二.花と貴方へ

 ひどく憂鬱な夢を見た。
 熱に浮かされたせいだろう。何事かを呟いた自身の声音で彼女は薄眼を開けたが、夢の中身ごとふわりと消えてしまった。
 灯りの消えた薄暗い室内に、普段起き抜けまで点けたままにしている絡繰り行灯の存在を思い出した。小さな光を朝までぼわりと保ち室内を角麻文様が伸びる様子が好きだった。直すついでに新たに組子を作ろうか。ぼんやりと思う彼女の横たえた視線の先に投げ出された手のひらが映る。ずるりと額から落ちた温い手拭いに、感謝を思うと共に何事かあったのだろうと彼女は緩く瞬いた。殆ど傍にいて看病を決め込んでいた彼を動かす程なのだから、せめて程度は軽くあれと祈る。
 もう一度眠ろうか。
 大きく息を吸って吐き出した彼女の、手拭い越しの片眼が見開く。
 投げ出して動かす気の無い手のひらに折り鶴がひとつ乗っていた。――ああ。きっと良くなるだろう。折り鶴に微笑んで、彼女は眼を閉じた。





 羽鶴が眼を覚ますと、隣の布団は畳まれ宵ノ進の姿はなかった。

(よかった、動けるようになったんだ……)

 安堵するも、青い色合いの障子に夜明け前だろうかとのそりと身を起こす。眠い眼をこすりながらぶわりと欠伸して、そっと障子を開けると澄んだ空気が肌を撫で、静かな庭の切り絵のような草木におお……と感嘆する。
 止んだ雨の匂いが残りはせど、すっと引くようなこの空気の澄みようはなんだろう。柊町に住んではいるが、自宅で迎えた雨上がりはもう少し雨の匂いが近かった。

(そういえばこの部屋一階のどの辺なんだろう。雨麟についてきただけで道順覚えるの忘れてた……。でもそんな複雑じゃなかったと思うし、迷いはしないかな。多分。そういえばあの部屋もこの辺も通ったことないな……普段使ってないのかな。プライベート用の部屋って感じかな。籠屋が広すぎて何部屋あるかもわからないけど)

 縁側を進みながらふと喉の渇きを覚える。そういえば、なんだかんだと話がしたくて湯上りに何も口にしなかった。話題は何でもよかった。普段、人との距離を一定以上踏み込まない彼の、自分であれば耐えられなかったろう過去を見てしまった。断片的であれ、どれ程の間そうであったのか判らずとも、深く傷ついているのが解ったから。
 少しは気がほぐれたろうか。

(それにしてもどこ行ったんだろう……二度寝とかしないのかな……水飲んだら戻って待ってようかな……)

 しばらく歩くと縁側が途切れ、見覚えのある内装に少しほっとする。壁にかかる行灯がぽつりぽつりとあるおかげでぼんやり見える足元をとろとろ進めれば、灯りの落ちた受付近くに出る。厨房まではまだ距離があるが、そもそも夜に無断で入っていいものだろうか。他に水場はあるのだろうか。用意してもらってばかりで勝手がさっぱりわからない。それでも置いてもらっているのだから、誰かに聞いてからが好ましいのだけれど。

(朝まで我慢しようかなあ)

 もと来た道を辿ろうか迷う羽鶴は目の前の薄闇に音もなく現れた人影に一瞬息が止まった。

「おや、羽鶴様。どうされましたか? 羽鶴様?」
「…………ほんっっっっっとーーーーうにびっくりした。おはよう。足音全くないおはよう……」
「あらあら、わたくしとしたことが。癖になっているようで。おはようございます、羽鶴様。湯浴みを済ませて来たのです、このような姿で申し訳もないのですが、どうかご海容くださいまし」

 夜着の袖口をゆるりと口元へ運び微笑う宵ノ進の髪は濡れ、解かれた三つ編みの水気をも逃がさぬようにと首に掛けられた手拭いで軽く巻かれている。

「体、動くようになってよかったね。髪乾かさないの? なんか寒そう」
「目が覚めましたら不思議と動くようになっておりまして。わたくしあの機械は苦手ですのでこのままで……。ところで羽鶴様はどうなされたのです? 冷えて起きてしまわれたのでしたら、火鉢を御用意致しましょう。温かいお茶をお持ち致しましょうか」
「あっ、そうだった僕喉が渇いちゃって。水でいいんだけど、厨房って勝手に入っちゃだめだと思うから朝まで待とうと思ったんだ。いやいい、大丈夫だから。今すぐ行かなくていいからあ……!」
「なりません羽鶴様、喉は乾いているのでしょう? なれば潤せば良いのです。良いですか、ここにお座りになりしばしお待ちくださいまし。ええ、そうです。花台などお気になさらずとも良いのです。羽鶴様のお身体が冷えぬなら。では只今お持ち致しますゆえ」

 言われるままに腰掛けるには些か高い壁に彫られた台の窪みに座らされてしまった。本来活けた花を飾っておく為に設けられた空間の、更にはそこに置かれたいかにも高価であろう花台と花瓶を取っ払い、人が入れそうな大壺の下に敷いていたふかふかな座布団をあてがいここに座れと。あの穏やかな声音と物言いで、あれよあれよと流されてしまった。

(そうだった……宵ノ進ってなにをするにもなんだかよくわからないくらいに速いんだった……そういえば副店長だった……うん、初めて籠屋でお世話になりますした時もなんだかさくさくとんとんだった……でもたまに、なんかずれてる気がするんだよなあ。あれ、でも前は、もっとふんわりしてなかった? いや今も充分ふんわりしてるけど、こう……なんだか子供扱いが増してるような……。……もしかして、僕のこと、助けられなかった子たちの代わりみたいに……いや、代わりは違うかな。失礼だ。何だろう、よくわかんなくなってきた……)

 こんこんと考える羽鶴はううむと頭を傾げたが、納得できる答えは思い浮かばなかった。
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