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50
ーーいつも風が強い。
少年は、物心ついてから自身の故郷をそう感じていた。
毎年シーズンになると、名高いエメラルドの海と白いサンゴ礁を目当てに大勢の人間が押し寄せる故郷。が、少年には乾いた大地を吹き抜ける風の荒々しさが印象的だった。
島の歴史は古い。伝説によればまだ大地が混沌として形も定まらない頃、神が泥の中に足を踏み入れて、その足跡を残したのが島の始まりだという。地上の別天地のような海沿いに比べ、かつて陰の国と呼ばれた内陸部は険しい山が続き、羊がひっそりと草を食んでいる。女たちはいまだに黒装束を身につけ、人々の眼光は警戒するかのように鋭い。
そんな二面性をもつ島で少年は育った。
少年の養父はその穏やかな人柄から村の人間たちに慕われる神父だった。年老いた者の話に辛抱強く耳を傾け、貧しい者の家族が病気になれば、自分の蓄えを切り崩して医者を呼んでやった。だからだろうか、日曜のミサは熱心な信者でいっぱいだった。
そんな養父を見て育ったのだから、少年は養父を尊敬していた。しかし、同時に怖れていた。神父として完璧ともいえる善行を積む養父が、時折、少年を見る時の眼。その眼に光はなく、空っぽだった。深く真っ暗な井戸をのぞき込んだ時のように、そこには何も無かった。
気のせいかもしれない。養父はただ疲れているだけかもしれない。少年は何度も何度もそう思った。しかし一度心に巣食った異物は、ギラギラと照りつける太陽の中の黒点のようにけっして消えることはなかった。
少年が8歳になる春、ある家族が村に引っ越して来た。父親と娘とその祖母の3人だけの家族で、母親はすでに亡くなっていた。家族がそろって養父の元に挨拶に訪れた時、少年も呼ばれ、父親の後ろからこちらをじっと見つめる少女と目が合った。少女の方がいくつか年上だろう。緊張しているふうではない。わずかに首を傾げ、興味深い何かをよく観察しているという風情だった。少年の鼓動が速まる。その少女の瞳は、他では見たことがないほど美しい菫色をしていた。
人あたりがいいと言われるイタリア人だが、この島の人々は例外だ。警戒心が強く、余所者をなかなか受け入れない。小さな村ならなおさらだ。村の神父というものは、村の世話役としての役割もある。神父は、少女の一家を気にかけた。
その特殊な生い立ちの為、また内向的な性格の為、少年には友人と言える存在はほぼいなかった。そんな彼が、閉鎖的な土地で余所者扱いされる孤独な少女と言葉を交わすようになるまでそれほど時間はかからなかった。
気がつけば二人は、学校や家の手伝い以外の時間は一緒に過ごすようになった。好奇心旺盛な彼女に付き合って島の遺跡を散策したり、あるいは海に潜ったり。口さがない大人たちは仲の良い少年と少女を見てヒソヒソと噂したが、二人は気にならなかった。二人は、二人だけに通じる世界で、まるで姉と弟のような絆を育んでいた。
秘密があるの。ある日、少女は突然そう告げた。浅瀬で存分に泳ぎ、そろそろ家路につこうかと言う頃合いだった。二人は岩場に並んで座っていた。少女は、身に着けている簡素な白いワンピースの裾を時間をかけて直した。そして前を向くと、ぽつぽつと語った。それは少女の家にまつわる不思議な話だった。まるで目立つことを恐れるようにひっそりと暮らす少女の家族。少年にはよく理解できないところもあったが、口を挟むことのできないある種の威厳のようなものが少女を包んでいた。鈴の音のような声でコロコロと愛らしく笑う普段の彼女とは別人のように大人びている。潮風に髪を舞わせながら水平線の向こうを見つめる少女の姿は、サッソフェラートの絵画のように美しかった。手を触れてはならない神聖なもののように感じた。少年はまだ崇拝という言葉を知らなかったが、それに近い感情をこの日知った。少女の向こうでは、海が静かに太陽を溶かしていた。
************
その出生からすでに尋常ならざるものだった少年。彼がそういう星の下に生まれたのかどうかはわからない。ただ、穏やかな少年時代はある日突然、決定的に終止符を打つことになる。
ある特別に暑い夏。
夜中、少年はふと目覚めた。真っ暗な自分の部屋の中に誰かがいる気配を感じる。暗闇から注がれる視線。開け放した窓から虫の声と生ぬるい風が絶えずなだれ込んでくる。少年が半身を起こすと視線の正体がわかった。
闇にまぎれてベッドの脇から自分を無言で見下ろす養父がいた。何かしらの急な用事を言いつける為に少年の部屋に来たわけではないのは明らかだった。
養父は無表情だった。およそ感情と呼べるものをすべて切り取ったかのような顔をしていた。その光の無い目を見て、あの目だ、と、少年は思った。そこにはただ、果てしない虚無がぽかりと穴を開けていた。人間を見ている眼つきではなかった。本能的な恐怖に少年は震えた。声は喉の奥に張りつき、寝苦しいほど暑いのに寒気がした。養父は片手を持ち上げた。開いた手がゆっくりゆっくり少年の顔との距離を詰めてゆく。少年は身動きひとつできないまま、しだいに大きくなる手のひらを見ていた。風の音がうるさい。闇の中から伸びる手のひら。やがてそれは少年の視界を覆い尽くした。
翌朝。少年は一睡もできずに朝を迎えた。水を飲む為にひどく痛む身体を引きずってベッドから降りた。台所にいた養父は少年におはようと声をかけると、これからロッシさんの家に行って来るよ、おばあさんがだいぶ弱っているらしくて私と話をしたいそうだ。そう言って普段通りに朝食をとり身支度を整えて家を出て行った。
台所の床に少年はへたり込む。夢だったのか?あまりに寝苦しい夜だったからーー、アスモデウスに喰われる悪夢を見たのか?でも・・・少年は手首に目を落とす。そこにはきつく抑え込まれた赤い痣が残っていた。
しばらく経っても少年は混乱していた。自分の身に起こったことを誰にも話せなかった。誰が信じるだろうか、周りの大人たちはただでさえ犯罪者の子どもとして自分を蔑んでいるというのに。みんなが養父を非の打ち所のない立派な人間だと思っているのに。少年は、少女なら自分の言うことを信じてくれるだろうと思った。少女も、ここ数日の少年の暗く沈んだ様子に気づき大そう心配していた。しかし少年はどうしても打ち明けられなかった。自分が唯一、心を許している相手だからこそ知られなくなかった。もしーー、もし万が一、自分を見る目が変わってしまったら?自分を避けるようになったら?また自分はひとりぼっちだ。耐えられない。それだけは。少女を失いたくない。心が悲鳴を上げる。どうすればいいんだ。苦しい。助けて。
無かったことにしよう、と、少年は思った。悪い夢を見たと思って、全部忘れてしまうんだ。それが一番いいんだ。
忘れればいいだけ。少年のその願いも虚しく、悪夢はそれからも続いた。部屋に鍵を取り付けても壊され、罰とばかりに痛めつけられた。しかし少年を抵抗できなくさせているのは肉体的な辛苦ではなく、精神的な支配だった。赤ん坊の自分を引き取り育てた養父。その昼間の姿は以前とまったく変わらない。夜だけーー、養父の目から光が消える時だけ、彼の中の悪魔が姿を現すのだ。自身の生い立ち故の葛藤と、人間の心の闇に対する恐怖。この二つが少年を支配していた。
時折、不思議な声が聞こえるようになったのはこの頃からだった。その声は頭の中に直接響き、そして、どことなく自分の声に似ていた。
少年は、昼間はこれまで通りに過ごし、夜はひたすら朝になるのを待った。そして、教会の近くで少女と会うことををやめた。少女は訝しがったが、できる限り少女を養父から遠ざけたかった。
もし少年が、少女にすべてを打ち明けていたら、この後の未来は変わったのかもしれない。
少年が15の時、少女の父親が死んだ。一緒に暮らしていた父方の祖母も数年前に亡くしていた少女は、天涯孤独の身の上となった。父親の葬儀が終わると、少女は養父の元を訪れて世話になった礼を言った。少年は少し離れた場所からその様子を<見張って>いた。養父が何事か告げて、少女はうつむきがちに頷く。その時、少年は、うつむいた少女を見下ろす神父の口の端がわずかに持ち上がり、嗤ったのを確かに見た。戦慄が少年の身体を突き抜ける。恐れていたことがついに起きた。そばで守ってくれる彼女の父親はもういない。彼女はひとりで暮らすことになるだろう。あまりにも無防備だ。彼女は、目の前で完璧な慰めの言葉を紡ぐ男の深すぎる闇を知らない。
少年の全身がわなわなと震える。なぜか頭の中に自分の声が響いている。養父の魔手から彼女を救ってやらなければ。それができるのはおまえだけだ。おまえだけがあの美しい少女を救える。
教会の床に伸びた養父の影。その中で悪魔が赤い舌を出して笑っている。一瞬、少年の目の色がノイズが走るように紅く変化したことに少年自身は気がつかない。物陰から養父を見すえる少年の身体はもう震えてはいなかった。
その日から少年はひそかに準備に取りかかった。もちろん少女に知られてはならない。彼女は無垢なままでいなくてはいけないから。時々、記憶が抜け落ちたようになくなることもあったが、計画を達成する為に必死だったので気にならなかった。自身の故郷が小さな村とはいえ名高い観光地に近いのは、少年にとっては幸運だったと言える。海を目当てに、島の外からふらりとやって来る若いカップルが多いからだ。そう、少年と少女と背格好が同じくらいの。
そしてある晩、村は大火事に見舞われ、強風が村の家々を焼き払った。初めて少年は、忌み嫌っていた故郷の風にわずかばかり感謝した。
************
少年は、少女を連れて村を出た。急激な環境の変化に戸惑っていた少女も、しだいに自由な生活に馴染み始めた。もともと好奇心が強い。小さな島の閉塞感から解放され、少年と少女は、そのあふれる若さを味方に、新しい生活を楽しむようになった。
しばらくイタリア各地を転々とし、ある時、ひょんな偶然から二人は小さな組織に拾われる。警察や政治家は、社会からはじき出された者たちには冷たい。組織はまっとうとは言いがたいものの、そんな人々にとって必要悪とされる仕事を請け負っていた。そこで初めて少年は、少女の不思議な能力は他にもさまざな形があり、それを持っている人間が他にもいることを知った。自分にもその力が欲しい、と、少年は切に願った。誰よりも強い力。それがあれば、もう誰にも支配されない。逆に支配することさえできる。そう伝えると少女は、人を支配するための力などいらない、と少年に言った。特別な力がなくても、少年は家族同然の存在だと。それは少女の本心だとわかっていた。しかし、二度と支配されない為には、自分が力を手に入れ、支配する側になるしかないじゃあないか。力がなければ、美しいものを美しいままで守れないじゃあないか。力を得ることに固執する少年を、少女は哀しげな表情を浮かべて見つめていた。
意外にも少女は組織や仕事にすんなりと馴染んでいた。少女はーー少女というよりもはや大人だったがーーどちらかと言えば控えめな性格だが、けっして臆病ではなかった。さらに、誰にでも偏りなく優しかった。まるでそうするのが自身に課せられた責務であるかのように。少女の周りに人が集まったのはごく自然なことだろう。そんな少女を見ていると、少年は自分が無力な存在に思えた。彼女は知る由もないが、自分は長い間、自身を犠牲にして彼女を養父から守ってきた。島を出てからもそうだ。それなのに少女といると、自分の影の部分ばかりが目立つような気になってくる。少女には特別な力も、人を惹きつける魅力もある。それに比べて何もない自分。このままでは、少女が自分からどんどん離れて、手の届かないところへ行ってしまうのではないか?少女を失いたくない。なんとかしなければ。少年は焦った。焦りは日増しに強くなっていった。それとともに、我に返るとまったく覚えのない場所にいたり、服が血だらけだったりすることが増えた。
少し疲れているのかもしれない。そう思い少年は、気晴らしにエジプトへ旅に出ることにした。少女も、少年が元気になればと笑顔で見送った。そしてカイロ近郊の遺跡で偶然発掘したのが、6本の<矢>だった。
矢を見た瞬間にわかった。この矢には何か得体の知れない力があると。市場の裏通りで両手とも右手のエンヤという老婆が、矢の使い方を教える代わりに何本か売って欲しいと言って来た。老婆の話を聞いて少年の胸は高鳴った。スタンド能力。間違いない。これで自分も、少女と対等の力を得ることができる。少年が歓喜に震える手で老婆から金を受け取っていると、鈍く光る真鍮の水差しに映り込んだ少年の顔を見ながら老婆は奇妙なことを言った。おや、矢はもう1本あるようだねェ。アンタはツイてる。アンタの一番近くにいる人間が隠しとるようじゃよ。
にわかには信じがたかったが、老婆の言葉は耳の奥にへばりついて離れなかった。そしてスタンド能力を手に入れた少年はイタリアへ戻った。
少年が家に着いた時、少女は出かけていた。真っすぐに彼女の部屋へ向かう。少女は島を出る時から小さな箱を持っていた。職人だった彼女の父親が作った仕掛け箱で、開け方は少女しか知らない。以前、中には何が入っているのかきくと、母親の形見だと答えた。もし、もし少女が矢を持っているとしたら、そこにあるに違いない。少年は鏡台の引き出しの奥で箱を見つけると、迷わず床に叩きつけた。
家に戻った少女が見たのは、粉々に壊れた仕掛け箱と、呆然と立ちすくむ少年の姿だった。少年の手には、少女の母方の先祖から代々受け継いでいる<矢>が握られていた。ほぼ同時に、少年の雰囲気が今までと違うことに気づいた。まさかスタンド使いに?どうやって?この矢は、<スタンド能力を発現させる矢ではないはずなのに>。
打ち明けてはもらえないが、少年は何か大きな秘密を抱えていると少女は感じていた。そのせいなのか時々、おかしな言動がある。少女の前では一度もないが、仕事仲間の話では、普段と人が変わったような暴力性をみせることがあるという。強さへ異常な執着が、少年の心を不安定にしているようにも見えた。そんな危うい精神状態の時に、精神エネルギーを具現化したスタンドを手に入れてしまったら。少女は、少年が心のバランスを失ってしまうことを案じていた。そして、少女の為ではなく、もっと自分自身の幸せの為に生きてほしいと願っていた。
一方、少年は箱の中から出てきた矢を信じられない思いで見つめていた。一番近くにいる人間が隠してる。老婆の声が頭の中をぐるぐる回る。少女は自分に隠していたのか?スタンド能力を得るこの矢の存在を。自分がスタンド能力をー、<力>を欲しがっているのを誰よりも知っていたはずなのに。自分は、血を吐く思いで少女をかばってきたのに。腹の底に溜め込んでいた負の感情が怒りとなって噴き出してくる。なぜわかってくれないんだ、自分はこんなにも少女の為に尽くしてきたのに!
ーー裏切りだ。
頭の中の声が、ぞっとするほど心地よくささやく。おまえがいくら彼女の代わりにみずからの手を血で汚そうとも、彼女が応えることはない。彼女は、おまえがスタンド能力を持つのを恐れ、矢の存在を隠していた。おまえは裏切られたのだ。<おまえが必要としているほど、彼女はおまえを必要としていない>からだ。俺にすべてをゆだねろ。俺なら、おまえを支配者にすることができる。二度と踏みにじられることはない。今度はおまえが踏みにじる番だ。頂点に立つ<帝王>としてーーーーー。
少年は崩れるように膝をついた。頭が割れそうに痛い。息ができない。手に入れたばかりのスタンドが暴れ出しそうだ。もがき苦しむ自分に少女が血相を変えて駆け寄る。だめだ。来るな。来ないでくれ。コントロールできない。脂汗を流しながら少年は顔を上げて少女を見た。水晶のようなヴィオラの瞳の中に、自分の苦痛に歪んだ顔が映っている。こんなに苦しむのは誰のせいだ?違う。やめろ。いったい何なんだこの声は。すさまじい力で自分を抑えつけ、外に出ようとしている。おまえは最強の力を手に入れた。あとは俺に任せるがいい。
次の瞬間、怒号とも悲鳴ともつかない声で、少年は絶叫した。
************
どれほど時間が経ったのだろう。少年が目覚めた時、辺りは薄暗かった。頭の中が、霧がかかったようにぼんやりとしている。少女の姿はない。家の中は静まり返っている。目の前の絨毯が一面、じっとりと湿っていて、手を伸ばすと手のひらがペンキを塗ったようにべちゃりと赤く濡れた。しかし自分は、どこにも怪我などしていない。
何が起こったのか正確にはわからない。右腕におぞましい感覚が残っている。絨毯の上には、本来の輝きを失い黒っぽく変色した少女の矢が転がっていた。この右腕で引き裂いたのは少女なのか、あるいは自分の心か。ただひとつ確かなことは、少女は二度と帰らないということだった。
少年の身体は再び力を失って倒れた。床がまるで沼になったように感じる。ドロリと生ぬるい液体に全身がずぶずぶと飲み込まれ、深く深く沈んでいくようだ。どこへいくんだろう。自分の中からかけがえのないものが消えていくような気がする。失うのはいやだ。ああだけど、ひどく頭が痛い。焦燥感や劣等感に苦しむのはもうたくさんだ。楽になりたい。もう何も考えたくない。もう何も。
少年はそっと目を閉じる。自我を手放す瞬間、すぐそばで不気味な笑い声が響くのを聞いた。ドッピオ、と、呼ばれたような気がした。
♢
ーー現代。ヴェネツィア。
「・・・過去というものは、」
バラバラにしてやっても、石の下からミミズのように這い出てくる。
これは、<試練>だ。
過去に打ち勝てという試練と、俺は受け取った。
『ジョルノは、必ずあなたを倒す!』
人の成長は、未熟な過去に打ち勝つことだと・・・!
無機質なコール音はほどなくして止んだ。
「・・・スクアーロか。<裏切り者>が出た。このヴェネツィアでだ。」
ーーいつも風が強い。
少年は、物心ついてから自身の故郷をそう感じていた。
毎年シーズンになると、名高いエメラルドの海と白いサンゴ礁を目当てに大勢の人間が押し寄せる故郷。が、少年には乾いた大地を吹き抜ける風の荒々しさが印象的だった。
島の歴史は古い。伝説によればまだ大地が混沌として形も定まらない頃、神が泥の中に足を踏み入れて、その足跡を残したのが島の始まりだという。地上の別天地のような海沿いに比べ、かつて陰の国と呼ばれた内陸部は険しい山が続き、羊がひっそりと草を食んでいる。女たちはいまだに黒装束を身につけ、人々の眼光は警戒するかのように鋭い。
そんな二面性をもつ島で少年は育った。
少年の養父はその穏やかな人柄から村の人間たちに慕われる神父だった。年老いた者の話に辛抱強く耳を傾け、貧しい者の家族が病気になれば、自分の蓄えを切り崩して医者を呼んでやった。だからだろうか、日曜のミサは熱心な信者でいっぱいだった。
そんな養父を見て育ったのだから、少年は養父を尊敬していた。しかし、同時に怖れていた。神父として完璧ともいえる善行を積む養父が、時折、少年を見る時の眼。その眼に光はなく、空っぽだった。深く真っ暗な井戸をのぞき込んだ時のように、そこには何も無かった。
気のせいかもしれない。養父はただ疲れているだけかもしれない。少年は何度も何度もそう思った。しかし一度心に巣食った異物は、ギラギラと照りつける太陽の中の黒点のようにけっして消えることはなかった。
少年が8歳になる春、ある家族が村に引っ越して来た。父親と娘とその祖母の3人だけの家族で、母親はすでに亡くなっていた。家族がそろって養父の元に挨拶に訪れた時、少年も呼ばれ、父親の後ろからこちらをじっと見つめる少女と目が合った。少女の方がいくつか年上だろう。緊張しているふうではない。わずかに首を傾げ、興味深い何かをよく観察しているという風情だった。少年の鼓動が速まる。その少女の瞳は、他では見たことがないほど美しい菫色をしていた。
人あたりがいいと言われるイタリア人だが、この島の人々は例外だ。警戒心が強く、余所者をなかなか受け入れない。小さな村ならなおさらだ。村の神父というものは、村の世話役としての役割もある。神父は、少女の一家を気にかけた。
その特殊な生い立ちの為、また内向的な性格の為、少年には友人と言える存在はほぼいなかった。そんな彼が、閉鎖的な土地で余所者扱いされる孤独な少女と言葉を交わすようになるまでそれほど時間はかからなかった。
気がつけば二人は、学校や家の手伝い以外の時間は一緒に過ごすようになった。好奇心旺盛な彼女に付き合って島の遺跡を散策したり、あるいは海に潜ったり。口さがない大人たちは仲の良い少年と少女を見てヒソヒソと噂したが、二人は気にならなかった。二人は、二人だけに通じる世界で、まるで姉と弟のような絆を育んでいた。
秘密があるの。ある日、少女は突然そう告げた。浅瀬で存分に泳ぎ、そろそろ家路につこうかと言う頃合いだった。二人は岩場に並んで座っていた。少女は、身に着けている簡素な白いワンピースの裾を時間をかけて直した。そして前を向くと、ぽつぽつと語った。それは少女の家にまつわる不思議な話だった。まるで目立つことを恐れるようにひっそりと暮らす少女の家族。少年にはよく理解できないところもあったが、口を挟むことのできないある種の威厳のようなものが少女を包んでいた。鈴の音のような声でコロコロと愛らしく笑う普段の彼女とは別人のように大人びている。潮風に髪を舞わせながら水平線の向こうを見つめる少女の姿は、サッソフェラートの絵画のように美しかった。手を触れてはならない神聖なもののように感じた。少年はまだ崇拝という言葉を知らなかったが、それに近い感情をこの日知った。少女の向こうでは、海が静かに太陽を溶かしていた。
************
その出生からすでに尋常ならざるものだった少年。彼がそういう星の下に生まれたのかどうかはわからない。ただ、穏やかな少年時代はある日突然、決定的に終止符を打つことになる。
ある特別に暑い夏。
夜中、少年はふと目覚めた。真っ暗な自分の部屋の中に誰かがいる気配を感じる。暗闇から注がれる視線。開け放した窓から虫の声と生ぬるい風が絶えずなだれ込んでくる。少年が半身を起こすと視線の正体がわかった。
闇にまぎれてベッドの脇から自分を無言で見下ろす養父がいた。何かしらの急な用事を言いつける為に少年の部屋に来たわけではないのは明らかだった。
養父は無表情だった。およそ感情と呼べるものをすべて切り取ったかのような顔をしていた。その光の無い目を見て、あの目だ、と、少年は思った。そこにはただ、果てしない虚無がぽかりと穴を開けていた。人間を見ている眼つきではなかった。本能的な恐怖に少年は震えた。声は喉の奥に張りつき、寝苦しいほど暑いのに寒気がした。養父は片手を持ち上げた。開いた手がゆっくりゆっくり少年の顔との距離を詰めてゆく。少年は身動きひとつできないまま、しだいに大きくなる手のひらを見ていた。風の音がうるさい。闇の中から伸びる手のひら。やがてそれは少年の視界を覆い尽くした。
翌朝。少年は一睡もできずに朝を迎えた。水を飲む為にひどく痛む身体を引きずってベッドから降りた。台所にいた養父は少年におはようと声をかけると、これからロッシさんの家に行って来るよ、おばあさんがだいぶ弱っているらしくて私と話をしたいそうだ。そう言って普段通りに朝食をとり身支度を整えて家を出て行った。
台所の床に少年はへたり込む。夢だったのか?あまりに寝苦しい夜だったからーー、アスモデウスに喰われる悪夢を見たのか?でも・・・少年は手首に目を落とす。そこにはきつく抑え込まれた赤い痣が残っていた。
しばらく経っても少年は混乱していた。自分の身に起こったことを誰にも話せなかった。誰が信じるだろうか、周りの大人たちはただでさえ犯罪者の子どもとして自分を蔑んでいるというのに。みんなが養父を非の打ち所のない立派な人間だと思っているのに。少年は、少女なら自分の言うことを信じてくれるだろうと思った。少女も、ここ数日の少年の暗く沈んだ様子に気づき大そう心配していた。しかし少年はどうしても打ち明けられなかった。自分が唯一、心を許している相手だからこそ知られなくなかった。もしーー、もし万が一、自分を見る目が変わってしまったら?自分を避けるようになったら?また自分はひとりぼっちだ。耐えられない。それだけは。少女を失いたくない。心が悲鳴を上げる。どうすればいいんだ。苦しい。助けて。
無かったことにしよう、と、少年は思った。悪い夢を見たと思って、全部忘れてしまうんだ。それが一番いいんだ。
忘れればいいだけ。少年のその願いも虚しく、悪夢はそれからも続いた。部屋に鍵を取り付けても壊され、罰とばかりに痛めつけられた。しかし少年を抵抗できなくさせているのは肉体的な辛苦ではなく、精神的な支配だった。赤ん坊の自分を引き取り育てた養父。その昼間の姿は以前とまったく変わらない。夜だけーー、養父の目から光が消える時だけ、彼の中の悪魔が姿を現すのだ。自身の生い立ち故の葛藤と、人間の心の闇に対する恐怖。この二つが少年を支配していた。
時折、不思議な声が聞こえるようになったのはこの頃からだった。その声は頭の中に直接響き、そして、どことなく自分の声に似ていた。
少年は、昼間はこれまで通りに過ごし、夜はひたすら朝になるのを待った。そして、教会の近くで少女と会うことををやめた。少女は訝しがったが、できる限り少女を養父から遠ざけたかった。
もし少年が、少女にすべてを打ち明けていたら、この後の未来は変わったのかもしれない。
少年が15の時、少女の父親が死んだ。一緒に暮らしていた父方の祖母も数年前に亡くしていた少女は、天涯孤独の身の上となった。父親の葬儀が終わると、少女は養父の元を訪れて世話になった礼を言った。少年は少し離れた場所からその様子を<見張って>いた。養父が何事か告げて、少女はうつむきがちに頷く。その時、少年は、うつむいた少女を見下ろす神父の口の端がわずかに持ち上がり、嗤ったのを確かに見た。戦慄が少年の身体を突き抜ける。恐れていたことがついに起きた。そばで守ってくれる彼女の父親はもういない。彼女はひとりで暮らすことになるだろう。あまりにも無防備だ。彼女は、目の前で完璧な慰めの言葉を紡ぐ男の深すぎる闇を知らない。
少年の全身がわなわなと震える。なぜか頭の中に自分の声が響いている。養父の魔手から彼女を救ってやらなければ。それができるのはおまえだけだ。おまえだけがあの美しい少女を救える。
教会の床に伸びた養父の影。その中で悪魔が赤い舌を出して笑っている。一瞬、少年の目の色がノイズが走るように紅く変化したことに少年自身は気がつかない。物陰から養父を見すえる少年の身体はもう震えてはいなかった。
その日から少年はひそかに準備に取りかかった。もちろん少女に知られてはならない。彼女は無垢なままでいなくてはいけないから。時々、記憶が抜け落ちたようになくなることもあったが、計画を達成する為に必死だったので気にならなかった。自身の故郷が小さな村とはいえ名高い観光地に近いのは、少年にとっては幸運だったと言える。海を目当てに、島の外からふらりとやって来る若いカップルが多いからだ。そう、少年と少女と背格好が同じくらいの。
そしてある晩、村は大火事に見舞われ、強風が村の家々を焼き払った。初めて少年は、忌み嫌っていた故郷の風にわずかばかり感謝した。
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少年は、少女を連れて村を出た。急激な環境の変化に戸惑っていた少女も、しだいに自由な生活に馴染み始めた。もともと好奇心が強い。小さな島の閉塞感から解放され、少年と少女は、そのあふれる若さを味方に、新しい生活を楽しむようになった。
しばらくイタリア各地を転々とし、ある時、ひょんな偶然から二人は小さな組織に拾われる。警察や政治家は、社会からはじき出された者たちには冷たい。組織はまっとうとは言いがたいものの、そんな人々にとって必要悪とされる仕事を請け負っていた。そこで初めて少年は、少女の不思議な能力は他にもさまざな形があり、それを持っている人間が他にもいることを知った。自分にもその力が欲しい、と、少年は切に願った。誰よりも強い力。それがあれば、もう誰にも支配されない。逆に支配することさえできる。そう伝えると少女は、人を支配するための力などいらない、と少年に言った。特別な力がなくても、少年は家族同然の存在だと。それは少女の本心だとわかっていた。しかし、二度と支配されない為には、自分が力を手に入れ、支配する側になるしかないじゃあないか。力がなければ、美しいものを美しいままで守れないじゃあないか。力を得ることに固執する少年を、少女は哀しげな表情を浮かべて見つめていた。
意外にも少女は組織や仕事にすんなりと馴染んでいた。少女はーー少女というよりもはや大人だったがーーどちらかと言えば控えめな性格だが、けっして臆病ではなかった。さらに、誰にでも偏りなく優しかった。まるでそうするのが自身に課せられた責務であるかのように。少女の周りに人が集まったのはごく自然なことだろう。そんな少女を見ていると、少年は自分が無力な存在に思えた。彼女は知る由もないが、自分は長い間、自身を犠牲にして彼女を養父から守ってきた。島を出てからもそうだ。それなのに少女といると、自分の影の部分ばかりが目立つような気になってくる。少女には特別な力も、人を惹きつける魅力もある。それに比べて何もない自分。このままでは、少女が自分からどんどん離れて、手の届かないところへ行ってしまうのではないか?少女を失いたくない。なんとかしなければ。少年は焦った。焦りは日増しに強くなっていった。それとともに、我に返るとまったく覚えのない場所にいたり、服が血だらけだったりすることが増えた。
少し疲れているのかもしれない。そう思い少年は、気晴らしにエジプトへ旅に出ることにした。少女も、少年が元気になればと笑顔で見送った。そしてカイロ近郊の遺跡で偶然発掘したのが、6本の<矢>だった。
矢を見た瞬間にわかった。この矢には何か得体の知れない力があると。市場の裏通りで両手とも右手のエンヤという老婆が、矢の使い方を教える代わりに何本か売って欲しいと言って来た。老婆の話を聞いて少年の胸は高鳴った。スタンド能力。間違いない。これで自分も、少女と対等の力を得ることができる。少年が歓喜に震える手で老婆から金を受け取っていると、鈍く光る真鍮の水差しに映り込んだ少年の顔を見ながら老婆は奇妙なことを言った。おや、矢はもう1本あるようだねェ。アンタはツイてる。アンタの一番近くにいる人間が隠しとるようじゃよ。
にわかには信じがたかったが、老婆の言葉は耳の奥にへばりついて離れなかった。そしてスタンド能力を手に入れた少年はイタリアへ戻った。
少年が家に着いた時、少女は出かけていた。真っすぐに彼女の部屋へ向かう。少女は島を出る時から小さな箱を持っていた。職人だった彼女の父親が作った仕掛け箱で、開け方は少女しか知らない。以前、中には何が入っているのかきくと、母親の形見だと答えた。もし、もし少女が矢を持っているとしたら、そこにあるに違いない。少年は鏡台の引き出しの奥で箱を見つけると、迷わず床に叩きつけた。
家に戻った少女が見たのは、粉々に壊れた仕掛け箱と、呆然と立ちすくむ少年の姿だった。少年の手には、少女の母方の先祖から代々受け継いでいる<矢>が握られていた。ほぼ同時に、少年の雰囲気が今までと違うことに気づいた。まさかスタンド使いに?どうやって?この矢は、<スタンド能力を発現させる矢ではないはずなのに>。
打ち明けてはもらえないが、少年は何か大きな秘密を抱えていると少女は感じていた。そのせいなのか時々、おかしな言動がある。少女の前では一度もないが、仕事仲間の話では、普段と人が変わったような暴力性をみせることがあるという。強さへ異常な執着が、少年の心を不安定にしているようにも見えた。そんな危うい精神状態の時に、精神エネルギーを具現化したスタンドを手に入れてしまったら。少女は、少年が心のバランスを失ってしまうことを案じていた。そして、少女の為ではなく、もっと自分自身の幸せの為に生きてほしいと願っていた。
一方、少年は箱の中から出てきた矢を信じられない思いで見つめていた。一番近くにいる人間が隠してる。老婆の声が頭の中をぐるぐる回る。少女は自分に隠していたのか?スタンド能力を得るこの矢の存在を。自分がスタンド能力をー、<力>を欲しがっているのを誰よりも知っていたはずなのに。自分は、血を吐く思いで少女をかばってきたのに。腹の底に溜め込んでいた負の感情が怒りとなって噴き出してくる。なぜわかってくれないんだ、自分はこんなにも少女の為に尽くしてきたのに!
ーー裏切りだ。
頭の中の声が、ぞっとするほど心地よくささやく。おまえがいくら彼女の代わりにみずからの手を血で汚そうとも、彼女が応えることはない。彼女は、おまえがスタンド能力を持つのを恐れ、矢の存在を隠していた。おまえは裏切られたのだ。<おまえが必要としているほど、彼女はおまえを必要としていない>からだ。俺にすべてをゆだねろ。俺なら、おまえを支配者にすることができる。二度と踏みにじられることはない。今度はおまえが踏みにじる番だ。頂点に立つ<帝王>としてーーーーー。
少年は崩れるように膝をついた。頭が割れそうに痛い。息ができない。手に入れたばかりのスタンドが暴れ出しそうだ。もがき苦しむ自分に少女が血相を変えて駆け寄る。だめだ。来るな。来ないでくれ。コントロールできない。脂汗を流しながら少年は顔を上げて少女を見た。水晶のようなヴィオラの瞳の中に、自分の苦痛に歪んだ顔が映っている。こんなに苦しむのは誰のせいだ?違う。やめろ。いったい何なんだこの声は。すさまじい力で自分を抑えつけ、外に出ようとしている。おまえは最強の力を手に入れた。あとは俺に任せるがいい。
次の瞬間、怒号とも悲鳴ともつかない声で、少年は絶叫した。
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どれほど時間が経ったのだろう。少年が目覚めた時、辺りは薄暗かった。頭の中が、霧がかかったようにぼんやりとしている。少女の姿はない。家の中は静まり返っている。目の前の絨毯が一面、じっとりと湿っていて、手を伸ばすと手のひらがペンキを塗ったようにべちゃりと赤く濡れた。しかし自分は、どこにも怪我などしていない。
何が起こったのか正確にはわからない。右腕におぞましい感覚が残っている。絨毯の上には、本来の輝きを失い黒っぽく変色した少女の矢が転がっていた。この右腕で引き裂いたのは少女なのか、あるいは自分の心か。ただひとつ確かなことは、少女は二度と帰らないということだった。
少年の身体は再び力を失って倒れた。床がまるで沼になったように感じる。ドロリと生ぬるい液体に全身がずぶずぶと飲み込まれ、深く深く沈んでいくようだ。どこへいくんだろう。自分の中からかけがえのないものが消えていくような気がする。失うのはいやだ。ああだけど、ひどく頭が痛い。焦燥感や劣等感に苦しむのはもうたくさんだ。楽になりたい。もう何も考えたくない。もう何も。
少年はそっと目を閉じる。自我を手放す瞬間、すぐそばで不気味な笑い声が響くのを聞いた。ドッピオ、と、呼ばれたような気がした。
♢
ーー現代。ヴェネツィア。
「・・・過去というものは、」
バラバラにしてやっても、石の下からミミズのように這い出てくる。
これは、<試練>だ。
過去に打ち勝てという試練と、俺は受け取った。
『ジョルノは、必ずあなたを倒す!』
人の成長は、未熟な過去に打ち勝つことだと・・・!
無機質なコール音はほどなくして止んだ。
「・・・スクアーロか。<裏切り者>が出た。このヴェネツィアでだ。」