いちごソーダとホットミルク
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─ 3 ─
花びらよりも緑が目立つようになった桜の木は見頃を過ぎ、上を向いて眺める人もいなくなってしまった。
私はこの葉桜も好き。落ちてくる毛虫に注意しないといけないのが難点だけれど、鮮やかな水々しい葉が揺れるのもまた春だなあと思ったりする。
社会人になって初めての休日。せっかくのお休みでも家には真ちゃんも直くんも居なくて、寂しさを紛らわすため近所の公園へ来ていた。日陰はひんやりとしていて、ほとんどの人が陽の当たる暖かな場所にいた。こんなに立派なガゼボなのに人がいないのはそういうことか、と座った石のベンチでお尻がひやりとして気づいた。
バッグとは別に持ってきたミニトートにはタンブラーに淹れた紅茶と一缶だけ残っていたシーチキンをツナマヨにしたサンドイッチが入っている。あたたかな光景を眺めながらを温かい紅茶をひとくち。そしてサンドイッチもがぶり。勢いで作った六枚切りの食パンを二枚使った豪快なサンドイッチは結構な満足感で、今度作るときはサンドイッチ用のパンか八枚切りにしようと誓った。会社のお弁当に持っていってもいいかもな、とハムときゅうりやたまごが並んだ可愛らしいお弁当を思い浮かべる。社食は美味しいんだけど、混んでいるし、スーツの人に囲まれていては緊張で食べた気がしない。
「それにしてもいい天気」
日が少し傾いて、足元に陽だまりができてきた。さわさわと揺れる葉の音に合わせて、影もちらちらと揺れる。甘さに青が混ざって春が濃くなる。好きな季節の空気を胸いっぱいに吸い込んで、読みかけの小説を開く。
長めの一章を読み終わる頃には周りも静かになっていた。
夕飯の買い物をしてから帰ろう。帰りが遅くても冷蔵庫にメモを貼っていれば二人ともちゃんと食べてくれるし、メモに返事まで書いてくれるから嬉しい。本当は小さい時みたいに三人で食卓を囲んだりしたいんだけど、忙しい二人にはなかなか言えないでいた。
切らしていた野菜と、数日分のお肉とお魚、やっとたくさん並ぶようになって少しだけ手が届きやすくなったいちごをスーパーで買って、店を出たところで買い忘れに気づく。戻るより進んだところにあるドラッグストアに寄ろう、と道なりに進んでいた時だった。
前方から建物より上に昇る土煙りに、ズンと内臓を揺らす地響き、高低様々な叫び声、焦りと恐怖で歪んだ表情で全力で走ってくる人々。
──近頃、鳴羽田に現れる敵が急増しているから駅周辺や繁華街へ行く時はくれぐれも気をつけるんだよ。特に路地裏なんかは入っては絶対に駄目だ。
引越してきた時から直くんがそう何度も言っていた。余計な心配をかけたくなくて気をつけているつもりだった。理不尽とはこんなにも突然訪れるものなのか。路地裏になんか入っていないし、ましてや明るい時間の人通りも多い大きな道で、まさか自分が遭遇するだなんて思ってもいなかった。直くんは警察で、真ちゃんも自警団なるヴィジランテを追いかけていたり、ヒーローと一緒に仕事をしていて、人よりはその危険さを知っていたはずなのに。
動けなかった。近づいてくる土煙りに、映像越しではない間近で聞く人々の慌て助けを求める叫び声に、足が竦んだ。人の波が避けられなかった。何度か肩がぶつかりよろけて、体勢を崩したところに今度は女性のバッグが腹部に当たった。こんなところに突っ立ってる私が悪い。転けるまでのスローモーションを想像して、ヴィランに遭遇する最悪を想像して目をギュッと瞑った。けれど、痛みや悪意が私を襲うことはなかった。
「ヒーローです。安全な場所まで移動します」
ふわりと浮く体に恐る恐る目を開けると、私を抱えてくれていたのは花びらを取ってくれたヒーロー、イレイザーヘッドさんだった。
街のヒーローが救護場所として設けていた場所まで送り届け、手短に私の状態を説明すると、お礼を言う暇もなく目では追えない速さでまたあの恐ろしい場所の方へと戻っていった。
ヒーローが駆け寄ってきて怪我の有無を聞かれた。イレイザーヘッドさんが助けてくれたおかげで怪我はなかったけれど、唯一痛んだ腹部にアザができていた。意外と強くバッグが当たっていたらしい。
「迎えに来てくれそうな親族の方はいらっしゃいますか?」
「いえ…」
「そうですか、ではこちらで様子を確認しますので、しばらく安静にお願いします」
内臓に影響はないものの、万が一の事を考えてしばらくここで休ませてもらうことになった。
私が運ばれてきた後、数人手当てを受けていたけれど、それ以上増えることはなく、見回りをしてくれていたヒーローが事件は解決したと話しているのを耳にして心底安堵した。同時に手に持っていた荷物がない事に今更気づいて、唯一肩から下げていたショルダーバッグの中身を確認した。財布、携帯、鍵、本。よかった、大事なものは全部入ってた。本にはあの栞が挟まれている。ぴょこんと本から出ている薄紫のリボンにホッと胸を撫で下ろした。
事件が解決したのなら私もそろそろ帰らなければいけないのだろうか。イレイザーヘッドさんは無事だろうか。個性犯罪を取扱っている直くんもきっとこの場所に来ている。また大怪我していないといいけれど。そう考えていると、パーテーションの向こうで聞き慣れた声がして、ぎゅっと縮こまっていた心臓が少しほぐれた。
「お疲れ様です。要救護者の数の確認に来ました」
「塚内警部、お疲れ様です。こちらがリストになります」
「ありがとう。……あの、この方はもう帰りましたか?」
「いえ、まだこの向こうに。腹部に打撲を負っていて、幸い内臓に影響はないのですが万が一を考えて安静にしてもらっています」
「そうか。ありがとう」
コツコツと革靴の足音が近づいて、見た事のないほどに心配した顔の直くんが入ってきた。
「大丈夫か、お腹痛まないか? 他に怪我は」
触れそうで触れない。手袋をした直くんの手が私の輪郭をなぞる。怪我をしたのは私なのに、直くんの方が泣きそうな顔をしている。
「大丈夫。お腹も平気だし、他に怪我はしてないよ。心配かけてごめんなさい」
直くんは、はあと長い息を吐きながらしゃがみ込んで、生きた心地がしなかったよ、とぽつり溢した。前に危険に首を突っ込みすぎた真ちゃんをこっぴどく叱る直くんを思い出して、それとは違う心配の仕方に胸が苦しくなった。私の膝に置かれた直くんの手に、私もごめんねと手を重ねる。
「すみません。こちらに塚内警部いらしてないですか」
誰かが来て、受口のヒーローがあちらに、と言いかけている間にその人はやってきた。
「塚内さん、被害場所にあった拾得物は…、あ、すみませんお取り込み中でしたか」
「いや、ありがとうイレイザー。それは警察で預かるよ。車に三茶がいるから話をしよう」
「…イレイザーヘッドさん」
「え、っと」
「四月始めに、川の横で桜の花びら拾いを手伝ってもらった者です。今日も助けてくださってありがとうございました」
イレイザーヘッドさんは、うーんと顎に手を当てて考え込むと、「ああ、あの時の」と言って会釈をした。考え込むほど薄い記憶だったか、それともただの社交辞令か、とチクリと胸が痛んだ。
救護場所を後にして、二人はパトカーの近くで、三茶と言われていた見た目猫さんの警察官と話し込んでいた。
私も調書を取るのに話があるとかで直くんに手招きされ、イレイザーヘッドさんと一緒に警察署へ向かう事になった。警部とヒーローに挟まれてパトカーの後部座席だなんてなんだか極悪ヴィランになってしまったかのような変な緊張感がある。居心地が悪いわけではないけれど、イレイザーヘッドさん側の体がぴりぴりとこわばる。息も浅くてこのままだと着く頃には酸欠になってしまいそう。
「そ、そういえば、夕飯作って冷蔵庫入れておこうって思ったのに、買ったもの全部無くしちゃった。ごめんね直くん」
「なおくん、」
「あ、いや彼女は一緒に住んでるんだ。仕方ないさ、帰りにまた買おう」
「一緒に、」
「妹みたいなものですよ。小さい頃からの幼馴染なんです。昔から頼りになるお兄ちゃんで」
「へえ、妹ねえ」
カーブで車が曲がって、耐えようと力を入れたけれどお腹が痛んで、結局イレイザーヘッドさんにもたれかかってしまった。体勢を戻すにも腹筋に力が入らず、せめてもと肩だけ浮かせた変な格好になってしまった。決して避けているわけではなく、申し訳なさの隙間なんです、すみません。
「その体勢、腹痛むでしょう。そのまま寄りかかって構いませんよ。ぶつかる前に助けられなくてすみません」
助けてくれたのに謝るイレイザーヘッドさんに、もう一度お礼を言う。彼は、「あなたが無事でよかった」と言った。
萎んでいた心はそれだけで簡単に膨らんで。真っ直ぐ前を見て話すイレイザーヘッドさんの横顔にテールライトがちらちらと当たって、今日昼間に見た木漏れ日を重ねた。
あの日から私の中に湧き出るしゅわしゅわ甘酸っぱいいちごソーダは、多分恋の味だ、と彼の頬を照らす赤にそう思った。