いちごソーダとホットミルク
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─ 1 ─
四月、入社式へ向かう私は黒のスーツで身を固め、就活ですっかり履き慣れた黒のパンプスを鳴らしながら歩いている。その音はやる気に満ち溢れているようにも緊張で怖気付いているようにも聞こえる。もしかせずとも後者の方が強いかもしれない。
それもそのはず。就活が終わった達成感と社会人として働ける安堵感は内定通知が来た時にポーンと体から飛び出て、それらがいなくなった場所には新しく不安がラッシュ時の満員電車のようにぎゅうぎゅうに詰まっていた。新しい環境への第一歩はいくつになっても怖い。憧れていた所ならば尚のこと。固くて重いビジネスバッグを握る手はじっとりと汗ばんでいて気を抜くと滑り落ちてしまいそうなくらいだった。
そんな私の気持ちをよそに吹く風は甘くて柔らかくて、春そのものだった。
会社への道のりにある川沿いには、等間隔に桜が咲いていた。目の前をはらはらと舞う花びらを掴み損ねて、愛着の湧いた一枚の行方を目で追う。川面に着水した花びらは、私の進行方向とは反対の川の流れに沿って緩やかに風でくるくると回りながら流れていった。
次の桜の木の下でも同じように舞う花びらへ手を伸ばしたけれど、またもやするりとかわされ、昨夜降った雨の水溜りに浮かんで、すぐ近くの花びらにぴとりとくっついた。爽やかな青空が映り込んでいてこれはこれで綺麗だった。
「うーん、難しいなあ」
今日の入社式での自己紹介が上手くいくようにとか、業務内容や人の名前を早く覚えられるようにとか思っていたんだけど。手のひらを器みたいにしながら歩いたら偶然入ったりして。バッグの持ち手を腕へ通し、胸の前で手の側面を合わせてみる。
──あっ。
花びらが手のひらに触れて手を閉じようとした時、一際強い風が吹いてその花びらも目を瞑っている間に飛ばされてしまった。
「すごい風。あと少しだったのに」
今日はもう諦めようと、先ほどの風の余韻でひらひら舞う花びらを眺めながらそう呟いた時だった。
「花びらが欲しいんですか」
気配なく聞こえた声の方へ振り向くと、スーツでもなく私服と呼ぶには重々しい、私と同じ黒い服を纏った、私より頭一個分以上も大きい男の人が立っていた。黒くて伸び放題の髪に無精髭、濃いクマ。その服がヒーローのコスチュームだと気づくには時間がかかってしまうくらいにその人の雰囲気は小汚くて気怠そうな表情だった。
驚いたけれど、なぜか安心してしまうのは彼の手に猫缶がゴロゴロ入った買い物袋があるからだろうか。缶の重みで袋の取手が紐みたいになっている。
「いえ、あ、はいそうです。この後入社式でして、ちょっとした願掛けに」
失敗続きですけど、と自嘲気味に私が笑うとヒーローは、私と彼の間に舞う淡い桃色の花びらを難なく親指と人差し指で優しく摘んだ。
それは花びらの動きがわかっていたかのようで。
花びらが彼の指に挟まれにいったかのようで。
桜の花びらが落ちる速度は秒速何メートルだとか言っていたのを思い出しながらも、その瞬間は時が止まったようだった。
「はい、どうぞ。上手くいくといいですね」
ヒーローは風で飛ばされないよう、私の手のひらにぴとりと花びらを置いて、私が手を握るまで指を離さず待っていてくれた。
ドキドキしていた。
掴もうとして掴めなくて見送って、仕方ないなと諦めた花びら。それをあんなにかっこよく取って渡される少女漫画みたいなシチュエーションにときめかないなんて無理かもしれない。
「ありがとう、ございます。上手くいくと思います」
お礼を告げる時に頭を下げた私に、ヒーローが少しそのままでと言うので、頑丈そうなブーツを履いた彼の大きな足を見ていた。
この時代、ヒーローに思い入れがあったり、推しのヒーローがいるなど一般的に見てもそれがほとんどだと思う。無関心でいられないほど圧倒的な存在感。かくいう私もヒーローのサポート会社で働く事を夢見てここまで頑張ってきた。でもこれはそういう憧れとは違う感情。一気に花が芽吹くような、世界が一変してしまうような、そんな感覚だった。
一度ときめいてしまえば、伸び放題の髪も無精髭もワイルドに見えてくるし、気怠そうな目も色っぽくて魅力的に見えてくるからこの感情は不思議だ。
「はい、これも。髪の毛に着いていましたよ」
もう片方の手のひらに、同じように置いてくれた。どちらの手も握りしめていて、すごく意気込んでる人のポーズみたいになってしまった。なんかちょっと恥ずかしい。
「ありがとうございます」
「髪や肩に花びらが乗ると幸せが訪れるそうですよ」
そう言って怠そうな目を細める彼に私の体は、しゅわしゅわと弾ける炭酸水のような気持ちが湧き出て、たらりと注がれたいちごシロップでゆっくりと確実にじわりとピンク色に染まっていく。
四月、桜が舞う中、私は名前も知らないヒーローに出会った。