月下の戦い

 ──「彼女」の目の前に、はじめに現れたのは群れからはぐれた小さな白い兎。
 真っ赤な瞳は愛らしく、体を躍動させ、自由に飛び回る姿を美しいと思った。
 彼女は兎をとても気に入った。

 そして、彼女は白藍の瞳の兎になった。

「やめ、やめてくれ……! どうして、信じてたのに! なぜなんだ……!」
 ある男は嘆き、悲痛な面持ちで涙を流していた。
「私を騙していたの!? あんなに愛していたのに! 殺してやる! 殺してやる!」
 ある女は憎悪に身を焦がし、呪いの叫びをあげていた。
 兎は、人間のこんな光景を幾度となくその瞳に映してきた。信じて愛した者を裏切り、裏切られる様を。

 こうして兎は学んでいった。
 彼女は頭の回転が早く、とてつもない速度であらゆるものを観察し、吸収する。
 そして悟った。
 星とは言わば生物の集合体である。生物は感情を揺さぶれば綻びやすく、付け入る隙を生む。
 特に付け入りやすいのは、関係性の深いもの同士の絆であった。

 加えて、兎は非常に感覚が鋭く、生物の生体エネルギーを細やかに感じ取ることもできた。人知れず星を巡ると、遂には一際輝く大きな光を見つけた。
(これにしよう)
 兎は決めた。その光がエネルギーに満ち、星の大きな力となっていたからだ。
 だが、一番の理由は「美しい」からだ。
 彼女は穢れのない無垢なものに惹かれる性分だった。

 そして、兎は執着する質でもある。一度決めたら、目的を達成するまで諦めることはしなかった。
 それは、何十万キロもの遠く離れた場所にいた時から、この星の青さに心を奪われ「あそこへ行きたい」と強く願い、ついには実現させたほどだ。
 もちろん、はるばるやって来た本来の目的は別にあった。
 彼女には、何を犠牲にしてでもやり遂げなければならない使命があったのだ。


 ──イーシュは激しく吐血した。
 手には人間が差し出した、ルージョンの黒衣に似た切れ端を握りしめている。
 イーシュは一連の出来事を悟っていた。
 不意をつかれ、撃ち抜かれた背中の傷は胸まで達し、ぽっかりと穴を空けていた。
 穴からは真っ赤な血が勢いよく吹き出している。
 その時、イーシュの脳内に無機質な少女の声が響いた。

「「入れた」」

 脳内に激しく反響する声が全身を震わせる。
「か……は……っ!」
 イーシュは声を出そうと振り絞るも、吐血した喉からはえずきのようなものしか出ない。
 得体の知れないものに侵入された体は、もはや自分の意志では動かせず、抗おうとするも、内にいるものの力はとてつもなく強大だった。

 僅かに動かせる眼球でちらりと横を見ると、先程の人間の男が震え、泣きながら許しを乞うている姿が映った。
「精霊さま、お、お許しを……! わ、私は悪くないのです! 私は布を渡して、そう言えと言われただけで……それで、命を助けると……! まさか、こんな事になるなんて……っ!」
 頭を抱え、縋るように懺悔する男を横目にイーシュが硬直していると、背後から切り裂くような絶叫が聞こえた。

「イーシュ!!」

 そこにいたのは、黒い瞳を血走らせ一心不乱に駆けつけたルージョンだった。
「……これは……どうなってる!!」

 驚くべき光景を目の当たりにしたルージョンは、咄嗟にイーシュの傷を手で押さえ、血を止めようとした。だが、勢いよく溢れる血は一向に止まる気配がなかった。
 闇の属性は、攻撃する力は非常に強いが回復には向かない。ルージョンは、こんなにも自分の属性を呪うことがあろうとは今まで思いもしなかった。
 せめてもと、ありったけのエネルギーを注ぎ込みイーシュの体を維持しようとした。

 イーシュは痙攣しながらも口を動かす。
「……っ……ルー……ぐっ!」
「喋らなくていい!」
 無理やり話そうとするも、イーシュの口からは吐血が止まらず、顔は赤く汚れてしまう。ルージョンはそんなイーシュを制し、捲し立てる。
「だから言っただろう! こんな奴らに構うなと! お前があれだけ気にかけてやったにも関わらず、このざまだ! 人間は私利私欲しか考えていない! 助けるだけ無駄なんだよ!」

 怒りに震えるルージョンが更に続けようと口を開く。しかし、イーシュの瞳を見たルージョンは驚愕し、口を噤んだ。
 乱れた髪の隙間から見える瞳は、いつもの金色ではなく、徐々に白藍色に染まりつつあるのだ。
 それは乗っ取られたことを意味する敵の象徴だった!

 ルージョンが咄嗟に身構えると、イーシュの両手から衝撃波が発せられた。目が眩むほど大きな光だったが、ルージョンは防御して弾いた。
 その隙にイーシュは身を翻し、一直線にある方向へと駆け出していく。
「イーシュ!」
 衝撃と目の眩みで一瞬遅れたものの、ルージョンもすぐにイーシュの後を追う。二人はそのままエイヴルの街を後にした。

 すでに自分の意志では動いていない体で、イーシュはぼんやりと思考していた。
(そうか、この者は私の体を使い、ユーリエルを落としたかったのだな)
 イーシュの体はもの凄い速さで大樹に向かっている。
 おそらく大樹の守護の力は強力なため、敵は侵入できなかったのだろう。それゆえ、ユーリエルを弱らせた後、強い力を持つイーシュの体を使って侵入しようとしたのだ。

 思えば、始まりはユクアの森だった。
 イーシュとルージョンの大切な森を故意に破壊させ、二人を揺さぶった。
 その間にも不安を煽り、最後にはルージョンを出しに使って見事にイーシュを落とした。
 この戦争もそうだ。
 こちらが体制を整える前に奇襲し、戦力を分断した。そして、ユーリエルの大切な妖精たちを狙うことで、彼の力を一時的に無効とし戦局を大きく覆した。
 まさに用意周到で狡猾なやり口だった。

「イーシュ! 止まれ!」
 ルージョンの叫びで我に返ったイーシュは、歯を食いしばり必死に力を振り絞る。
 抵抗した力で僅かに速度が落ち、その隙にルージョンはイーシュの捕縛に成功した。

 二人は、崖が切り立つ広い高原の真ん中にいた。
 イーシュは全身を黒い輪で固定されているため微動だにできない。
 ルージョンは恐る恐る近づき、イーシュが動けないのを確認すると、そっと手を触れた。
「……これは」
 なんと、胸に先程まであったはずの傷がしっかりと塞がっていたのだ。衣には血の跡だけが残っていた。
 どうやら、敵はイーシュの体を自由自在に使うつもりのようで、光の力で治癒されていた。
 ルージョンは少し安堵するも、白藍に染まった瞳は未だ健在で、兄の体に入っている得体の知れないものは、確実にまだ中にいることを示していた。

 ルージョンは大きく息を吸い込み、意を決したように叫んだ。
「……白きものよ聞け!」
 それはイーシュではなく、イーシュの中にいる者への呼びかけだった。
「いいだろう! お前の好きにするがいい! 大樹でも、世界でも、人間でも好きに破壊し尽くせ!」
 イーシュの体はぴくりと跳ねるが、固定されているため、やはり動かすことはできない。

 ルージョンは続けた。
「その代わり、イーシュの体には傷一つ付けるな! 私も協力するから、お前のやりたいように使え! それでどうだ、私達二人の力は強大だ。大樹と精霊たちの首を取れるかもしれないぞ。悪い話ではないだろう! 私にはこんな世界どうだっていいんだからな!!」
 その叫びは身を切るようだった。
 イーシュの命を繋ぎ止めるため、全てをかなぐり捨てるように、ルージョンは敵に降伏すると訴えかけた。

 高原は夜の闇に包まれており、空には全てを監視しているかのような、皓皓と照らす月だけがあった。
 二人は長い間見つめ合い、息も付けないほど緊迫した時間が過ぎる。
 しばらくすると、ルージョンの耳に今にもかき消えてしまいそうなほど、小さくか細い声が届いた。
「……ルー……ジョ……」
「……! ……イーシュ!? イーシュ!!」

 イーシュは慈悲深く厳格な光の精霊であり、常に皆の中心的存在だった。その意志は強く、体には強大な力を秘めている。
 強い敵の支配をどうにか跳ね返し、瞳には金色が戻り始めていた。

 イーシュは憔悴した体で、慈しむようにルージョンへと語りかける。
「お前は違うよ……いつも、人を助けただろう」
 その声色は包み込まれるように優しかった。
 ルージョンは瞬きもせず聞き入る。
「私がかつて救ってきた魔族に襲われた村も、洪水で沈んだ町も、そして、我らの神殿に攫われた人々も……」
 イーシュは続ける。
「ユクアの森を破壊したあの日……お前は立ち去ったふりをしながら、後方で力を尽くしてくれたじゃないか。故郷を消し去る罪も一緒に背負ってくれた。私にはわかっているよ。いつも、お前は陰ながら私に力を貸し、人々を助けていたことを……」
「違う!!」

 ルージョンはイーシュの言葉を強く遮ると、静かな高原に響き渡るほどの声で叫んだ。
「違う……私は……全て大嫌いだ! お前を煩わせるこんな世界滅びればいいと思っている! いつもお前は人のため、世界のためと身を犠牲にしてきた……それが、ずっとずっと疎ましかった! こんな世界さえ、人間達さえいなければ……お前と……だから、私にとって、この状況はむしろ好都合なんだよ!!」
 ルージョンは心の内を一気に吐き出した。しかし、その後顔を背け、口を噤んでしまう。
 イーシュはそんな様子のルージョンを見ても、顔色一つ変えずに静かに待っていた。

 しばらく沈黙した後、ルージョンは力なく拳を握りしめると、観念したように呟いた。
「……ただ……イーシュ、お前が愛したもの達だから……私も守っただけだ……」
 項垂れ、小さくなっているルージョンにイーシュは微笑む。その眼差しはとても温かかった。
 まるで、兄が弟に向ける愛情そのものかのように。


 ──直後。
 イーシュの体は激しく痙攣し、瞳は白藍に染まる!
 ルージョンが拘束している黒い輪を引きちぎると、獣の咆哮かのように絶叫した。それでも抗おうとし、体中に血管が浮き出ている。
 だが、暴走は抑えられず、そのままの勢いで周囲一帯に光を放ち続けた。

 絶望的な光景を目の当たりにしたルージョンは、焦って中の者に叫ぶ。
「おい、やめさせろ! 先程の条件を飲め! 私はもう止めないから! イーシュ! イーシュ落ち着け! もう抗うな!」
 ルージョンは必死でイーシュを止めようと体を押さえ込んだ。その攻防によって、高原には地響きが鳴る。あたりはイーシュの攻撃で木がなぎ倒され、地面は陥没していた。
 イーシュはなおも苦しそうに呻いている。
 ルージョンは諦めず、今度は必死でイーシュの体を強く抱きしめた。
「イーシュ! もう苦しまなくていいんだ! 大丈夫、私に任せろ! 全て捨てて、これからは二人だけで生きていこう……! そうしよう……! な?」

 その時、ルージョンの頬に何か柔らかいものが触れた。突然の感触に驚きルージョンが顔を上げると、それはイーシュの右手だった。
 僅かの間あたりに静寂な時間が訪れる。
 顔はいつものイーシュに戻り、少しだけ悲しそうに微笑んでいた。

 そして、イーシュはルージョンの手を取り、静かに告げる。
「すまない……お前をひとりにしてしまう」

 その刹那、ルージョンが言葉をかける間もなくイーシュは大きな光を絞り出し、体内にいる敵もろとも自分の胸を貫いた──

 轟音と共に、イーシュの体はバラバラに砕け散り四散する。あまりに突然な光景をルージョンは呆然と眺めていた。
 視線を上にずらし、イーシュの顔だったものの断片を見つけると、その瞳からひと粒の涙が零れ落ちた。

 その涙で大地に閃光が広がり、光は瞬く間に光月花こうげっかの花畑となる。
 満月に照らされた光月花は、特性のため、純白な花びらを黄金に輝かせた。それは、ルージョンがいつも見ていた故郷の景色だった。
 ふと視線を向けると、花畑の中にはひと粒ほどのきらりと光る何かが落ちている。それは、イーシュの額にあった小さな小さな石だった。

 ──光月花とは「光の精霊の涙」から生まれる伝説の花である。
 イーシュとルージョンはその源を知らなかった。しかし、幼い頃に純白の花を見たルージョンは、まるでイーシュのようだと思い、この花をとても大事にしていた。花を見るといつでもイーシュと共にあるような、幸せな気持ちになれたのだ。

 ひとり残されたルージョンは、イーシュの額の石を握りしめ、魂を切り裂くように絶叫した。
「あああああああああああ」
 その恐ろしくも悲しい叫びは、大地を振動させ、周囲にいる動物たちが一斉に逃げ出した。
「イーシュ! お前はいつも! いつもそうだ……! 私ではなく、世界を選ぶ……! イーシュ!!」

 ルージョンの怒りはエネルギーの塊となり、天に突き抜ける竜巻を発生させた。その光景は、戦場にいる多くのものが遠くから目撃したことだろう。

 ルージョンが絶望し、うずくまっていたその時、風が吹けば消えてしまう程の小さな声が聞こえた。
 それは、無機質な少女の声だった。

「失敗した」

 ルージョンは驚きで目を見開く。
 虚空から聞こえる少女の囁きはひどく小さいはずなのに、なぜか鮮明に耳に届く。
 ルージョンにはこのものが何者なのかを瞬時に理解できた。
 彼は激しい怒りで全身を震わせた。
「……なぜ、貴様だけが……! まだ生きている!!」

 ルージョンは渾身の力を振り絞り、声の主を引っ掴むとそのまま大地の中へと引きずり込んだ。
 敵はイーシュの攻撃を受け、剥き出しの精神体に戻ってもなお莫大な力を秘めていた。
 ルージョンは我を忘れ、敵もろとも地中深くに沈んでいく。
「貴様だけは決して生かしておけぬ! 逃さぬぞ! ここで私と共に死ね!!」

 呪詛のように憎しみを吐きながら、ルージョンは彼女と絡まり合って消えていった。
 ルージョンの憎しみと悲しみの炎は肥大する。それは、いつまでもいつまでも消えることなく燃え続けたそうだ。
 彼らの居なくなった高原からは闇の気配が消え、光月花だけが輝きを放っている。
 その様は、この世のものとは思えないほど美しく幻想的だった──


 親玉が消えたことにより敵は統率力を失い、急激に衰えた。そして、竜族の誇りをかけた決死の攻撃によって、大部分を消滅させられていた。
 ただし、竜族自身もその殆どが死闘によって命を落とした。もちろん、竜族だけではない。この戦いによって世界はとてつもない被害を被った。

 この日、大樹には二つの石が還った。
 次の光と闇の精霊に生まれ変わるために。
 奇しくも、イーシュとルージョンは言い伝えの通り、共に果ててしまったのだった。

 世界は以降、この戦いで得た様々な教訓を活かして、精霊との「契約」制度を取り入れる。そして、強いモンスターの中から「聖獣」を選び、眷属として従えた。
 それにより、力と絆を強めていった。

 生き残った人々の間では、敵の姿形から様々な臆測がされて世に広まる。

 この戦いは後に。
「月から降り立つ者」との争いを意味する
「月下の戦い」と呼ばれるようになった──
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