Walk Beside Me
今まで、ちとばかし必死になりすぎてたな。
想いを伝えられたことで、少し落ち着いた気がする。
だからってな、はっきりさせられちゃあ困るが、俺が縛りつけんのも違うしな。
正直、気にはなる。なるが、何もできねえ。
……きっかけを作ってやるくらいしか。
俺にできることは、ほんの僅かだ。
どうしたって、自分の足で進むしかないんだよな。
それが俺以外のヤツの手を取ることになったとしても。
運命の重みに、フリードはただ笑って立ち尽くした。希望が引力になると信じて。
あれから、
〇〇はすっかりスイーツ作りに打ち込むようになった。
もともと甘いものが好きだったことに加え、これまでこれといった趣味を持たなかった彼女にとっては、研究の合間の気分転換にもなる心地よい時間となっている。
時間を見つけてはキッチンに立ち、バニプッチの冷気を頼りにボウルを冷やしながら、マホイップが出してくれたクリームの泡立ち加減にじっと神経を注いでいる。その面持ちは真剣だが、楽しげな気配すら感じられた。
「バニプッチ見てると、ヒウンアイス食いたくなってくるな」
「ヒウンアイスって、あのアレよね」とあまりピンときていない
〇〇の様子に、マードックは「もしかして食ったことないのか」と目を丸くした。
「恥ずかしながら、研究ばっかりで」
「いいや、これからの楽しみが増えてラッキーだな! 今度地方別にうまいスイーツ店のリスト送ってやる」
「え、嬉しい! ありがとう、マードック!」
通りがかりにふたりのやり取りを耳にしたフリードは、キッチンの丸窓越しにそっと目を細めた。
「ったく、スッキリした顔しやがって」
口元に薄らと笑みを浮かべながらも、胸の奥にはほんの微かな痛みが残る。
つい先日、どこかへ出かける支度をしていた彼女に声をかけると、ジニアに会うのだと穏やかに告げられた。さらに言葉を重ねれば、「今度話すわね」と柔らかく微笑んで、
〇〇は言った。
以前よりもずっと、素直に気持ちを伝えてくれるようになった。そんな
〇〇の変化にフリードは、安堵と名残惜しさが入り混じるような、不思議な感覚になった。
彼女が船を降りるかもしれない。
できれば俺の手を取ってほしい。
嫉妬と未練。
希望は時として、真逆の引力を孕む。
俺は一体、どうしたいんだろうな。
自動操縦でゆっくりと進む、夕暮れ時のブレイブアサギ号には、心地の良い海風が吹いている。
ウイングデッキへと続く階段に、フリードは腰を下ろしていた。
本を手にしながらも、ページを捲る手は止まりがちで、時折吹く風に髪をなびかせては、空の色をぼんやりと眺めている。
キャモメの群れが飛び去った頃、背後で展望室の自動扉が開く控えめな音がした。
「ここにいたのね」
その声にフリードが振り返ると、そこには、風に揺れる髪を押さえながら、ふんわりと微笑む
〇〇の姿があった。
――やっぱ、どうしたって好きだ。
そう思いながら、栞を挟んで本を閉じた。
「おー、
〇〇。どうした?」
「隣、座ってもいいかしら」
やわらかな声に、フリードはゆっくりと頷いた。
僅かにからだをずらし、彼女のための空間を空ける。
「論文の完成、おめでとう。目の下のクマと、やっとお別れできるわね。私も、フリードのあとに続かなきゃ」
「ああ、サンキュー。
〇〇は順調か?」
「ええ、あと少しってところよ。いい息抜きも出来て、今までにないくらい捗ってるわ」
「それはなにより。肩の力抜けたな、いい意味で」
そうかしら、と首を傾げた
〇〇から、ほのかに漂う甘い香りがフリードの胸の奥をくすぐる。
理屈じゃなく惹かれるその気配に導かれるように、彼は肩先へそっと身を寄せ、さりげなく鼻を鳴らした。
「……甘えな」
思わずこぼれた、低く掠れた声が、彼女の耳元をなぞった。
それが独り言だったのか、あるいは彼女へ向けた言葉だったのか、自分でも判然としない。
囁くには近すぎた距離に、彼女が一瞬だけ息を呑んだ気配がした。
押し留める理性はあったはずなのに、あの笑顔の前では、どうにもならなかった。
「……フリード、顔、近い……」
〇〇は視線をそらし、小さく呟いた。
「ああ、すまん」
我に返ったフリードは少しだけ身を引いたが、また吸い寄せられるように甘い香りのする彼女の肩へ額を預けた。
「……え、フリード?」
「まともに眠れてねえんだ。……少しだけ」
「……ん、じゃあそのまま聞いて」
彼女の息遣いをそばに感じながら、フリードは瞼をそっと閉じた。
「論文完成のお祝い、してもいいかしら。おめでとう、ってちゃんと伝えたいの」
「……それだけか?」
「え……?」
「返事、聞かせてくれんのかなって」
「それも、……言う。ちゃんと言うわ」
その言葉に、フリードがゆっくりと顔を上げた。
目が合った瞬間、
〇〇の瞳が揺れる。
彼女の頬が徐々に赤くなっていくのは、夕日に照らされているからだろうか。
恥ずかしさで下唇を噛む仕草も、ふとそらした視線を戻す前の柔らかな睫毛の瞬きも、今までに見たことのない
〇〇だった。
どのくらいの間、見つめ合っていたのか、息を吸う音が重なった時、スマホロトムが鳴った。夕飯の完成を告げるマードックからの着信だった。
「……夜ごはん、できたってね」
「だな。……行くか」
ああいうのを、とろけるように甘い瞳、というのだろうか。
先に立ち上がった
〇〇は、夕焼けで深みを増したフリードの琥珀色の眼を思い出していた。気づかれないように、熱くなっていた頬を手の甲で冷ます。
「……何つう可愛さだよ」
ため息混じりのひと言は、振り返った
〇〇のフリードを呼ぶ声にかき消され、淡く染まる宵空へと溶けていった。
夕食後。ウイングデッキへ運んだテーブルに、
〇〇は白いクロスを丁寧に広げた。潮風になびかないよう端を押さえ、指先で皺をひとつひとつ伸ばしていく。テーブルの端にはランプを置いた。淡い光がゆらりと揺れ、これからの時間をそっと包み込むように灯っている。
イスは二脚、向かい合うように置いた。紅茶の入ったポットを用意し、カップを並べる。カチャカチャと音が鳴る。その手は少し震えていて、緊張のせいかと小さく笑った。
アンティークのケーキスタンドには、心を込めて焼き上げたケーキをそっとのせる。ふわりと漂う甘い香りに、ほっと頬が緩んだ。
喜んでくれるかな。
そう思うと同時に、フリードがどんな顔をするのか想像してしまい、一瞬手が止まった。けれど今は、その甘い感情をぐっと奥にしまい込む。
これまで支えてもらった分、彼のことをちゃんとお祝いして、お礼をしたい。そんな気持ちを、ひとつひとつの準備に込めながら、
〇〇は整えていく。
「よし、できた」
腰に手を当て、ひと息つくと、後ろから声がした。
〇〇が振り返れば、照れたように笑うフリードが立っていた。
「はは、待ちきれなかった」
「うふふ、ちょうど呼びに行こうと思ってたところ」
「ナイスタイミングだな」
「ね」
ふたりしてぎこちなくイスに腰を下ろす。
淡いランプの灯りが、テーブルクロスの白をやわらかく照らし出していた。
「……すげえな。これ
〇〇ひとりで?」
フリードの声に、
〇〇は視線を上げる。
よかった。喜んでくれているみたい。けれど、上手く伝えられるだろうか。
きゅっと緊張が強まる。
「ん、今の私にできる精一杯」
「すげえよ。嬉しい。ありがとうな」
「ふふ、まだケーキの味も知らないのに?」
「俺にはわかるね。最高の出来だって」
彼の目が優しく細められた瞬間、その緊張はスッと和らいだ。
紅茶を注いで、ケーキをひとピースお皿にそっとのせる。彼はケーキの断面をまじまじと眺めて、何度も「すげえ」と呟いていた。
最後の準備が整うと、ふうと小さく息を吐いた。
〇〇は手を膝の上に揃え、かしこまる。その様子にフリードも同じ姿勢をとった。お互いの姿に目を見合わせて、軽く笑い合った。
「フリード、論文の完成おめでとう」
「ああ、ありがとう」
ふたりは紅茶をひとくち飲んだ。
フリードがケーキを口に運ぶのを、
〇〇はまるで自分が試されているかのように真剣な表情で見つめていた。
「……どう、かな」
おそるおそる尋ねた
〇〇に、フリードは一瞬だけ言葉を探すように黙ったあと、口元をほころばせた。
「最高だな」
「ほんとに?」
「俺が嘘つくと思うか」
〇〇は、ぶんぶんと首を横に振った。
その眼差しは真っ直ぐで、胸の奥をあたたかくする。
「よかった。お祝いさせてって言った手前、好みの味じゃなかったらどうしようとか、あとから不安になっちゃって」
「なにもかもが最高のプレゼントだよ」
紅茶やケーキを口に運びながら、ふたりは自然と論文の話題へと移っていった。
各地方を巡り、研究や調査をしてきたフリードの言葉は、どれも落ち着いていて頼もしい。それは自分も同じはずなのに、言葉ひとつひとつがしっかりと地に足がついている。
思えば彼は、どんな場所でも迷わず飛び込み、目の前のことに全力を尽くすひとだった。
研究の合間に仲間を気遣う余裕もあって、時に無鉄砲で、けれど柔軟な思考に、確かな行動力と軽やかなフットワークを持っている。
私を気にかけてくれた、ワイルドエリアの時も、そう。
それがどれだけすごいことか、あらためて思い知らされる。卑屈ではなく、心からの尊敬と憧れが、自分もそうありたいと自然に思わせてくれる。
きっと、今の私だからそう思うことができた。
「やっぱり、フリードはすごいわ」
ふと溢れるように出た言葉に、彼が照れくさそうに目を細めた。
「そりゃあ、冒険家名乗ってるからな」
「博士は?」
「目指したことは確かだが、今では通過点だな」
「フリードは満足してる?」
「今の自分にってんなら、満足してるぜ。この上なくな」
自信に満ち足りた笑顔が、ランプの優しい灯りに照らされる。
「はっきり言えてすごいわ。でも私も、今の私が一番好きかも」
「それでいいんじゃねえか? あん時はああ言ったが、俺だってあんま偉そうなことは言えねえよ」
彼の言った言葉の意味がわからず、
〇〇は首を傾げた。
「そのくらい
〇〇はすげえヤツだってこと。もっと誇っていいんだぜ?」
〇〇が自分のことをどう思っていたとしても、世界を驚かせたことには変わりねえんだからさ。
そう言ってフリードは、やわらかく微笑んだ。
フリードの言葉はいつだって私に勇気をくれる。
不思議と心がぽかぽかとあたたかくなる。
日差しをめいっぱい浴びた時のようだ。
もう私に、翼はいらないみたい。
彼に返そう。そして、自分の足でしっかりと立って、彼と並んで歩きたい。
「フリード、今まで私に、翼を貸してくれてありがとう。あの時、どれだけ救われたか、お礼をいくら言っても足りないくらい」
「そのくらい、お安い御用さ。もういいのか?」
〇〇は、静かにゆっくりと頷いた。
そんな予感はしてた。
してたが、面と向かって言われるとくるものがあるな。
「……ジニアくんにね、たいせつなひとだって言われたの」
少し俯いた彼女がぽつりぽつりと話し出す。
私、彼が好きだったんだと思う。
自分にないものを全部持っていて、近づきたいのに、私の嫌なところが邪魔をして近づけなかった。むしろ遠ざけてた。
彼の好意にも薄々気づいていたのに、気づかないふりして、最後には酷いこともした。
それなのに、彼はそう言ってくれたの。
過去の自分としっかり向き合って出た答えに、彼は泣きながら笑って「
〇〇さんらしいです」って言ってくれた。
フリードに、お試し期間やめたいって言われて、自分のこともよくわかってない私の無責任さで、また大切なひとを傷つけてしまったって後悔したの。
けれど、フリードは真っ直ぐ私の眼を見て、好きだって言ってくれた。
すごく、すごく嬉しかった。
このまま、後悔してるだけはダメだって、おんぶに抱っこじゃダメだって、私も自分の足でしっかり立たなきゃって、あらためて思った。こう言ったらフリードは、勝手に走っていくなって笑いながらも止めないだろうから、ちゃんと言うわ。
「私、フリードのことが好きです。これからは隣を歩かせてほしい、です」
フリードはずっと私のこと見ていてくれたのに、素直になれなくて、ごめんなさい。
彼女はそう言って、泣きそうな顔で、はにかんだ。
一瞬、胸が強く締めつけられる。
夕暮れの、あの甘い香りに自惚れてもいいのかと思ったが、翼を返すと言われた時、僅かに嫌な予感がよぎった。
予想もできないほどの行動力を持ったひとだからな、俺の好きなひとは。
「……ああ。俺も好きだ。
〇〇が隣にいてくれるなら、これ以上の幸せはねえよ」
フリードの熱がこもった深い声に、
〇〇は胸がいっぱいになる。
橙に染まる空に、頬の赤も隠れるだろうと近づいた夕暮れ。あの時のぬくもりに、もう一度触れたかった。
けれど、テーブルがふたりの間を遮っていた。
距離のもどかしさに、
〇〇はカップの持ち手に触れる。持ち上げるでもなく、陶器の滑らかさを指の腹で撫でていると、迷いながらも伸ばされた、フリードの大きな手がそっと触れた。
私も、触れたい。
彼女がカップから手を離せば、フリードの手が静かに差し出される。
〇〇は、その手に、やわらかく重ねた。
「……幸せだ」
ぬくもりが、じんわりと広がる。
「……私も。フリードの恋人になれるなんて、夢みたい」
「それを言うなら俺だって。もう何があっても離さねえからな」
「ん、末長くよろしくお願いします」
「えっ、それは反則だろ。効果バツグンすぎるぜ」
「うふふ、先に言ったの、フリードよ」
「はあ、もう、めちゃくちゃ好きだ、
〇〇」
「好きよ、フリード」
テーブルの上で繋がれた手は、互いの想いを伝え合う。
夜空にはふたりを祝福するかのように、満天の星が瞬いている。
その光は、迷いなき明日へと進むための道標となり、これからのふたりを優しく導いていく。
write 2025/8/5