二.花と貴方へ

 羽鶴が帰りに傘を買って歩く頃には、道に散らばっていた花びらはある程度片付けられていた。道の端や建物に沿い残る程度、昨日の浮かれた様子は微塵も無く、のんびりとした和の街並みに戻っている。観光客が瓦屋根に乗る花びらを美しいと褒め、道端の花びらには触れず歩いてゆく様子になぜだか胸の内がざわざわした。
 傘の先をこつこつ地面に当てながら、たまに小石を転がしつついて生乾きの土をぼんやり眺めた。多分榊は気分転換に誘ってくれたのだろうが、そのような気分ではなく。本来ならば今日も遅れた分の補習があったのだが、気分が優れないから帰宅してからでもできるものはないかと無理を聞いてもらった。
 一番気掛かりなことといえば、無事でいるか、になるのだが、うまく纏めて榊に話せる自信がない。話さなくていいことを除いて、引き寄せ刀に対抗するためにどうしたらいいかを伝えるには結局まだいい案が思いつかない、になってしまう。それに引き寄せ刀は二体いて、榊が一緒に追いかけられた方について何か進展があったわけでもなく、榊が知らないもう片方に至っては誰も見てはいけない類のとてもたちがわるいものである。

 知るほど遠ざかっていないか。いや諦めるものか。個人的には一発殴りたい。だからそれもできるような方法があれば。

 多分僕は人の苦しみを見て疲れている。そのような感想を抱く羽鶴は同時に思った。人に見られたくない苦しみを見られたら、それも相当疲れてしまうのではと。
 だからああいうことになったのかもしれない。もともと限界ぎりぎりのところに、一撃を加えて崩してしまったのかもしれない。しかし今更なのである。


「あ、そうだ」





 羽鶴が籠屋へ帰ると受付には誰も居らず、ぴかぴかに磨かれた柱の陰から半分顔を出した香炉が「おかえり」と出迎える。

「ただいま香炉。昨日はありがとう」

 普段殆ど無表情の紫髪はきょとんとした。大きな黒眼がじっと見上げ、小さな唇が僅かに動く。

「うん……はつる、変わった……」
「え、そうかな。そういえば、会議って終わった? まだ入っちゃだめ?」

 靴を揃えてつやつやの床に上がる羽鶴の隣にすすす、と香炉が音も無く寄ってくる。板前はどちらも音無く歩けるのか、いったいなぜそうなった。ぐっと飲み込んだ羽鶴は返答を待つ。一歩先をてくてくと歩き出しながら、香炉は水瓶に溜めた井戸水で手を洗う羽鶴を見届けてから近くの客間に案内した。

「あ、羽鶴様、おかえりなさいまし」
「おかえり鶴」

 縁側の日当りの良さに和んでお茶していた宵ノ進と大瑠璃に、香炉が片手をすっと挙げて去る。

「え、香炉」
「香炉はやることがあるんだよ。別に怒ってるわけじゃないから」
「う、うん。あ、ただいま。そうだ二人にお花買ってきたよ、はい」
「え、何鶴どうしたの」
「まあ綺麗、嬉しゅうございます、羽鶴様」

 羽鶴が渡したのは花屋で買った紫と白模様のトルコキキョウである。片や怪訝な顔つきに、片やふわりとほころんで受け取り。なんだこの差。

「花好きだと思って。綺麗だなあと思うの選んできた」
「宵鶴昨日どこか打たなかった? 聞いてる?」
「お前僕をどんなだと思ってるんだ……」
「わたくし花器を持って参ります、羽鶴様のお茶もご用意致しますれば」

 機嫌良く宵ノ進が部屋を出て行ったのを見届けて、大瑠璃が茶を一口含む。畳の上に座る羽鶴はふと気が付いた。大抵なら座布団を勧める宵ノ進がそれをせずに忘れたままなどと。

「まあ早い話がだいぶきつく言われて参ってるんだけれど」
「え、会議?」
「すばめ屋の馬鹿は昨日じゃ話がつかなくて今も虎雄と話し込んでるからあとでしばくとして、久しぶりに宵が虎雄に怒られるという。まず花祭りに夜出かけたのが虎雄に無断で」
「えっ」
「つまりは夜出て引き寄せ刀を引き付けてもう帰って来ないような気でいたということで尚怒られ、ついでに言うと何も知らない鉄二郎は襲われないから特に関係ないんだけどなんだか帰ってきたら宵を助けるから詳しく話をさせろだのうるさくて何をどこまでどうしたで怒られ」
「うわ……」
「聞けば引き寄せ刀の罠にはまった形で体が動かなくなったらしいからとても怒られその辺からもうあ、これだいぶまずいとは思ってたんだけれど朝ごはんを作るまではよくてもその後で動けるようになってすぐにいつもやってることを全部やろうとしたから虎雄の逆鱗に触れ今あれでかなり落ち込んでるから花はありがとう」
「僕が学校行ってる間が修羅なのはわかった」
「まあ虎雄の怒り方は要点纏めた静かなお説教だから聞いてられるんだけれどね。宵と一緒に座って聞いてきたよ。甘いだろ? 宵がああじゃなければ一対一で話したんだろうけど、一緒にいてやれだなんてさ。いつもなら虎雄に言うことは言うのに、反論の一つも無いで口を挟めなかったんだから。その後に鉄二郎も呼んで話したけれど、その時も聞いてるだけだったよ。その後更にみんなで短い報告会をしたけれど、置物みたいだった」

 羽鶴が渋い顔つきになっていると既に花器に花を活けてきた宵ノ進が茶器と茶菓子もまとめて角盆に乗せて戻ってきた。羽鶴に盆ごと茶を勧め、お礼を言って口を付けた様子に和やかに笑っている。未だ忘れ去られた座布団の件に関しては触れぬこととし、このまったりした縁側お茶会も店長が休んでいろという圧をかけたに違いないと合点がいく。

「羽鶴様、わたくししばらくの間お客様に呼ばれても会ってはならぬのですって。外出も誰かと共に行くのでなければならぬと」
「まあ要は客前に出なければ料理はしていいってことだから。ゆったり休めってしこたま怒られたからね、堂々と休みなよ。ほら、しばらく店はお昼までにするって言ってたし、それなら香炉も楽だから気兼ねもないでしょ。今度釣りにでも行かない? 焼き魚が食べたい」
「うーん大瑠璃が二人になった感あるなあ」
「よし鶴覚えておいでよ。そういえば、今日は早いね」
「あ、そうだ僕今日は補習分の宿題があってさ。お茶もあるからちょっとここでやっていっていいかな?」
「お好きにどうぞ。卓袱台は押入れに入ってるから」
「ありがと」

 羽鶴はそっと押入れを開けては卓袱台を出し補習分の宿題を広げて取り掛かる。茶を飲む大瑠璃に、先程からうとうとと意識の飛びかけていた宵ノ進が遂に寄りかかる形で倒れたので、湯呑みを丸盆に置いて頭を撫でながら膝枕に持ち込む様子に春の陽だまりのような心地になった。
 眠れぬと言っていた為におそらく気絶なのだろうが、すやすやと眠る穏やかな顔を見ているとようやく眠れたのでは、というふわふわした気持ちが浮かぶ。
 緩い風が庭の草木を揺らし、紙に文字を走らせる音が響く。花器に活けた花が揺れ、ふわりと花の香りに続いて時折擽る白檀が、微睡むような心地を誘った。
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