いちごソーダとホットミルク
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─ 4 ─
膝の上には照り焼きチキンサンドに、たまごサンドが交互に並んだお弁当箱。
あれからすっかりサンドイッチ弁当にハマってしまった。昨日のおかずの残りもバターとマヨネーズを塗ったパンに挟むだけで見た目も味も彩りも良いオシャレ弁当になるから不思議だ。そしてそれを会社から少し歩いた河川敷のベンチでまったりと食べる。この時だけは仕事の不安や緊張から解き放たれ、腕を後ろに組んで軽くストレッチしたり、深呼吸して不要な心配事を吐き出したりしていた。
お腹のアザはまだらに紫が残る黄色っぽい色に変わって、痛々しい見た目に反して痛みは無く、消えるのを待つだけな感じだ。
それでも過保護気味になってしまった直くんは残業もそこそこに私が夕飯を作っている時間に帰ってくるようになった。直くんが帰れない日は真ちゃんが家にいてくれて、寂しさも和らいだ。
「気を利かせてあげてるのに、まさか兄さんまでいないとは。寂しかったね、ごめんね」
と、昨夜は年下の真ちゃんにまで頭をよしよし撫でられてしまった。
川には鴨が群れで泳いでいる。悠々と泳ぐ様は綺麗だった。一羽が川面を蹴って飛び立つと、続けてバシャバシャと音を立てて飛び立って行った。波紋は円が連なっていて、残されたものも綺麗でしばらく見とれた。静かな流れにそれは広がる前に消えてしまったけれど、目の前が黒に遮られるまでぼんやりと眺めていた。
「ぼうっとするのが好きなんですか」
黒の上まで顔を上げると、イレイザーヘッドさんが少し上半身を丸めて私を見ていた。ここはオフィス街で黒の服なんてたくさんいるから身構えてしまった。
彼だとわかると途端に体の中に炭酸水のようなものが湧き上がり、パチパチ弾けて恋の色に染まっていく。ときめいてはじゅわっと広がっていくこの感覚は恋なのだと、覚えたての身体は嬉しそうにとくんとくんと胸を高鳴らせる。
「こんにちは! 先日は本当にありがとうございました」
「いえ、仕事ですので」
高揚して高くなった私の声とはうらはらに、隣いいですか、と落ち着いた声で彼は聞いて、どうぞ、と少し端に寄った私の隣に座った。座面の低いベンチでは長い脚を持て余していて、少し窮屈そうだった。
「これ、どうぞ」
そう言って渡された紙袋の理由がわからず、首を捻りながら受け取った。開けて確認してください、という彼に従って紙袋を開いてみると、あの時無くしたと思っていたタンブラーが入っていた。色も形も私が持っていたもので、でもあんな場所に落としたというのに傷一つない。新品だ。
一体どこまでが彼の言う仕事なのだろう。
あの時彼は確かに考え込んでいて、私のことなんか覚えていなさそうな素振りだった。それなのに、彼はまたここへ来て私の前に立った。まるで花びらの事も覚えているかのように。
「これは、」
「あの日あなたを見つけた場所に落ちていたのでもしかしたらと思ったんです。見つけた時は潰れていて。同じものでしたか? 入っていたバッグは同じ物を見つけられず、すみません」
「ありがとうございます。ええ、全く同じです。バッグは何かのノベルティで貰ったものなのでお気になさらないで…、ではなくてですね。落としたのも潰れたのもイレイザーヘッドさんのせいではないのに。これも仕事、ですか」
「いえ、違います。あなたに会う口実です。返されても困るので受け取ってください。もしかして、俺がヒーローだから花びら拾う手伝いをしたとでも?」
違う? 口実? ヒーローだから? どういうこと?
ええっと、この間助けたのは仕事だけど、花びらもこのタンブラーも仕事ではないってこと、で合ってる?
「え、と、覚えていないのかと…」
「ああ、あの時はあなたが塚内さんの恋人かと思って、忘れていたふりをしたんです。それでも熱っぽい目で俺を見るから違うと思って」
杞憂に終わってよかった、と彼は笑った。その横顔に柔い春の風が吹いて、私たちの視線が交わった。切なさできゅうと喉が苦しくなる。
「俺、あなたが好きです。付き合ってくれませんか」
「うそ、私も、でもどうして」
膝の上に置いた手の薬指と小指に、長くて節々が目立つ雄々しい彼の指がするりと絡む。鎖骨辺りがむずがゆくて、泣きそうになった。
「一目惚れ、ってやつですよ」
彼が言うには、こんなに桜は舞っているのになぜ一枚を追うだけで掴みにいこうとしないのかと気になっていたところ、とうとう諦めてしまった私に焦ったく思ったそう。聞いても全然一目惚れの理由になっていなくてさらに首を捻った。私みたいにかっこよく助けてもらってキュンならわかるけれど、焦ったく思ってキュン? 謎だった。
「で、返事は?」
長い前髪の隙間から鋭い三白眼が覗いて、そらせない深い黒が私を捕える。
「わ、私も好きです。よろしくお願いします」
「時間、大丈夫ですか。ギリギリなら送りますよ」
ニヤリと笑った彼に、ヒーローをタクシー代わりになんてできません! と言うと、今度はくつりと喉を鳴らして笑った。去り際に、「俺の連絡先、その紙袋に入れてるんで」と言って、片方の手はポケットに突っ込んだまま、大きな手のひらを見せてひらひらと振った。好きな人が自分の事を好きだと言った昼下がり。春の暖かさが見せた白昼夢かと思ったけれど、淡い風景の中に真っ黒なヒーローは確かに存在していて、まだ本名も知らないけれど、今日から私の恋人になったその人は川面の反射できらきらと輝いて見えた。
仕事から帰っても浮かれたままの私はエビフライを揚げている。
こんな時に手の込んだ揚げ物をしないでいつするの。タルタルソースだって作っちゃうんだから。
「ただいま」
「直くん! おかえり。ちょうどごはん出来たよ、食べる?」
「ああ、いただくよ」
部屋着に着替えてきた直くんと部屋にいた真ちゃんを呼んで、久しぶりの三人での食事だ。
「うっわあ! 手作りのエビフライなんて実家ぶり! えっ、もしかしてタルタルソースも手作りだったり?!」
「へへ〜、頑張っちゃった。お口に合うといいけど」
「合うに決まってるじゃない、ね! 兄さん!」
「あ、ああ。すごく美味しそうだ」
喜んでくれている塚内兄妹に、むふむふ笑いながら私も席に座る。揃っていただきますと言った後、二人がタルタルソースをたっぷり乗せてがぶりとエビフライに齧り付くのを交互に見つめる。
「んん〜! 美味しい〜! 持つべきは料理上手な姉よ。こんなに愛らしくて甘えん坊の妹属性なのに、ちょぉっとぼんやりしてるけれど概ねしっかりしてて頭も良いし将来有望で、さらに料理上手なんて最高だわ」
「うん、美味しい。酸味の効いたタルタルソースが好みだな。エビの食感とソースのザクザクした具材の食感が合っていてすごく美味しいよ」
「お口に合ったみたいでよかったあ」
「何か良い事でもあったのかしら。姉さん結構料理に気分出るじゃない? 今はこれにハマってるのか〜とかわかりやすくて可愛いわ」
さすが真ちゃん、鋭い。サクッと軽い衣の音をそれぞれ立てながら会話も弾む。楽しい。週に一回くらいは三人で夕飯食べたいな。そうだ、大事な人たちだからお付き合いする人ができたって伝えた方がいいよね。
「あの、さ、イレイザーヘッドさんってどんな人?」
「うーん、私は間接的にしか知らないからなあ、兄さんの方が詳しいんじゃないかしら」
直くんの眉がぴくりと動いて、麦茶をひとくち飲むと、うーんと唸った。
「イレイザーか。そうだなあ、一匹狼、人を寄せ付けない拒絶した言動の印象が強いが、彼の周りには人が自然と集まっているなあ。個性やスタンス的にそういうふうに繕っているように見えるかな。勘違いしてる者もいるかもしれないが情に熱く面倒見のいい青年だよ。個性も強いが彼自身の戦闘力もテクニックも凄まじいものだな。努力家だと思うよ」
「へえ、ベタ褒めじゃん。メモっていいかしら」
彼のヒーロー活動に支障が出るから駄目だと慌てる直くんに、はいはいと軽く返事をする真ちゃん。直くんから見てもイレイザーヘッドさんは良い人なんだな。それもそうかヒーローなんだもんね。そんな人が私の恋人。人生初彼氏。
「で、その人がどうしたの?」
「今日、お昼に会って、告白されたの。付き合おうって」
ぼと、ぼと、と箸から落ちて皿に転がる食べかけのエビフライたち。真ちゃんは大きな瞳を見開いて、口がパクパクと動いている。直くんは固まってしまった。そんなに衝撃だったかな。それもそうか、私だってまだ夢のようだと思ってるんだもん。
「に、兄さん! 何してるのよ! 違うわ! なんで何もしてないのよ! 私の姉さんがあ、あの小汚いヒーローのものになっちゃったあ。地元でも大学でも姉さんに寄ってくる男どもを蹴散らしていたのに!」
「え? 蹴散らす? ま、まあ、大丈夫だよ、真ちゃん。私はずっと真ちゃんのお姉ちゃんだから」
直くんの肩を掴んでブンブン揺さぶる真ちゃんを落ち着かせるため席を立って二人の間に立つ。そうじゃない〜と泣き出した真ちゃんの頭を撫でていると、腰に腕が回されて引き寄せられた。お腹に顔を埋めてきたのは直くんで、珍しく無言でそわそわする。最初は私に恋人ができて驚いているだけだと思っていたのに、この二人の反応を見るとどうやらそうではないみたい。二人とも様子は違うけれど落ち込んでいる、ように見える。
「誕生日プレゼント決めたよ、きみが欲しい。昔からずっと好きだったよ。愛してる」
顔を上げて、逞しい腕の中に私を閉じ込めた直くんはそう言った。
初恋の人が、私を欲しいと言った。
返事はできなかった。見つめる事しかできない私に、直くんは悲しそうに微笑んでもう一度ぎゅっと抱きしめた。
イレイザーヘッドさんから言われた時とは違う、蜂蜜がとろりと溶け込むホットミルクのようなもので満たされるこの気持ちはなんなのだろう。
夕飯後、自室のベッドに座って紙袋に入ったタンブラーを取り出す。その下に置いてあった折り畳まれた紙には、少し癖のある右上がりの字で名前と電話番号、メッセージアプリのIDが書かれてあった。
「あいざわしょうた」
声に出すとちゃんとドキドキする。でも直くんを思うと揺れるこの気持ちはなに? 今まで向けられていた優しさを妹だからと思わなくてよくなった途端、そう思うのはあまりにも都合がよすぎるんじゃない? 彼にも、直くんにも失礼だと思う。
好きな人に告白された日に、初恋の人からも告白をされた。自分の人生でこんな恋愛ドラマみたいな事が起こるなんて思ってもみなかった。
「どうしたらいいの、わからない」
だって、まともに恋愛をした事がなかったし、恋に落ちたのも初恋以来だったから。
いちごソーダとホットミルクは混ざり合う事なく、ちゃぷんと私の中で揺れ、温度差に震えた。