二.花と貴方へ

 がばり、勢い良く布団から起き上がった羽鶴は左右を見るも美しい庭が昨夜の雨粒を輝かせ、座卓に肘をついて湯気の立つ茶を飲む黒髪美人が映る。明るい室内に深く息を吸おうとして掠めた香りにむせてしまった。花の香り。一度さっと青くなったと思えば一気に顔が火照る。そういえば、とお布団サンドした襖の方を見れば、これまた綺麗に畳まれている。

「またいない!!! どこいった!!!」
「鶴が仮眠取ってる間に料理がしたいって厨房に行ったよ」
「甘!! 大好きが滲み出てる!!」
「欲があるうちはいいんだよ。自傷じゃないなら好きにさせるよ。ああそういえば、普段の今頃は鶴が制服に着替えてご飯を食べに行く頃合いだと思うけど」
「時間もえぐい!!!」

 着替えもせず夜着のまま、どたどたと廊下を一気に駆け抜けては受付前を通り過ぎ、朝食をいただく座敷の襖をスパンと開け、びくりとした雨麟を素通りし厨房の暖簾を勢い任せにめくり上げる。

「セクハラ!!!」
「あら羽鶴様、おはようございます」

 羽鶴の叫びに雨麟が再度びくりとしたのは二人の知らぬところである。
 にこにこと、人当たりと品の良い顔を寄越して笑う宵ノ進は雑炊を作っていた。

「わたくし、横文字はよくわからぬので御説明願えますか、羽鶴様」

 にこにこ、にこにこ。ゆるゆると雑炊を煮る匙を回し、小皿にちょんと乗せては悠長に味見する。

「ニュアンスでわかってるくせにぃい!!! ああいうのは!! だめなの!!!」
「に……? ええ……もっとしっかり羽鶴様がお好きになるまで致した方が宜しゅうございましたか?」
「だからぁ!!! 致さなくていいからぁ!!」
「羽鶴様、夜着がはだけておりますよ。後から着替えるにしても冷えてしまってはお身体に障ります」

 さっと体に触れぬよう夜着の衿を直した宵ノ進は卵焼きを焼き始める。手早く作られていく朝食に正直な羽鶴の胃が鳴り、くすくすと笑う板前ができたてのふわふわした出汁巻き玉子を切って寄越す。ひと切れ、小皿に乗ったとろつやの玉子を頬張れば、熱と旨味と食感が一度にすっと舌を撫でていき、さほど噛まずとも雪のように溶けていく。

「毎度のことながら凄まじい美味しさ……」
「言葉も失くすほどの品を拵えたいと思っておりますれば」
「本当にさらりとおっかないことを言うよね」
「わたくしに、返す言葉などないのですから」

 みるみる品数が増えていく。まったりとした口調であるのに手際が良く、人数分のお膳に料理を乗せては一人分を羽鶴へと手渡した。

「わたくし申し上げましたでしょう? 貴方は優しいのだから気をつけなければと。すぐに、許してしまわれる。あんなにとろけたお顔をされておりましたけれど、皆にああではお遊びで済まぬのではないですか?」
「遊びのジャンルと度合いがすっ飛んでる宵ノ進の悪気の無さがやばい……待ってほんと黙っといて!! ていうかああいうのはだめだから!! ここ日本!!」
「……? わたくしと、秘密、にございますか?」

 ふわふわと笑われる。なぜいじっておきながら決定権を丸投げにする。

「もう!! そうだよもう!! 喋ったら針飲ますからな!!!」
「まぁ、それは楽しみにございます」

 ぷんすこ怒って座敷へ行った羽鶴をにこにこと眺めて見送った宵ノ進は人数分のお膳を運びにかかった。

「羽鶴……なンてぇか……よおわからンけどあンましぎゃンぎゃン行かン方が…………」
「なんでっ! 怒るときは怒らないと!」
(これ、怒るに入ってンのか?)「いやそれはわかるンだけどよ? “可愛い”で済まされるだけならいいけどよ? そのまま行くといじくり倒されンぞ……前言ったろ? 手に負えねえ泥酔した客がえれえ目にあったってよ……あンときゃ本気で怒ってたからまァ別だけどよ、基本的に吠えてかかると喜ばすだけだぞ……」

 雨麟は他に比べれば籠屋に来て日の浅い方だが、兄が癖をこね回した完成形のような存在である為、似たようなやり取りには心当たりがある。ちょっかいを出されて噛み付けば、嬉しそうに返してはまた更にちょっかいをかけ吠える姿を楽しむゆえに無視を決め込めば、それはそれで積もりに積もった感情分を一気に持ち込まれ静かに問われるのだから至極めんどくさい。
 雨麟は兄にべったりしっかりひっつかれる部分はどうしようもないので諦めたが、他の部分はほどほどにあしらうことを覚えたので楽ではある。しかし、この目の前で未だぷんすこしている羽鶴は本当に真面目であるから、ほどほどにできるのか雨麟は心配でたまらなかった。

(道理で朝から機嫌がいいわけだ……昨日羽鶴と話せたみてえだけど、なンっか妙だな……はあ。いい感じの玩具見つけちまったわけだ…………)

 大瑠璃は宵ノ進にひたすら甘いので適当なところで甘やかすし、虎雄は虎雄で強くは言わない。一度締め上げてしまえばその言葉に従順になろうとしてしまう性分ゆえの配慮だが、いないはいないで手が足りないやらの問題が起きるし、いればいたで胃に刺激的な副店長の手綱を誰か握ってくれやしないかと本当にうっっっっすらと期待している。
 お休みにと旅行に出した結果元気になったはいいが何かこう、手に負えなさが増して帰ってきたのではなかろうか。昨夜の会話は聞かずにおこうと決めているが、良い方へ進んだことを祈るばかりである。秘密をこじ開ける手伝いをした事への御咎めも含ませた言葉もない。正直怖いがそっとしておこう。
 白鈴はビビリだし、朝日は天性のテンションでどうにでもしてしまうし、何故か会話が成立しているし、胃を痛めていると無表情にそっと肩に手を置く香炉が癒やしどころである。
 その香炉も連日の疲れと混みようの訴えが通って休みをもらっている為まだ寝ており下りてこない。

(俺なンでこンな考えまくってンだっけ……?)

 雨麟があのちょっととぼけた兄に会いたくなっている横で、羽鶴がもつもつと美味そうに朝食を食べている。美味しい食べ物ですぐさま先程までの膨れ面が消え失せて、顔にご飯美味しいと書いてある羽鶴を和やかに板前が見ていたので雨麟は考えることをやめた。

(今日は晩酌酒盛り花酒飲む花酒飯食ったら煙管煙管煙管…………)

「雨麟、今日はわたくしもお庭まで降りますゆえ」
「あ~いよ~」

 暇を持て余した板前が掃除を手伝うと速いのでだいぶ楽なのが今日の救いなのかもしれない。
 だがその前に、これから羽鶴を送り出した後に待っている虎雄とすばめ屋の若を交えたお説教やらが待っているのだが呑気に庭の手入れの事など考えていていいのだろうか。俺が真面目に考えすぎなのだろうか。
 雨麟は絶妙に美味い味噌汁を啜りながら今日も休みでよかったなあ、などと一人思った。




 *


 学校で机に寝そべった羽鶴のふわふわの銀髪の上に榊が銀紙に包まれたチョコを乗せる。

「開き直った板前が強い…………」
「なんか疲れてるな羽鶴」
「榊は元気だな」
「俺の彼女が最高に可愛かったからな」
「惚気なくていいです~、はぁ…………あ」
「? どうした?」
「今日帰りに傘買ってこうと思って」


 約束通り玄関に用意されていた籠屋の洋傘は蛇の目傘をそのまま置き換えたような、シンプルながら目立つ本紫と、黒の持ち手に籠屋の紋まで入っている見るからに余所行きでも大丈夫な品だったので臨時で催された雨麟ちゃんの占い晴れ予報をいいことにお礼を伝えて置いてきた。
 昨日の花祭りで舞うに舞った花びらが風に運ばれ砂利道に挟まり、地面の上で泥に塗れているのを目にしながら、何とも言えない心地で登校したはいいがなんだか身が入らない。

「ついでにどこか寄ってくか?」
「ありがと、でも今日はまっすぐ帰るよ。言いたいこと言えた感じがするからそれはいいんだけど、なんだか余計にややこしくしちゃったような気もして。あとは普通に心配」

 大瑠璃や店長もいるから、何も心配無いはずなのだが。個人的にはしばらくお休みをもらってごろごろしていた方がいいんじゃないかと思う羽鶴である。大瑠璃は話を最後まで聞いてくれたので何事もなく済んだのだが、その人の話を聞いてから判じる類の美人が喧嘩に持ち込むような内容ってどんなだと問屋の若を思うのである。

(今頃会議なんだろうなあ……大瑠璃は気にするなって言ってたけど)


 川岸の、暗闇色の鬼。
 手を伸ばしても、言葉や心を投げかけても、あの時は届かなかった。芯から凍える冷ややかな川。彼はずっとそこにいる。けれど少し、こちらを向いた気がする。
 あれは約束してくれたという解釈でいいのだろうか。いなくならない、ということに対してだいぶ抵抗があったように思えるけれども。そもそもすべてを憶えているのだろうか。開き直ったことでさえ怖い。もし今あんなぐらぐらした状態で、引き寄せ刀が現れでもしたら。何か見落としていないか。


 こんこんと考え込む羽鶴の頭に二個目のチョコを置いた榊が怪訝な顔つきをしながら言った。

「また何か背負い込んでるのか?」
「なんかいっぺんに起こり過ぎて他に身が入らない」
「気掛かりな順に考えていったらどうだ。こう、すぐに必要になることから優先で片付けていく感じの。それで? 今一番気掛かりなのは何なんだ」
「ぜんぶ…………」
「チョコ食えチョコ」


 羽鶴はチョコを頬張りながら、大瑠璃の気にするなは本当にそのままの意味かもしれない。と遠い眼をするのだった。

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