脚払いされた事よりも、注がれる一切迷いの色がない視線が冷ややかで、羽鶴は胸を抉られたような気持ちになった。
「雨麟、お願い。お水をちょうだい。自分で持っていくから」
「はァ? 坊っちゃン大瑠璃の客だろ。俺が宵ノ進にひっぱたかれるわ」
「いいんだ。忙しいんだろ。手間をかけさせて申し訳なく思ってるよ」
「あーもうそこで待ってろ。あっちの坊っちゃンには近付くな。そっちの方が手間ンなる」
ぐしぐしと短髪を混ぜながら背を向けた雨麟に羽鶴はようやく息を吐く。
優しい人だ。ただそう思うだけで、先程までの距離が和らいだように感じるのは気の違いだろうか。それでも、初めて“雨麟”という人物と話せた気がして、嬉しかった。
榊が追いかけてこない。
開けたままの襖の向こうには、確かに立ち上がる姿が見えたのに。
「……榊」
羽鶴は後ろを振り返る。
そこには、真っ暗闇を抱え込んだ廊下。
足元が心なしか冷えてくる。戻り進むことを拒むような、ずっと見つめていては呑まれるような、真っ暗闇。
知らない場所を一人で歩くことが、未だ恐ろしくあるなどと、言えば彼は笑うだろうか。
羽鶴は真っ暗闇に背を向け前を見る。行く手には暖簾が下がっており、何かの絵が描いてあった。
「……鬼、……?」
そもそも先程まで行く手に暖簾など見えただろうか。首をかしげながら暖簾を潜れば、更に模様の描かれた暖簾が現れそれは何枚も続いていた。
一枚潜るごとに、深い処へゆくような、底のない情感と共に。
からからと、音がする。
そちらを向けば、頭上から仄白いものが降っては足元へ落ち、何度か繰り返されては止んだ。
羽鶴が眼を凝らして足元を見れば、いくつか転がるそれは鬼の面であった。
「…………………………!」
心の中で悲鳴を上げ、羽鶴は前へ急ぐ。
とにかく誰かに会いたかった。
何故だか身体中が寒かった。
何故だか、無性に泣きたくなった。
奥に下がった暖簾を潜ると、眩しい光が眼に飛び込み、籠屋へ来て始めに見た磨かれた柱の色に似ていると気付く。華やかな色合いの廊下は所々に装飾品が置かれ、磨き抜かれた柱や廊下に目眩を覚えるほど。
音楽や賑やかな話し声が遠くに聞こえ、羽鶴はそういえば大瑠璃がお得意様の宴会がどうとか言っていたのを思い出した。
「そうだ、お水……。誰か探さないと……それか、水場があれば……」
きょろきょろと廊下を見回しながら歩くと、遠目に鮮やかな頭と着物の人物が見えた。
「味が違うって言ってるじゃないか!! 宵ノ進は!? 大瑠璃はぁ!?」
よく響く声に足が止まる。その露草色の頭をした人物はずかずかと廊下の奥を行き、もう少し覗こうとした羽鶴の体が前のめりに傾いた。
「出歩かず、とお伝えしましたがお客様」
愛くるしい表情を引っ込めきりりとした雨麟が腕を組み短い上がり眉を更につり上げ羽鶴を見ていた。
雨麟に脚払いされた事よりも、注がれる一切迷いの色がない視線が冷ややかで、羽鶴は胸を抉られたような気持ちになった。
「雨麟、お願い。お水をちょうだい。自分で持っていくから」
「はァ? 坊っちゃン大瑠璃の客だろ。俺が宵ノ進にひっぱたかれるわ」
「いいんだ。忙しいんだろ。手間をかけさせて申し訳なく思ってるよ」
「あーもうそこで待ってろ。あっちの坊っちゃンには近付くな。そっちの方が手間ンなる」
ぐしぐしと短髪を混ぜながら背を向けた雨麟に羽鶴はようやく息を吐く。
優しい人だ。ただそう思うだけで、先程までの距離が和らいだように感じるのは気の違いだろうか。それでも、初めて“雨麟”という人物と話せた気がして、嬉しかった。