When a man loves a woman
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いつものを頼む、約2ヶ月ぶりに訪れたプロシュートの言葉に店主の男は小さく頷いた。
店のバックバーには、100本近いボトルがバッキンガム宮殿の衛兵のようなすました面がまえで整然と並んでいる。そこから店主はカリラ25年のボトルを迷うことなく取り出した。
バーは裏路地にひっそりと佇んでいる。初老に近いバーテンダーは陽気なナポレターノからすればあり得ないぐらい無口で愛想もクソもない。以前、他の客とのやり取りからどうやら日本人らしいと知った。プロシュートは、目の前のバカラのロックグラスに測ったようにぴたりと収まった見事な球状の氷を眺めた。店主は客との話を早々に切り上げ黙々とアイスピックを動かしている。なるほど器用なもんだな、と、感心したものだ。
ジャズが静かに流れるこの店を見つけたのはマイだった。夜の隠れ家みたいなお店じゃない?私たちにピッタリだわ、と。事実、マルティーリ広場の一画を占める一流ブランドの店で働く彼女と、ギャングの中でも暗殺という身内からも煙たがられる仕事を生業にする男が会うのは、漆黒の闇が自分たちの姿を隠してくれる間だけだった。名前などとうに忘れた女にねだられて入った店で接客したのが彼女だった。髪をきゅっとまとめ、凛として、それでいてしなやかな物腰のマイからプロシュートは目が離せなかった。腕を絡ませてくる隣の女が途端に色褪せて見えてしまうほどに。
「私、婚約者がいるの。」
そんなマイの言葉はプロシュートにとって砂で出来た防波堤のようなものだった。何度も口説いてようやく、砂の城は崩れた。
マイに自分の仕事は告げなかったし、彼女もきくことはなかったが、薄々は気づいていただろう。たどって行けばネアポリスのもっとも影の部分につながる男だと。だから二人は、人目を避けて逢瀬を重ねた。ホテルやマイの部屋で。唯一、二人そろって外出するのはこのバーぐらいだった。
「・・・同じものを?」
控えめな声が暗褐色のカウンターの内側から尋ねる。はっとしたプロシュートはいつのまにか空になっているグラスに気がつき、ああ、と、短く返して煙草に火を点けた。やや体積を縮めた氷の表面を琥珀色の酒がすべるように流れ落ちてゆく。
たまにこんな夜がある。
眠れそうにない、かと言って適当な女を抱く気にもなれない、朝までが途方もなく遠い夜が。
「どうして、私を選んだの?」
いく度目かの情事の後、乱れたシーツの中で白い背中が尋ねた。マイがそんな質問をするのは初めてだった。プロシュートはなるべく自然に紫煙を吐き出しながら答える。
「・・・覚えてねえな。」
同じことを知りたいと思っていた。彼女の心の内を。しかしそれを知ることはもちろん、尋ねる資格すら自分にはなかった。遊びかどうかと問われれば遊びだった。おそらく彼女にとっても。婚約者とこの上なく穏やかで退屈な日常があるからこそできる火遊びだったのだろう。それが正解だと思った。自分のような男に関わってもロクなことはない。特に組織内がギスギスしていた頃だった。チームの仲間が二人、ボスの粛清を受けた。好きだ。愛してる。彼女の柔らかな身体を抱きしめ、そんな言葉が口をついて出そうになるたび、仲間の死に様が、自分自身の死に様のように頭をチラついた。
店主の腕が動く。吸い殻が3本溜まる前に音もなく取り替えられるマヨルカ焼きの灰皿。灰皿までバカラにしないのがこの店の粋なところだ。店主は相変わらず無駄口を叩かない。ただ何もかも心得ている。ペッシの奴が一人前になったら連れて来てやってもいいかもしれない。プロの仕事は好い。プロである自分でなくても許されるから。もっとも互いが同業の場合はそうはいかないが。
マイに最後に会ったのは3年前、彼女の部屋だった。ベッドルームの隅には数日後に彼女が身にまとう純白のドレスがあった。お互い口には出さなかったが、今日で終わりなのだと了解していた。別れ際、ベッドに横たわる彼女の髪を後ろからひとすくい持ち上げてそっと口づけた。彼女が起きているのは知っていた。けっして自分を引き留めはしないことも。プロシュートは静かに部屋を出て行った。
胸の痛みもいつかは薄れていくものだと安易に考えていた。まだ知らなかったからだ。かけがえのないものはーー、時が過ぎるほどにあざやかさを増していくことを。
3年前と今では、組織の事情が変わった。新しいボスはまだ少年とも言える歳だが、なるべくして成った男。それを覚悟と信念のあるアンダーボスが支えている。前のような殺伐とした組織ではない。だからなのか?いつまでも女々しく思い出してしまうのは。
ボナセーラ、と店主の声が静かに告げて、プロシュートはふと我に返る。細いヒールが床を鳴らす音に、女の客か、と、思う。
「隣、いいかしら?」
適当にあしらうつもりで視線を上げたプロシュートは思わず息をのむ。俺は夢をみているのか?なぜ彼女がここにいる?
「お祝いにね。ようやく離婚できたの。」
プロシュートの心を見透かすようにマイは微笑む。彼女が持ち上げた左手には、薬指にうっすらと跡が残っている。それよりもプロシュートの目は、色のない爪に吸い寄せられた。以前はカラフルなドロップスのように輝いていたのに。
本当に困ったひと、と、マイは目を細めてプロシュートを見つめる。
「私が欲しい言葉なんてひとつもくれなかったくせに、私を愛してることは嫌っていうほどわからせるんだもの。」
プロシュートはマイの手をつかみ、その甲に唇を押し当てた。
「ーっ・・・」
目を伏せる寸前、凛とした女の顔がくしゃりと歪むのが視界の端に映っていた。そして無言でグラスを拭くバーテンダーの横顔も。頭に浮かぶひとつの疑問。なぜ今夜、マイが現れたのか。
ーーそう。心得ているのだ、何もかも。
こらえきれないように嗚咽をもらすマイを抱き寄せながら、プロシュートは、ずいぶんと回り道をしたもんだ、と、思った。答えなどハナから決まっていたというのに。マイ、と、プロシュートは久しぶりに愛しい女の名を口にした。
「おまえは俺のすべてだ。」
細い肩が震える。記憶よりほっそりした彼女を抱きしめながら、ああコイツもつらかったんだな、と、プロシュートは思った。
店のバックバーには、100本近いボトルがバッキンガム宮殿の衛兵のようなすました面がまえで整然と並んでいる。そこから店主はカリラ25年のボトルを迷うことなく取り出した。
バーは裏路地にひっそりと佇んでいる。初老に近いバーテンダーは陽気なナポレターノからすればあり得ないぐらい無口で愛想もクソもない。以前、他の客とのやり取りからどうやら日本人らしいと知った。プロシュートは、目の前のバカラのロックグラスに測ったようにぴたりと収まった見事な球状の氷を眺めた。店主は客との話を早々に切り上げ黙々とアイスピックを動かしている。なるほど器用なもんだな、と、感心したものだ。
ジャズが静かに流れるこの店を見つけたのはマイだった。夜の隠れ家みたいなお店じゃない?私たちにピッタリだわ、と。事実、マルティーリ広場の一画を占める一流ブランドの店で働く彼女と、ギャングの中でも暗殺という身内からも煙たがられる仕事を生業にする男が会うのは、漆黒の闇が自分たちの姿を隠してくれる間だけだった。名前などとうに忘れた女にねだられて入った店で接客したのが彼女だった。髪をきゅっとまとめ、凛として、それでいてしなやかな物腰のマイからプロシュートは目が離せなかった。腕を絡ませてくる隣の女が途端に色褪せて見えてしまうほどに。
「私、婚約者がいるの。」
そんなマイの言葉はプロシュートにとって砂で出来た防波堤のようなものだった。何度も口説いてようやく、砂の城は崩れた。
マイに自分の仕事は告げなかったし、彼女もきくことはなかったが、薄々は気づいていただろう。たどって行けばネアポリスのもっとも影の部分につながる男だと。だから二人は、人目を避けて逢瀬を重ねた。ホテルやマイの部屋で。唯一、二人そろって外出するのはこのバーぐらいだった。
「・・・同じものを?」
控えめな声が暗褐色のカウンターの内側から尋ねる。はっとしたプロシュートはいつのまにか空になっているグラスに気がつき、ああ、と、短く返して煙草に火を点けた。やや体積を縮めた氷の表面を琥珀色の酒がすべるように流れ落ちてゆく。
たまにこんな夜がある。
眠れそうにない、かと言って適当な女を抱く気にもなれない、朝までが途方もなく遠い夜が。
「どうして、私を選んだの?」
いく度目かの情事の後、乱れたシーツの中で白い背中が尋ねた。マイがそんな質問をするのは初めてだった。プロシュートはなるべく自然に紫煙を吐き出しながら答える。
「・・・覚えてねえな。」
同じことを知りたいと思っていた。彼女の心の内を。しかしそれを知ることはもちろん、尋ねる資格すら自分にはなかった。遊びかどうかと問われれば遊びだった。おそらく彼女にとっても。婚約者とこの上なく穏やかで退屈な日常があるからこそできる火遊びだったのだろう。それが正解だと思った。自分のような男に関わってもロクなことはない。特に組織内がギスギスしていた頃だった。チームの仲間が二人、ボスの粛清を受けた。好きだ。愛してる。彼女の柔らかな身体を抱きしめ、そんな言葉が口をついて出そうになるたび、仲間の死に様が、自分自身の死に様のように頭をチラついた。
店主の腕が動く。吸い殻が3本溜まる前に音もなく取り替えられるマヨルカ焼きの灰皿。灰皿までバカラにしないのがこの店の粋なところだ。店主は相変わらず無駄口を叩かない。ただ何もかも心得ている。ペッシの奴が一人前になったら連れて来てやってもいいかもしれない。プロの仕事は好い。プロである自分でなくても許されるから。もっとも互いが同業の場合はそうはいかないが。
マイに最後に会ったのは3年前、彼女の部屋だった。ベッドルームの隅には数日後に彼女が身にまとう純白のドレスがあった。お互い口には出さなかったが、今日で終わりなのだと了解していた。別れ際、ベッドに横たわる彼女の髪を後ろからひとすくい持ち上げてそっと口づけた。彼女が起きているのは知っていた。けっして自分を引き留めはしないことも。プロシュートは静かに部屋を出て行った。
胸の痛みもいつかは薄れていくものだと安易に考えていた。まだ知らなかったからだ。かけがえのないものはーー、時が過ぎるほどにあざやかさを増していくことを。
3年前と今では、組織の事情が変わった。新しいボスはまだ少年とも言える歳だが、なるべくして成った男。それを覚悟と信念のあるアンダーボスが支えている。前のような殺伐とした組織ではない。だからなのか?いつまでも女々しく思い出してしまうのは。
ボナセーラ、と店主の声が静かに告げて、プロシュートはふと我に返る。細いヒールが床を鳴らす音に、女の客か、と、思う。
「隣、いいかしら?」
適当にあしらうつもりで視線を上げたプロシュートは思わず息をのむ。俺は夢をみているのか?なぜ彼女がここにいる?
「お祝いにね。ようやく離婚できたの。」
プロシュートの心を見透かすようにマイは微笑む。彼女が持ち上げた左手には、薬指にうっすらと跡が残っている。それよりもプロシュートの目は、色のない爪に吸い寄せられた。以前はカラフルなドロップスのように輝いていたのに。
本当に困ったひと、と、マイは目を細めてプロシュートを見つめる。
「私が欲しい言葉なんてひとつもくれなかったくせに、私を愛してることは嫌っていうほどわからせるんだもの。」
プロシュートはマイの手をつかみ、その甲に唇を押し当てた。
「ーっ・・・」
目を伏せる寸前、凛とした女の顔がくしゃりと歪むのが視界の端に映っていた。そして無言でグラスを拭くバーテンダーの横顔も。頭に浮かぶひとつの疑問。なぜ今夜、マイが現れたのか。
ーーそう。心得ているのだ、何もかも。
こらえきれないように嗚咽をもらすマイを抱き寄せながら、プロシュートは、ずいぶんと回り道をしたもんだ、と、思った。答えなどハナから決まっていたというのに。マイ、と、プロシュートは久しぶりに愛しい女の名を口にした。
「おまえは俺のすべてだ。」
細い肩が震える。記憶よりほっそりした彼女を抱きしめながら、ああコイツもつらかったんだな、と、プロシュートは思った。
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