二.花と貴方へ
ああ、どうして。宵ノ進は顔を覆う。
眠らせたはずなのに。会う筈はなかった。冷えた床を歩かせることもなく、起き抜けには温かい飲み物を用意して。奥の襖から内側の部屋を通って畳の上を歩かせれば、その足が熱を奪われることもなかった。眠りを損なう筈がなかった。ああ、損なう事無く、何一つの気兼ねなど無く、貴方が貴方の事だけを思えるように整えなくては。貴方が恙無く過ごしていけるように整えなくては。
どうかどうかどうかどうか、貴方が損なわれることなどありませぬよう。
あのいとおしい優しさが崩れませぬよう。
このようなものにさえ向ける優しさに付け入られませぬよう。
知らず息が乱れていた。体は動けど、内側がぐらぐらと騒がしい。
ああ、このところ会う者に醜態を曝してばかりだ。
なぜ崩れたのだろう、なぜ取り繕れぬのだろう。この身さえ整えていれば、――この身さえ差し出していれば、死人の数が減るかもしれない。
ああ、そうではない、解っている筈なのに己を責め立てる声が止まない。
静まる夜の空気に心臓が跳ねる。
夜。あんなにも怯え眠った夜。誰も居らず、草葉の中で身体を縮こめ朝を待った暗闇。一時訪れた幼馴染の家族との間に挟まれて温かく眠れたのは束の間、今度は一人きりよりも、気を失うまで眼に映した暗がりに混じる嗤い声と輪郭や伸びる腕が恐ろしい。昼間顔を合わせたばかりの子供が夜に聞かせた断末魔、泣き叫び逃げ出そうとした者を打ったぐしゃりという音。すべて夜、逃げ出してしまうのにうってつけの夜から逃げられなくする為の、おぞましい程の犠牲。
幼馴染が生きている。それだけが身体を動かした。それだけでもう、よかった。
夜が怖かった。もうとっくに、死んでいった子供達に何をできた訳でもなかった自分は蝕まれていたのではないのか。嬲り殺したあれらと、同じではないのか。
店主は名をくれた。夜を恐れずに進めるようにと。こちらを向いてよく笑う幼馴染を茶化しながら、おまえがいればこんなにも笑うやつがいるのだと。
夜着の上から懐に忍ばせた短刀を握る手は冷たく震えている。
贈り主の姿が浮かんで、そっと手を離す。
(お水を、御持ちしなくては……)
「お待たせしてしまい申し訳ありません、羽鶴様」
特に苦言が出るほど待たせたわけでもないのだが、普段通りであればまた驚かすくらいはできたろうに。宵ノ進は、眠たそうにしたまま腰掛けた羽鶴に少し笑う。湯呑みに汲んできた水を渡し、ありがとうの声に続いてちびちび飲む羽鶴が飲み終わるまで床に膝を折って待つことにした宵ノ進は、あまりに眠たげなので転げなくて良かったと胸を撫で下ろした。
「おのこごのようでございますれば」
「……? よくわからないけど今僕いじられた気がする」
「ふふふ。羽鶴様はお会いした時から可愛らしい方にございます」
「おっとなんとなく意味がわかったぞ、また子供扱いしてるな?」
「まぁ、まぁ半分はずれにございますれば。羽鶴様はまあるい眼をされて、まあるい頬をされて、大変可愛らしゅうございますよ。ふふふそのように膨らませて、なんと愛おしくありましょうか」
「褒めながらからかうスタイルでくるのか。なんか一気に目が覚めてきたわ」
「……? お水も飲みましたでしょう? 学舎もございましょう? お部屋までお送り致しますゆえ、羽鶴様は後ろに続いてくださいまし。また眠られても、わたくしが起こしに伺いますゆえ」
羽鶴が台から降りない。あれ、と宵ノ進が首をかしげると、少しむすりとした羽鶴が宵ノ進の夜着を摘む。
「それって宵ノ進は僕を部屋に送ったらどこか行くってことでしょ。働きすぎ」
「わたくし一度起きると寝つけぬので……火鉢でも用意して回ろうかと」
「横になってごろごろしてなよ。湯冷めしちゃうよ」
「それはあまりに無礼かと。ではお送りしましたら自室に戻りますゆえ」
「嘘っぽい」
「えっ」
宵ノ進が固まる。あれ、この方押せば流されてそのままではなかったかしら。
「なんとなく。僕の面倒を見たらどっか行っちゃう気がする。ねえ、行かないで。寝れないなら僕とまたお喋りしようよ。そのうち眠くなるよ」
「珍しい我儘にございますれば」
「そう。僕はどうしようもない我儘の塊からちょっと伝染ったみたい」
言い切れば、宵ノ進は声を上げて笑った。
「ふふ、あははは…………。しかと。お部屋まで歩きながらでも。その前に、足袋を。そのように身じろがず。さあ、ゆきましょう。何をなさいますか? わたくし、夜遊びなら他の方よりでしたら心得がございますよ」
「なーんにも! 言ったでしょ、お喋りしようよ。僕、もっと宵ノ進とお喋りしたい。いつも忙しそうだしさ」
夜着を離しぴょんと羽鶴が台から下りる。宵ノ進が履かせた足袋のおかげで足が温かい。歩き出した羽鶴の歩幅に合わせて隣を歩く宵ノ進は、穏やかな声音で言った。
「羽鶴様、わたくしがわたくしでなくなりましたなら、殺めてくださいませんか」
「重い!!」
「あれまぁ。わたくし、真剣でしたのに」
「みんないるでしょ。僕を匿っといて自分は殺してくれは聞いたらいけないでしょ。宵ノ進、僕から同じこと言われたら、聞ける?」
「わたくしが? 羽鶴様を? お断りします、お遊びを教えるくらいでしたらできますけれど」
「でしょ……はぁあ?!? さらっと何か言ってて怖い!! 待って僕の知ってる遊びと違う気がする!!」
「ええそれはもう、お好みで如何様にも。わたくしそのような出だと以前申し上げましたし、今更何を驚かれることがございましょうか。わたくしで、台踏みしては如何です? わたくしの出を知っても、毎日美味しいと御料理を召し上がってらっしゃるならばこのように、付け入られてしまうのですよ。気をつけなくては。可愛らしい貴方は、最近我儘を覚えたばかりの、優しい方でらっしゃるのですから」
宵ノ進が愛おしげに眼を細める。羽鶴はぎゅっと心臓を握られた心地になった。そうだ、この距離の置き方。いつもそうして遠いから、会話をしようと思ったのに。
「狡い」
「ええ、わたくしももうわからぬのですよ。花の香りで息を詰めねば眠れずに、場所が違えば抱いていただかなくては夜を越すことなどできずに、まだ、生きているのですよ。他者を喰み、傷をつけてばかりのわたくしを、誰か殺めてくれはしないかと」
「なんだ、宵ノ進もだいぶ我儘じゃないか。もう殺してくれってさ。生きなよ。好いてくれてる人がいるんだから。僕だってそうだし。ん……? 待って抱いてもらわないとってはぁあ?!?」
「いえ、ですから何故今更そのような……。はぁ。羽鶴様、すこしはお遊びでも覚えては如何です」
割と真面目な溜息を吐いた宵ノ進が、右手を羽鶴の顔へと伸ばす。親指が唇に触れ、するりと端まで滑らせてはまた真ん中へと戻すと軽く押し、僅かに開かせた口を見遣るやそっと指を離す。その指を、ぺろりと舐め。みるみる赤くなる羽鶴の輪郭へ手を添え耳を撫で、そのひやりと冷たい手のひらは首筋をも撫で胸の中心で止まった。
「息が、乱れてらっしゃいますけれど」
「宵ノ進寝てるぜったい頭が寝てる寝不足がここで発揮されたしそれは僕で発揮されちゃいけないやつ」
胸に軽く乗る手を勢いで子犬を抱えるが如く掴んで引きはがした羽鶴に宵ノ進は小首を傾げた。
「お嫌いではないようで。お部屋にいらっしゃいます? いつでもはしたなく、どろどろに、可愛らしくして差し上げますけれど」
「誰かー!!! 働きすぎの寝不足の副店長を誰かー!!! うわああみんな三階!!! なんという罠!!! 待って落ち着いてうわああ手ぇ触ってごめんああああ」
今度は勢い良くぱっと手を離し真っ赤な顔をして頭を抱えては天井を仰ぐ羽鶴に宵ノ進は笑った。
「あはは。嫌だと逃げねばなりませんよ。身を護る術を知らなくては。……自分から、触れるのでしたら多少は慣れたのですよ。それに、貴方は優しいから。此方の方々は、優しい方が多いから。引き寄せ刀に唆されてわたくしを刺したりしに来た方々も、きっと優しい方なのですよ。わたくし、以前より、話せておりますもの」
金の眼が翳る。言葉がつっかえ出て来ない。
ふと、黄朽葉色の髪をふわふわと撫でられた。
ふわふわ。金の眼が腕の先を見ると、感情のよくわからない無表情に近い羽鶴の眼とかち合う。
(傷つけて終わりで、よかったのに)
「羽鶴様、眠いのでしょう? 羽鶴様? ……くすぐったいのですが? 聞いてらっしゃいますか?」
「泣きそうな顔、してたから」
「…………。外で、首を掻き切ろうと思っておりました。なれど、貴方に、会ってしまいました。曖昧になってゆくのですよ、わたくしは、“宵ノ進”であるのに。貴方へかけた意地悪も、解いてこちらへ来てしまった。羽鶴様。暴かず留め置く秘め事も、あるものなのですよ。……貴方が離さぬこれは鬼。どうか」
再度言葉がつっかえる。頭を撫でていた羽鶴の手が袖を掴んだ時の眼が、苦しそうであったから。離さずに、震える声音が漏れる。「行かないで」と。
「ああ、どうして。そのようなお顔をなさるのです。どうして。わたくしを殺げばきっとあれは消えこのように嘆かぬわたくしが残るのに。関わった方々を悩ますことも終えられるのに。貴方にそのようなお顔をさせぬわたくしが残る筈なのに!」
泳いだ片手が首元へ伸びたのを羽鶴は制した。手首を掴まれびくりと固まる金の眼は、暗い廊下で見た豪奢な着物の彼と変わりない。
咲夜。名を呼んで泣いていた彼。
こちらに来ないでと叫んだ真赤の面。
なにがいけないというのだろう。
「僕はきみがきみなら、それでいいと思う。鬼とか関係ないって言ったでしょ。もう引き寄せ刀に好き勝手させるもんか。ずっと引っ掻き回してぐちゃぐちゃにするあいつが悪い。自分を殺す必要なんてない。だから、行かないで。またわからなくなったら、僕で遊んでいいから。約束して。行かないって」
真ん丸の金の眼がただただ羽鶴を見つめる。ぼんやりと瞬きもせず傾げた首に、さらりと黄朽葉色の髪がかかった。
(この人は、壊されたんだと思う)
過去を覗いてしまってから、言動がおかしい。いや、覗いたから気付けるようになっただけで本当はもうとっくに――。
宵ノ進の両手が伸びてくる。掴んでいた羽鶴の手など容易く押し退けて、優しく髪を撫でつけたかと思うと花の香りを纏う手のひらが鼻口を覆った。抵抗する気はないが、息が苦しい。
壁に押し付けられ、霞む視界で見上げれば、唇を引き結んだ彼は途端に何もかもを放り出してずるりと冷たい床へへたり込んだ。
羽鶴は心配になって覗き込む。ぼんやりと項垂れる彼の口端から血が垂れている。
「うっっっっわばか!! そういうとこ!! ほら口開けて!! ええと僕の袖でごめんね!!」
袖に血を吸わせて拭いながら羽鶴は思う。ちょっと開けてくれた口内を見るに舌は噛んでなかった。おそらく唇の内側を噛んだのだろうが、これはもうだいぶ参ってしまっていないだろうか。何事かあれば宵にどうたら言う大瑠璃の意味合いが少しわかった。なるほどいきなり糸が切れたように会話さえできなくなる。そして多分何かあったと勘づくから、大瑠璃に会うのが何より怖い。昨夜宵ノ進の体の件で鉄二郎さんと喧嘩したばかりのところへこれはまずい。いやもうどうにでもなれ。踏み込んだのは僕だ。
「おう鶴話は後だ宵運んだら面貸せや」
「ひっ」
こんな夜明けさえまだの薄暗い廊下に三度寝を普通に決めるような黒髪が腕組みして立っている。おまえ、まさか。
「客間が遠くてよかったな。ぎゃんぎゃん叫びやがって。早く立て、さもなくば蹴る」
「はい、え、うええお前そんな軽々と……あ、でも身長足りないから引きずって痛あ!!」
宵ノ進に肩を貸して近場の部屋にでも運ぼうと思っていた大瑠璃が無言で羽鶴の脛を蹴り、いやいや肩に担いでは早足で奥へ行ってしまう。謝りながら追いかける羽鶴の謝罪にも答えてくれない。そういえば頬をぶたれた時相当痛かった上に腫れたことを思い出して羽鶴は身震いする。もしかしてこいつその時でさえ加減していたというのか。
元居た部屋に宵ノ進が再度布団にサンドされると何度か髪を撫でつけた大瑠璃が「それで?」という無言の黒い眼を向けてくる。背筋を伸ばし正座する羽鶴はちぐはぐながら話し始め、一通り話し終える頃には雀が鳴き柔らかな朝日がやや丸められた背を照らした。
眠らせたはずなのに。会う筈はなかった。冷えた床を歩かせることもなく、起き抜けには温かい飲み物を用意して。奥の襖から内側の部屋を通って畳の上を歩かせれば、その足が熱を奪われることもなかった。眠りを損なう筈がなかった。ああ、損なう事無く、何一つの気兼ねなど無く、貴方が貴方の事だけを思えるように整えなくては。貴方が恙無く過ごしていけるように整えなくては。
どうかどうかどうかどうか、貴方が損なわれることなどありませぬよう。
あのいとおしい優しさが崩れませぬよう。
このようなものにさえ向ける優しさに付け入られませぬよう。
知らず息が乱れていた。体は動けど、内側がぐらぐらと騒がしい。
ああ、このところ会う者に醜態を曝してばかりだ。
なぜ崩れたのだろう、なぜ取り繕れぬのだろう。この身さえ整えていれば、――この身さえ差し出していれば、死人の数が減るかもしれない。
ああ、そうではない、解っている筈なのに己を責め立てる声が止まない。
静まる夜の空気に心臓が跳ねる。
夜。あんなにも怯え眠った夜。誰も居らず、草葉の中で身体を縮こめ朝を待った暗闇。一時訪れた幼馴染の家族との間に挟まれて温かく眠れたのは束の間、今度は一人きりよりも、気を失うまで眼に映した暗がりに混じる嗤い声と輪郭や伸びる腕が恐ろしい。昼間顔を合わせたばかりの子供が夜に聞かせた断末魔、泣き叫び逃げ出そうとした者を打ったぐしゃりという音。すべて夜、逃げ出してしまうのにうってつけの夜から逃げられなくする為の、おぞましい程の犠牲。
幼馴染が生きている。それだけが身体を動かした。それだけでもう、よかった。
夜が怖かった。もうとっくに、死んでいった子供達に何をできた訳でもなかった自分は蝕まれていたのではないのか。嬲り殺したあれらと、同じではないのか。
店主は名をくれた。夜を恐れずに進めるようにと。こちらを向いてよく笑う幼馴染を茶化しながら、おまえがいればこんなにも笑うやつがいるのだと。
夜着の上から懐に忍ばせた短刀を握る手は冷たく震えている。
贈り主の姿が浮かんで、そっと手を離す。
(お水を、御持ちしなくては……)
「お待たせしてしまい申し訳ありません、羽鶴様」
特に苦言が出るほど待たせたわけでもないのだが、普段通りであればまた驚かすくらいはできたろうに。宵ノ進は、眠たそうにしたまま腰掛けた羽鶴に少し笑う。湯呑みに汲んできた水を渡し、ありがとうの声に続いてちびちび飲む羽鶴が飲み終わるまで床に膝を折って待つことにした宵ノ進は、あまりに眠たげなので転げなくて良かったと胸を撫で下ろした。
「おのこごのようでございますれば」
「……? よくわからないけど今僕いじられた気がする」
「ふふふ。羽鶴様はお会いした時から可愛らしい方にございます」
「おっとなんとなく意味がわかったぞ、また子供扱いしてるな?」
「まぁ、まぁ半分はずれにございますれば。羽鶴様はまあるい眼をされて、まあるい頬をされて、大変可愛らしゅうございますよ。ふふふそのように膨らませて、なんと愛おしくありましょうか」
「褒めながらからかうスタイルでくるのか。なんか一気に目が覚めてきたわ」
「……? お水も飲みましたでしょう? 学舎もございましょう? お部屋までお送り致しますゆえ、羽鶴様は後ろに続いてくださいまし。また眠られても、わたくしが起こしに伺いますゆえ」
羽鶴が台から降りない。あれ、と宵ノ進が首をかしげると、少しむすりとした羽鶴が宵ノ進の夜着を摘む。
「それって宵ノ進は僕を部屋に送ったらどこか行くってことでしょ。働きすぎ」
「わたくし一度起きると寝つけぬので……火鉢でも用意して回ろうかと」
「横になってごろごろしてなよ。湯冷めしちゃうよ」
「それはあまりに無礼かと。ではお送りしましたら自室に戻りますゆえ」
「嘘っぽい」
「えっ」
宵ノ進が固まる。あれ、この方押せば流されてそのままではなかったかしら。
「なんとなく。僕の面倒を見たらどっか行っちゃう気がする。ねえ、行かないで。寝れないなら僕とまたお喋りしようよ。そのうち眠くなるよ」
「珍しい我儘にございますれば」
「そう。僕はどうしようもない我儘の塊からちょっと伝染ったみたい」
言い切れば、宵ノ進は声を上げて笑った。
「ふふ、あははは…………。しかと。お部屋まで歩きながらでも。その前に、足袋を。そのように身じろがず。さあ、ゆきましょう。何をなさいますか? わたくし、夜遊びなら他の方よりでしたら心得がございますよ」
「なーんにも! 言ったでしょ、お喋りしようよ。僕、もっと宵ノ進とお喋りしたい。いつも忙しそうだしさ」
夜着を離しぴょんと羽鶴が台から下りる。宵ノ進が履かせた足袋のおかげで足が温かい。歩き出した羽鶴の歩幅に合わせて隣を歩く宵ノ進は、穏やかな声音で言った。
「羽鶴様、わたくしがわたくしでなくなりましたなら、殺めてくださいませんか」
「重い!!」
「あれまぁ。わたくし、真剣でしたのに」
「みんないるでしょ。僕を匿っといて自分は殺してくれは聞いたらいけないでしょ。宵ノ進、僕から同じこと言われたら、聞ける?」
「わたくしが? 羽鶴様を? お断りします、お遊びを教えるくらいでしたらできますけれど」
「でしょ……はぁあ?!? さらっと何か言ってて怖い!! 待って僕の知ってる遊びと違う気がする!!」
「ええそれはもう、お好みで如何様にも。わたくしそのような出だと以前申し上げましたし、今更何を驚かれることがございましょうか。わたくしで、台踏みしては如何です? わたくしの出を知っても、毎日美味しいと御料理を召し上がってらっしゃるならばこのように、付け入られてしまうのですよ。気をつけなくては。可愛らしい貴方は、最近我儘を覚えたばかりの、優しい方でらっしゃるのですから」
宵ノ進が愛おしげに眼を細める。羽鶴はぎゅっと心臓を握られた心地になった。そうだ、この距離の置き方。いつもそうして遠いから、会話をしようと思ったのに。
「狡い」
「ええ、わたくしももうわからぬのですよ。花の香りで息を詰めねば眠れずに、場所が違えば抱いていただかなくては夜を越すことなどできずに、まだ、生きているのですよ。他者を喰み、傷をつけてばかりのわたくしを、誰か殺めてくれはしないかと」
「なんだ、宵ノ進もだいぶ我儘じゃないか。もう殺してくれってさ。生きなよ。好いてくれてる人がいるんだから。僕だってそうだし。ん……? 待って抱いてもらわないとってはぁあ?!?」
「いえ、ですから何故今更そのような……。はぁ。羽鶴様、すこしはお遊びでも覚えては如何です」
割と真面目な溜息を吐いた宵ノ進が、右手を羽鶴の顔へと伸ばす。親指が唇に触れ、するりと端まで滑らせてはまた真ん中へと戻すと軽く押し、僅かに開かせた口を見遣るやそっと指を離す。その指を、ぺろりと舐め。みるみる赤くなる羽鶴の輪郭へ手を添え耳を撫で、そのひやりと冷たい手のひらは首筋をも撫で胸の中心で止まった。
「息が、乱れてらっしゃいますけれど」
「宵ノ進寝てるぜったい頭が寝てる寝不足がここで発揮されたしそれは僕で発揮されちゃいけないやつ」
胸に軽く乗る手を勢いで子犬を抱えるが如く掴んで引きはがした羽鶴に宵ノ進は小首を傾げた。
「お嫌いではないようで。お部屋にいらっしゃいます? いつでもはしたなく、どろどろに、可愛らしくして差し上げますけれど」
「誰かー!!! 働きすぎの寝不足の副店長を誰かー!!! うわああみんな三階!!! なんという罠!!! 待って落ち着いてうわああ手ぇ触ってごめんああああ」
今度は勢い良くぱっと手を離し真っ赤な顔をして頭を抱えては天井を仰ぐ羽鶴に宵ノ進は笑った。
「あはは。嫌だと逃げねばなりませんよ。身を護る術を知らなくては。……自分から、触れるのでしたら多少は慣れたのですよ。それに、貴方は優しいから。此方の方々は、優しい方が多いから。引き寄せ刀に唆されてわたくしを刺したりしに来た方々も、きっと優しい方なのですよ。わたくし、以前より、話せておりますもの」
金の眼が翳る。言葉がつっかえ出て来ない。
ふと、黄朽葉色の髪をふわふわと撫でられた。
ふわふわ。金の眼が腕の先を見ると、感情のよくわからない無表情に近い羽鶴の眼とかち合う。
(傷つけて終わりで、よかったのに)
「羽鶴様、眠いのでしょう? 羽鶴様? ……くすぐったいのですが? 聞いてらっしゃいますか?」
「泣きそうな顔、してたから」
「…………。外で、首を掻き切ろうと思っておりました。なれど、貴方に、会ってしまいました。曖昧になってゆくのですよ、わたくしは、“宵ノ進”であるのに。貴方へかけた意地悪も、解いてこちらへ来てしまった。羽鶴様。暴かず留め置く秘め事も、あるものなのですよ。……貴方が離さぬこれは鬼。どうか」
再度言葉がつっかえる。頭を撫でていた羽鶴の手が袖を掴んだ時の眼が、苦しそうであったから。離さずに、震える声音が漏れる。「行かないで」と。
「ああ、どうして。そのようなお顔をなさるのです。どうして。わたくしを殺げばきっとあれは消えこのように嘆かぬわたくしが残るのに。関わった方々を悩ますことも終えられるのに。貴方にそのようなお顔をさせぬわたくしが残る筈なのに!」
泳いだ片手が首元へ伸びたのを羽鶴は制した。手首を掴まれびくりと固まる金の眼は、暗い廊下で見た豪奢な着物の彼と変わりない。
咲夜。名を呼んで泣いていた彼。
こちらに来ないでと叫んだ真赤の面。
なにがいけないというのだろう。
「僕はきみがきみなら、それでいいと思う。鬼とか関係ないって言ったでしょ。もう引き寄せ刀に好き勝手させるもんか。ずっと引っ掻き回してぐちゃぐちゃにするあいつが悪い。自分を殺す必要なんてない。だから、行かないで。またわからなくなったら、僕で遊んでいいから。約束して。行かないって」
真ん丸の金の眼がただただ羽鶴を見つめる。ぼんやりと瞬きもせず傾げた首に、さらりと黄朽葉色の髪がかかった。
(この人は、壊されたんだと思う)
過去を覗いてしまってから、言動がおかしい。いや、覗いたから気付けるようになっただけで本当はもうとっくに――。
宵ノ進の両手が伸びてくる。掴んでいた羽鶴の手など容易く押し退けて、優しく髪を撫でつけたかと思うと花の香りを纏う手のひらが鼻口を覆った。抵抗する気はないが、息が苦しい。
壁に押し付けられ、霞む視界で見上げれば、唇を引き結んだ彼は途端に何もかもを放り出してずるりと冷たい床へへたり込んだ。
羽鶴は心配になって覗き込む。ぼんやりと項垂れる彼の口端から血が垂れている。
「うっっっっわばか!! そういうとこ!! ほら口開けて!! ええと僕の袖でごめんね!!」
袖に血を吸わせて拭いながら羽鶴は思う。ちょっと開けてくれた口内を見るに舌は噛んでなかった。おそらく唇の内側を噛んだのだろうが、これはもうだいぶ参ってしまっていないだろうか。何事かあれば宵にどうたら言う大瑠璃の意味合いが少しわかった。なるほどいきなり糸が切れたように会話さえできなくなる。そして多分何かあったと勘づくから、大瑠璃に会うのが何より怖い。昨夜宵ノ進の体の件で鉄二郎さんと喧嘩したばかりのところへこれはまずい。いやもうどうにでもなれ。踏み込んだのは僕だ。
「おう鶴話は後だ宵運んだら面貸せや」
「ひっ」
こんな夜明けさえまだの薄暗い廊下に三度寝を普通に決めるような黒髪が腕組みして立っている。おまえ、まさか。
「客間が遠くてよかったな。ぎゃんぎゃん叫びやがって。早く立て、さもなくば蹴る」
「はい、え、うええお前そんな軽々と……あ、でも身長足りないから引きずって痛あ!!」
宵ノ進に肩を貸して近場の部屋にでも運ぼうと思っていた大瑠璃が無言で羽鶴の脛を蹴り、いやいや肩に担いでは早足で奥へ行ってしまう。謝りながら追いかける羽鶴の謝罪にも答えてくれない。そういえば頬をぶたれた時相当痛かった上に腫れたことを思い出して羽鶴は身震いする。もしかしてこいつその時でさえ加減していたというのか。
元居た部屋に宵ノ進が再度布団にサンドされると何度か髪を撫でつけた大瑠璃が「それで?」という無言の黒い眼を向けてくる。背筋を伸ばし正座する羽鶴はちぐはぐながら話し始め、一通り話し終える頃には雀が鳴き柔らかな朝日がやや丸められた背を照らした。