二.花と貴方へ
「あ……はつる、おかえり……」
籠屋の玄関で香炉が手拭いと替えの着物を膝に乗せてことんと首を傾げている。見回せば、隣でわしわしと手拭いで髪を拭く雨麟、隅に溜まる雨水に一枚浮いた紅葉の葉、変わらずあるずぶ濡れの揃えられた草履。
「ただいま……あ、これお土産……」
「ありがとう……あとで、たべる……そのまえに、服」
「そーそー俺がひン剥いてやっから茶ァ頼むわ香炉。俺も土産あるしよ」
「わかった……おみや……」
濡れた着物一式を綺麗に畳み既に夜着に着替え首から手拭いを提げる雨麟が羽鶴の頭をわしわしと拭く。自分で脱ぐなどと一言二言を漏らそうが茶化され水気を拭われながら夜着を着せられ結局自分で拭いたのは足袋を脱いだ足くらいである。
「ほらこっち、ほーじ茶飲もうぜ~」
「雨麟、僕……守られてばかりだった」
「……」
「何かできたのかわからない。何か進んだのかもわからない。……傷つけてしまったかも」
「俺は内容はわからンが、ンなしょげこむこたねーよ。比べられることでも無え。ゆっくり変わることだってあらぁ」
「うん……ありがとう……」
「おう」
瓦屋根を叩く雨音、遠くで響く雷鳴。雨麟の後に続いてしんみり歩く羽鶴は両腕に抱える畳んだ着物に視線を落とす。
断片的に見た記憶。掘り起こすようなことをしなければ、彼はあんなにも苦しまずに済んだのだろうか。いや、日々悔いて、追われる度にまた悔いて、その都度思い出しては悔いてあぁ、ああ憎らしや――頸を裂いてもまだ足りぬ、骨を砕いてもまだ足りぬ、肉の一片すべて失せるまで――。
はた、と羽鶴は足を止める。何だ、今の。
(これも夢、みたいな続きなのか……? このあいだの夢から覚めてまた夢だった時のような……僕、本当に起きてる? ……確認のしようがない。もしかしたらずっと都合のいい夢を見ているのかもしれない。みんな優しくて……)
ここにいてもいいのだという優しさを忘れずにいたい。
こちらを向いて語りかけてくれる優しさに応えていきたい。
たとえ夢まぼろしだとしても覚えていたい。
ちらりと濡羽色の髪が浮かぶ。
(いやいやいやいや何考えてるんだ僕。贅沢が過ぎる……雨麟や香炉もいてくれてるのに会いたいとか馬鹿か。もう寝たかな……ていうかほっといてって言ってたからお土産明日でいいかな……)
「羽鶴~、ほれこっちこっち~」
「あ、うん」
(もし、全部夢だったとしても……このままにはしない)
灯りの漏れる障子の間からひょっこり顔を出して小さな手でちょいちょいと呼ぶ雨麟のもとへ行くと、座卓に乗る茶器や菓子の向こうに敷かれた布団に見慣れた黄朽葉色の髪が映った。
「ぎゃっ……宵ノ進? ここで寝るの……?」
「んふふ……雨麟と似たようなことを仰る……どうかお許しを。少し身体が動かぬのをいいことにこの有様にございます」
布団から顔だけ出している板前は見たところほわついているが内心ちょっと怒っていないだろうか。同じ事を思ったのか座卓の前に正座する雨麟の苦笑いに羽鶴はどきりとした。そういえば先程まで内緒話をしていたし、御本人の過去は覗くし、ああどうしようもしその影響で身体が動かなくなったなら流石の温厚な板前さんもブチギレ案件だよこれは、などと青い顔をする羽鶴に隅にいた香炉が茶托を置きながら座るよう促した。
「よいのしん、帰ってきたときから動かないから……てつじろーがおおるりに見つかって、喧嘩……」
「わたくしの咎だとは申し上げたのですが聞き入れてもらえず……虎雄様に海苔巻きのようにされた挙句此方へ摘み出された次第にございます」
「うっわ……」
「羽鶴、茶ァ飲め茶」
先程の心配が杞憂だったのはいいのだが、この静かな夜の籠屋のどこかで今日は引きこもりたかった気分な美人が暴れていると思うと遠い目になる羽鶴である。おそらくも何も避難させた店主に対してむくれている板前も血の気が多いのではないか――……むしろ喧嘩の時は動けずによかったのではないかとさえ過るが口に出したが最後お小言コースが目に見えたのでただ静かにほうじ茶を啜る。
美味しいじんわり温かい……おかしいなゆっくりお風呂に入って温まって布団で寝たい……と心の中で呟く羽鶴はふと疑問を口にする。
「宵ノ進も出掛けてたの? 鉄二郎さんと?」
「ええ、花祭りに。てっちゃんが雨で濡れてしまったので湯のある部屋を香炉にお願いしたのですが……湯上りで、取っ組み合いなどと……」
「ンでもまァ、虎雄がいンなら今頃座らされて口喧嘩ってとこじゃねぇかなぁ。あの筋肉の前じゃ怪我どうのにはならン」
「あ……てつじろー、泊まってく……」
「あいよ~この雨だしな。着物は明日まとめて洗うから今度返してやらねぇと」
「すみませんが雨麟、頼みますね」
「そだなぁ今度パン食べたいなぁ」
「ええと……ええと……小麦で西洋の……」
「よいのしん、きっと合ってる……」
無表情でちんまりと正座している香炉がすっと親指を立て、その横で悶々と考え込んでは瞬く板前に少し笑った雨麟がほうじ茶を口にする。
「そだお土産。花煎餅と~、花饅頭と~、花酒!」
「お酒は雨麟のでしょ!!」
「ンははあとの楽しみよ。香炉、付き合ってくれや」
「香炉も未成年でしょ!!」
「はつる……じつははたち……」
「え」
「見た目で判断すンなよなぁ。まァ慣れてっけどよ」
「え?」
「嘘だけどよぉ」
「…………うぅ」
「じゃ、着物の事は気にすンな。キレーにして持ってってやっからよ。香炉」
「うん……。よいのしん、いい?」
「ありがとうございます。動けるようになりましたらうんとお返し致しますので」
「いいからねてろ……」
「あらまぁ」
雨麟と香炉は羽鶴の茶だけを残し静かに障子を閉め行ってしまった。途端に取り残されたような気持ちと、抑え込んでいた憤りが羽鶴の表情に乗った。そのような眼を向けられた布団に寝たままの板前はそれが感情を煽ることになろうとも微笑った。煽られようと、きちんと『会話』を望むのであれば応えよう。一方的な罵りならば会話をする意味も無い。
「あんな守り方、僕は嫌だぞ」
「わたくしのひみつ、差し上げましたでしょうに。まだ足りぬと申されますか?」
「僕には鬼だーとか関係ない。宵ノ進は宵ノ進だから。危ないから遠ざけてくれてたのもわかる。大切にしてくれてるのもわかる。ごはんも美味しいし。でも、もうどうしようもないから来るなはない」
少し開いた間に羽鶴は引っ掛かりを覚える。金の眼は変わらず羽鶴に向けられているが、自分の何かを見られているような気がする。
「困りました。今羽鶴様に謝ったところで傷を深めるばかりですし。羽鶴様、幾分たくましくなられたような……? それは喜ばしいことなれど、すこし危ういのでは?」
「う、うおお……子供扱いが増してる気がする……! というかごまかされないぞ、お返事がまだ!」
「見られたくなかった。羽鶴様はどうしてか入り込んできてしまう。羽鶴様のご家族に御約束しました。わたくしは引き寄せ刀から貴方を守り、無事に御返ししなくてはなりません。健やかに、大切な貴方を損なう事無く。羽鶴様は以前わたくしの身の上を知った上でも良いと仰ってくださった。それだけでよかったのです。貴方に見せてよいものではなかった。貴方の眼も耳もなにもかもすべてに知られる必要のなかったもの。そのうえ頼りにしろと仰る。あれはわたくしが拭いきれなかった呪いのようなもの。死してなお執着を捨て去れぬ者をわたくしが許せずにいる。もう二度と、あの者が手にかけるなど許さない。来る度に、わたくしが屠ればよいのです」
「見たことは悪いとも思ってないし後悔もしてないよ。僕が勝手に入って行った、宵ノ進は追い払わなかった。僕に必要なことだったと思う。ちがう視点も必要だと思う。自分一人で考える枠を超えてることだと思う。宵ノ進、体が動かないのも引き寄せ刀が関係してるってことは僕にもわかるけど、それって追い詰められてるってことじゃないの。動かない体でどうやって倒すの、助けがいるじゃないか。僕は助けたいし力になりたいしちょっと頭にきてる。今はもう誰かに頼れるよ、話そうよ」
金の眼は二度瞬いた。普段ふんわりと人の話を聞く板前の口角に感情が乗らず無表情なのが怖い。しばしの間、だんだんと羽鶴の心臓がうるさくなってくる。真剣に憤った勢いも借りて話したはいいがこれって口喧嘩の部類に入ってたらどうしよう、などと一気に息が詰まってくる。せめて口はきいてほしい……と気持ちが泣きそうになったところで漸く板前が口を開いた。
「羽鶴様に……いえ皆に危害のない策を相談してみるのも良いと……。虎雄様と長話になりそうですが」
「……!」
「ですが危ない事などなさればわたくし容赦を忘れますのでどうか、覚えておいてくださいまし」
「大丈夫きっとそっちの方が怖い」
「……わたくしの留守の間、お客様の入りも人柄も妙だったと聞きました。大瑠璃が怪我をしたとも。朝日が寝込むほどに体を壊したとも。つつじ様がいらっしゃるほどに、貴方が怖い思いをしたのだと目にしたならば、どうして言い出せましょうか。わたくしは、あれの嫉妬なのではと思えてなりませぬ。わたくしが共に在る方に、……手を出そうとしたのではと。いいえ、誰も姿は見ていないのですから、あれは知らぬ筈なのです。だからこそ思うのです、あの怨嗟に近付けてはならぬのだと。……わたくしどうも、我が儘が抜けきれておらず……お誘いに乗ってしまいましたけれど」
苦笑した板前は、ふんわりと笑う。
「羽鶴様、こわいお顔をされておりますよ。ああ、明日には動けるとよいのですが」
冷めてしまったほうじ茶を、温かいものにしてやりたい。普段言われるでもなくしていることを阻まれている心地など気取られずにいたいものだが、どうも、暗がりに入り込まれてからはほんの少し鋭くなったようで。
「僕個人的には、一発ぶん殴ってもいいんじゃないかって思ってる」
「危ない事はなさらないと御約束致しましたね?」
「ん? あれ? 約束になってる……? ちょっとツツジさんのくだり詳しく教えて。僕その怖かったらしい夢か何かを全く覚えてなくて。いきなり抱き枕だよ?」
「いえわたくしも細部までは存じ上げませんので……羽鶴様、明日に響きますからお部屋へ行かれてはいかがです?」
「宵ノ進ここで寝るんでしょ、普段こんなのなかなかないから僕もここで寝る」
「ふぇ」
「押入れ、布団、あったー!」
畳に気を付けながら座卓をどかして隣に布団を敷いた羽鶴に、「あらまぁ」とのんびりとした声が届いた。
籠屋の玄関で香炉が手拭いと替えの着物を膝に乗せてことんと首を傾げている。見回せば、隣でわしわしと手拭いで髪を拭く雨麟、隅に溜まる雨水に一枚浮いた紅葉の葉、変わらずあるずぶ濡れの揃えられた草履。
「ただいま……あ、これお土産……」
「ありがとう……あとで、たべる……そのまえに、服」
「そーそー俺がひン剥いてやっから茶ァ頼むわ香炉。俺も土産あるしよ」
「わかった……おみや……」
濡れた着物一式を綺麗に畳み既に夜着に着替え首から手拭いを提げる雨麟が羽鶴の頭をわしわしと拭く。自分で脱ぐなどと一言二言を漏らそうが茶化され水気を拭われながら夜着を着せられ結局自分で拭いたのは足袋を脱いだ足くらいである。
「ほらこっち、ほーじ茶飲もうぜ~」
「雨麟、僕……守られてばかりだった」
「……」
「何かできたのかわからない。何か進んだのかもわからない。……傷つけてしまったかも」
「俺は内容はわからンが、ンなしょげこむこたねーよ。比べられることでも無え。ゆっくり変わることだってあらぁ」
「うん……ありがとう……」
「おう」
瓦屋根を叩く雨音、遠くで響く雷鳴。雨麟の後に続いてしんみり歩く羽鶴は両腕に抱える畳んだ着物に視線を落とす。
断片的に見た記憶。掘り起こすようなことをしなければ、彼はあんなにも苦しまずに済んだのだろうか。いや、日々悔いて、追われる度にまた悔いて、その都度思い出しては悔いてあぁ、ああ憎らしや――頸を裂いてもまだ足りぬ、骨を砕いてもまだ足りぬ、肉の一片すべて失せるまで――。
はた、と羽鶴は足を止める。何だ、今の。
(これも夢、みたいな続きなのか……? このあいだの夢から覚めてまた夢だった時のような……僕、本当に起きてる? ……確認のしようがない。もしかしたらずっと都合のいい夢を見ているのかもしれない。みんな優しくて……)
ここにいてもいいのだという優しさを忘れずにいたい。
こちらを向いて語りかけてくれる優しさに応えていきたい。
たとえ夢まぼろしだとしても覚えていたい。
ちらりと濡羽色の髪が浮かぶ。
(いやいやいやいや何考えてるんだ僕。贅沢が過ぎる……雨麟や香炉もいてくれてるのに会いたいとか馬鹿か。もう寝たかな……ていうかほっといてって言ってたからお土産明日でいいかな……)
「羽鶴~、ほれこっちこっち~」
「あ、うん」
(もし、全部夢だったとしても……このままにはしない)
灯りの漏れる障子の間からひょっこり顔を出して小さな手でちょいちょいと呼ぶ雨麟のもとへ行くと、座卓に乗る茶器や菓子の向こうに敷かれた布団に見慣れた黄朽葉色の髪が映った。
「ぎゃっ……宵ノ進? ここで寝るの……?」
「んふふ……雨麟と似たようなことを仰る……どうかお許しを。少し身体が動かぬのをいいことにこの有様にございます」
布団から顔だけ出している板前は見たところほわついているが内心ちょっと怒っていないだろうか。同じ事を思ったのか座卓の前に正座する雨麟の苦笑いに羽鶴はどきりとした。そういえば先程まで内緒話をしていたし、御本人の過去は覗くし、ああどうしようもしその影響で身体が動かなくなったなら流石の温厚な板前さんもブチギレ案件だよこれは、などと青い顔をする羽鶴に隅にいた香炉が茶托を置きながら座るよう促した。
「よいのしん、帰ってきたときから動かないから……てつじろーがおおるりに見つかって、喧嘩……」
「わたくしの咎だとは申し上げたのですが聞き入れてもらえず……虎雄様に海苔巻きのようにされた挙句此方へ摘み出された次第にございます」
「うっわ……」
「羽鶴、茶ァ飲め茶」
先程の心配が杞憂だったのはいいのだが、この静かな夜の籠屋のどこかで今日は引きこもりたかった気分な美人が暴れていると思うと遠い目になる羽鶴である。おそらくも何も避難させた店主に対してむくれている板前も血の気が多いのではないか――……むしろ喧嘩の時は動けずによかったのではないかとさえ過るが口に出したが最後お小言コースが目に見えたのでただ静かにほうじ茶を啜る。
美味しいじんわり温かい……おかしいなゆっくりお風呂に入って温まって布団で寝たい……と心の中で呟く羽鶴はふと疑問を口にする。
「宵ノ進も出掛けてたの? 鉄二郎さんと?」
「ええ、花祭りに。てっちゃんが雨で濡れてしまったので湯のある部屋を香炉にお願いしたのですが……湯上りで、取っ組み合いなどと……」
「ンでもまァ、虎雄がいンなら今頃座らされて口喧嘩ってとこじゃねぇかなぁ。あの筋肉の前じゃ怪我どうのにはならン」
「あ……てつじろー、泊まってく……」
「あいよ~この雨だしな。着物は明日まとめて洗うから今度返してやらねぇと」
「すみませんが雨麟、頼みますね」
「そだなぁ今度パン食べたいなぁ」
「ええと……ええと……小麦で西洋の……」
「よいのしん、きっと合ってる……」
無表情でちんまりと正座している香炉がすっと親指を立て、その横で悶々と考え込んでは瞬く板前に少し笑った雨麟がほうじ茶を口にする。
「そだお土産。花煎餅と~、花饅頭と~、花酒!」
「お酒は雨麟のでしょ!!」
「ンははあとの楽しみよ。香炉、付き合ってくれや」
「香炉も未成年でしょ!!」
「はつる……じつははたち……」
「え」
「見た目で判断すンなよなぁ。まァ慣れてっけどよ」
「え?」
「嘘だけどよぉ」
「…………うぅ」
「じゃ、着物の事は気にすンな。キレーにして持ってってやっからよ。香炉」
「うん……。よいのしん、いい?」
「ありがとうございます。動けるようになりましたらうんとお返し致しますので」
「いいからねてろ……」
「あらまぁ」
雨麟と香炉は羽鶴の茶だけを残し静かに障子を閉め行ってしまった。途端に取り残されたような気持ちと、抑え込んでいた憤りが羽鶴の表情に乗った。そのような眼を向けられた布団に寝たままの板前はそれが感情を煽ることになろうとも微笑った。煽られようと、きちんと『会話』を望むのであれば応えよう。一方的な罵りならば会話をする意味も無い。
「あんな守り方、僕は嫌だぞ」
「わたくしのひみつ、差し上げましたでしょうに。まだ足りぬと申されますか?」
「僕には鬼だーとか関係ない。宵ノ進は宵ノ進だから。危ないから遠ざけてくれてたのもわかる。大切にしてくれてるのもわかる。ごはんも美味しいし。でも、もうどうしようもないから来るなはない」
少し開いた間に羽鶴は引っ掛かりを覚える。金の眼は変わらず羽鶴に向けられているが、自分の何かを見られているような気がする。
「困りました。今羽鶴様に謝ったところで傷を深めるばかりですし。羽鶴様、幾分たくましくなられたような……? それは喜ばしいことなれど、すこし危ういのでは?」
「う、うおお……子供扱いが増してる気がする……! というかごまかされないぞ、お返事がまだ!」
「見られたくなかった。羽鶴様はどうしてか入り込んできてしまう。羽鶴様のご家族に御約束しました。わたくしは引き寄せ刀から貴方を守り、無事に御返ししなくてはなりません。健やかに、大切な貴方を損なう事無く。羽鶴様は以前わたくしの身の上を知った上でも良いと仰ってくださった。それだけでよかったのです。貴方に見せてよいものではなかった。貴方の眼も耳もなにもかもすべてに知られる必要のなかったもの。そのうえ頼りにしろと仰る。あれはわたくしが拭いきれなかった呪いのようなもの。死してなお執着を捨て去れぬ者をわたくしが許せずにいる。もう二度と、あの者が手にかけるなど許さない。来る度に、わたくしが屠ればよいのです」
「見たことは悪いとも思ってないし後悔もしてないよ。僕が勝手に入って行った、宵ノ進は追い払わなかった。僕に必要なことだったと思う。ちがう視点も必要だと思う。自分一人で考える枠を超えてることだと思う。宵ノ進、体が動かないのも引き寄せ刀が関係してるってことは僕にもわかるけど、それって追い詰められてるってことじゃないの。動かない体でどうやって倒すの、助けがいるじゃないか。僕は助けたいし力になりたいしちょっと頭にきてる。今はもう誰かに頼れるよ、話そうよ」
金の眼は二度瞬いた。普段ふんわりと人の話を聞く板前の口角に感情が乗らず無表情なのが怖い。しばしの間、だんだんと羽鶴の心臓がうるさくなってくる。真剣に憤った勢いも借りて話したはいいがこれって口喧嘩の部類に入ってたらどうしよう、などと一気に息が詰まってくる。せめて口はきいてほしい……と気持ちが泣きそうになったところで漸く板前が口を開いた。
「羽鶴様に……いえ皆に危害のない策を相談してみるのも良いと……。虎雄様と長話になりそうですが」
「……!」
「ですが危ない事などなさればわたくし容赦を忘れますのでどうか、覚えておいてくださいまし」
「大丈夫きっとそっちの方が怖い」
「……わたくしの留守の間、お客様の入りも人柄も妙だったと聞きました。大瑠璃が怪我をしたとも。朝日が寝込むほどに体を壊したとも。つつじ様がいらっしゃるほどに、貴方が怖い思いをしたのだと目にしたならば、どうして言い出せましょうか。わたくしは、あれの嫉妬なのではと思えてなりませぬ。わたくしが共に在る方に、……手を出そうとしたのではと。いいえ、誰も姿は見ていないのですから、あれは知らぬ筈なのです。だからこそ思うのです、あの怨嗟に近付けてはならぬのだと。……わたくしどうも、我が儘が抜けきれておらず……お誘いに乗ってしまいましたけれど」
苦笑した板前は、ふんわりと笑う。
「羽鶴様、こわいお顔をされておりますよ。ああ、明日には動けるとよいのですが」
冷めてしまったほうじ茶を、温かいものにしてやりたい。普段言われるでもなくしていることを阻まれている心地など気取られずにいたいものだが、どうも、暗がりに入り込まれてからはほんの少し鋭くなったようで。
「僕個人的には、一発ぶん殴ってもいいんじゃないかって思ってる」
「危ない事はなさらないと御約束致しましたね?」
「ん? あれ? 約束になってる……? ちょっとツツジさんのくだり詳しく教えて。僕その怖かったらしい夢か何かを全く覚えてなくて。いきなり抱き枕だよ?」
「いえわたくしも細部までは存じ上げませんので……羽鶴様、明日に響きますからお部屋へ行かれてはいかがです?」
「宵ノ進ここで寝るんでしょ、普段こんなのなかなかないから僕もここで寝る」
「ふぇ」
「押入れ、布団、あったー!」
畳に気を付けながら座卓をどかして隣に布団を敷いた羽鶴に、「あらまぁ」とのんびりとした声が届いた。