フリードの幸福
episode1
世界を旅する飛行船、ブレイブアサギ号は、現在ガラル地方の沖合を航行していた。
船長のキャプテンピカチュウ、リーダーのフリードを中心に集った冒険家集団ライジングボルテッカーズは、それぞれの夢や目的を胸に、旅を続けている。
操舵室前方には大きく突き出た窓があり、目の前には空と海の果てしない景色が広がる。
部屋の中央ではフリードが、軽く鼻歌を口ずさみながらも真剣な表情で舵を握っていた。
ドアに向かって近づいてくる足音に気がつくと、鼻歌を止めた。船長椅子に座っていたキャプテンピカチュウも、ピクリと片耳を動かす。
足音がドアの前で止まり、誰かがひとつ息をついたのが聞こえた。
控えめなノックのあと、フリードが「どうぞ」と返事をすると、晴れやかな表情の
〇〇が中へと入ってきた。彼女はポケモンに影響を与えるエネルギー体を研究している研究者で、メンバーのひとりだ。
「フリード! 私、やっぱり一度原点に帰ってみようかと思うの」
しばらく浮かない顔をしていた彼女のその言葉に、上半身だけ振り返ったフリードは大きく口角を上げる。
「お、やっと明るい顔になったな! いいんじゃないか、俺は賛成だぜ」
研究が思うように進まず、悩んでいた
〇〇を、フリードは気にかけていた。今こうして晴れやかな表情でそう言ってくれたことが、何よりも嬉しかった。
彼女は以前の上司である、アカデミーの校長クラベルへ、パルデア地方での研究再開を打診してみるという。パルデアにはリーグの管轄地が多く、研究には正式な申請が必要になるが、フリードもかつて分布図の制作で世話になった人物たちばかりだった。
それから、「
〇〇とフリードならば問題なし」と数日のうちに申請は通り、パルデア行きが正式に決まったところで、アカデミーで似た分野の研究をしているジニアにも意見をもらえることとなった。
数日後、飛行船ブレイブアサギ号はパルデア地方に到着。
〇〇の希望により、アカデミーへ向かう前にフィールドワークとして周辺の結晶体の観察と記録を行うことに。黙々とデータを取りながらも、
〇〇の表情には活気が戻っていた。
その様子にフリードは、安心したように、ふうと長い息を吐いた。
「ごめんね、私の都合で急がせてしまって」
申し訳なさそうに言う彼女に、フリードは肩をすくめる。
「いーや、ここは俺にとっても第二の故郷みたいなもんだしな。俺も心置きなく研究させてもらうさ」
「ありがとう。……そういえば私、レイドバトルしたことないのよね。今日はフリードも一緒だし、少し入ってみちゃダメかしら」
「おいおい、ダメに決まってるだろ!
〇〇はそうやってすーぐ危ねえことする。最初に会ったときもそうだ」
「そう? 長く一緒に研究してたひとの影響かしらね」
真面目に返す
〇〇に、フリードは視線を外して鼻を鳴らした。
「この後クラベル校長と約束してるんだろ? そんな寄り道してる時間ねえよ」
「あ、そうだったわ! 直接会うのは一年ぶりね、楽しみ」
パルデアには、帝国時代の名残が今でも所々に残っている。
テーブルシティもまた、背後にそびえる崖と水路に囲まれ、かつてここが城であったことを思わせるような威厳と貫禄のある街並みだ。
歴史が色濃く残るこの街を今は学生が多く行き交い、エネルギーに満ち溢れた活気ある街となっている。近くにはポケモンリーグ本部もあり、学問と挑戦の街としてパルデアの地を盛り上げていた。
フリードと
〇〇は、歴史あるアカデミーの門をくぐる。
校長室へ案内されると、クラベル校長がにこやかな笑みでふたりを迎え入れた。
「長旅ご苦労様でした。またお会いできて嬉しいです。まさかおふたりがお知り合いだったとは。驚きましたよ」
「ガラル地方で研究しているときにちょっとありまして。私もお会いできて嬉しいです。お元気そうでよかった」
「分布図制作の時はお世話になりました!」
〇〇とフリードが順に再会の握手を交わす。
「ジニア先生も呼んでいるんですがね、あの人は全く」とクラベルが呆れ顔で言い、再び放送で呼び出すことになった。詳しい話はジニアが来てからということで、ひとまず三人は久々の再会を喜び合った。
「今回はしばらくパルデアに滞在する予定です。それで、今後の活動方針について共有しておきたくて」
「それと、お世話になった方々へ、ご挨拶もしたく」
真剣な声色で続けたフリードの一言に、
〇〇が、ジトっとした目を向ける。
ほら、また言葉が足りない。
クラベルが目を丸くした。
「それはご結婚、ということでしょうか?」
「クラベルさん、彼の冗談を真に受けないでください!」
もう、こうなっちゃうでしょうが。
〇〇が肘でフリードの脇腹を小突きながら、慌てて否定する。
「いいじゃねえか、そうなればいいなって俺は思ってるよ」
「よくありません! 私はあなたの、そういうちょっと軽薄なところがいまいち信用できないんですからね!」
「そうツンツンすんなって、可愛い顔が台無しだぜ」
ふたりのやりとりにクラベルは、そっと目を細め、冗談を冗談で返せるようになったのだな、と内心ほっとしていた。かつての彼女は、他人には優しく気配りはできるけれど、自分のこととなるとどこか肩に力が入っていて、必要以上に自分を律していた。
その頃を思えば、今こうして笑い合える仲間と出会えたことが、何よりも嬉しかった。
「あっはっはっは。おふたりは仲がよろしいんですね」
場の空気が和んだその時。
タイミングよく、ドアが開いた。
「いやあ、遅れてすみませえん」
頭をかきながら入ってきたのは、アカデミーの生物担当の教師、ジニアだった。
「お久しぶりですう、
〇〇さん、フリードさん!」
「ジニアくん、久しぶり」
懐かしい笑顔。……けれど、どこか様子が違う気がする。
〇〇は、ジニアの様子に僅かな違和感を覚えた。
「ご無沙汰してます、ジニアさん。以前はお世話になりました!」
「いえいえ、僕の方こそ、すごく助かりましたあ」
打ち合わせは、ジニアの合流によって驚くほどスムーズに進んでいった。
いつも通りの穏やかな口調で、にこやかに話す彼の様子に、……やっぱり気のせいだったかもしれない、
〇〇はそう思いながら、軽く微笑みを返す。
やがて話がまとまり、「それではお先に失礼します」とジニアが先に席を立った。その背中を追うように
〇〇も立ち上がり、ふたりで校長室を後にした。
遅れて部屋を出たフリードの目に、廊下の端で言葉を交わすふたりの姿が映る。
その様子に足を止めることなく、視線だけを一度だけ向けて、通り過ぎた。
少し離れた場所で、
〇〇が戻ってくるのを、何気ない顔で待つ。
フリードは
〇〇と出会ってから今まで、彼女を知る人数人と会ったことがあったが、
〇〇から積極的に話しかけにいった人物はジニアが初めてだった。
元同僚ということもあるだろう。
自分だって企業で研究していた頃、同じチームの同僚にはあんな感じだった。
でも
〇〇は今、どんな顔をしている?
ふと彼女の言葉が脳裏をかすめた。
――長く一緒に研究してたひとの影響かしらね。
彼女が言った“そのひと”とは、きっとジニアのことだろう。
そしてジニアが
〇〇を見るその眼差しは、明らかに元同僚へ向けるものじゃない。
柔らかくて、真っ直ぐで、どこか祈るような。
そんな目を、フリードは知っている。
……あの目はどう見たって。
フリードは、口の中で小さく呟いた言葉を、奥歯で噛み砕いた。
「おーい、
〇〇、一旦船に戻るぞー」
呼びかけると、
〇〇がはっとして振り返った。
一度ジニアを見やり、軽く背中を押されると、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「なんかあったか?」
無自覚をはっきりさせられちゃあ、困る。
「なにもないわ」
なんもなくはないだろ、そういう顔だ。
だが、言いかけた言葉は呑み込んだ。
問い詰める気はなかった。
「話、できたか?」
「うん、また連絡するから、大丈夫よ」
「そうか」
「うん」
次に見た
〇〇の顔は、普段通りの彼女だった。
彼女が前を向いているなら、それでいい。
そう思おうとする一方で、胸の奥で燻る、名前のないざらついた感情に、フリード自身もまだ整理できずにいた。
episode2
廊下の端で、ふたりがどんな会話を交わしたのか。
考えたところで、結局は想像の域を出ない。
それでも、ここ数日の、どこか思い悩むような
〇〇の仕草は、フリードを焦らせるには十分すぎた。
すんげえダサいってことくらい、わかってる。
でもな、警戒心の強い
〇〇に、やっと、やっと近づけた気がしてたんだ。
〇〇は、必要以上なことは話さない。特に、自分のこととなると、なおさらだ。
昔どこで何してたかなんて、聞くのも野暮ってもんだし、俺もそういうの得意なほうじゃねえ。
だから、出会ってからの彼女を、今の彼女を知っていこうと、あの日、そう思ったんだ。
――1年ほど前。ガラル地方、ワイルドエリア。
フリードは、各地方のポケモン分布図を制作するため、ガラル地方のポケモンと周辺の環境を調査していた。残るはワイルドエリアと呼ばれる、この地方で最も多くのポケモンが生息している広大なエリアで、天候によっても現れるポケモンが変わるため、調査は難航していた。
特にこの地は他の場所よりも強い個体が生息しており、観察中、気が抜けないことも、一つの要因だった。
「なるべくなら戦闘は避けたいよなあ、周りのポケモンが逃げちまう」
「ピーカ」
フリードは、望遠レンズをつけたカメラの画面を慎重に確認しながら、肩に乗って同じように覗き込むキャプテンピカチュウに小声で話しかけた。
「あれが光の柱、ポケモンの巣」
地中から伸びる赤い光は、ガラル地方の空気中に含まれる粒子状のエネルギー『ガラル粒子』が濃く集まる場所で、ダイマックスしたポケモンが住んでいる。パルデア地方のテラレイド結晶に似たものだと分かっていたからこそ、一人で近づける場所ではないと判断し、遠くから観察を始めた。
「気にはなるが、……俺はダイマックスバンド持ってねえし。あれには近づけねえよ、……な!?」
「ピカ?」
カメラのレンズをゆっくりと光の柱の方へ向けた時、巣の岩肌へ無防備に手を伸ばす人影が映った。最大までズームしてみるも、画質が荒く、詳細まではわからない。けれども、レンズ越しに見えた人影は一人だった。
「おいおい、あれは危ねえだろ。……行くぞ、キャップ!」
「ピッカ!」
急いで機材をしまうと、人影の方へ向かった。
近づいてみれば、見るからに軽装で腕にはダイマックスバンドはなく、フリードと同じような機材を抱えた女性が真剣な面持ちで記録をとっていた。
「なあ、あんた、こんなとこで何して、」
「見ての通り、粒子の測定中よ」
フリードが声をかけても、女性は手元の端末から視線をそらさず、淡々と返事をした。
――これが
〇〇との最初の接点だった。
観察にデータ分析。同業者って感じか。
それにしても……
「あんまり近づきすぎないほうがいいぜ。危険だ」
「……わかってるわ」
そう言いながらも、端末に表示された数値を見て、彼女は光に手を伸ばす。
「……っ! あっぶねえな」
フリードは、反射的に彼女の手首を掴んでいた。
彼女の腰にはモンスターボールがあった。丸腰というわけでもないようではあったが、無防備すぎる行動に目が離せなかった。なにより、切羽詰まった顔をしていた彼女を、離してはいけない気がした。
「大丈夫よ。それより手、離してもらえますか」
「ああ、すまん。あんたここ長いのか」
「
〇〇よ。……そうね、あなたよりは長くいると思うわ」
〇〇と名乗った彼女は、さっさと機材をまとめ、ひとりで歩き出した。その背中に、妙な説得力を感じてしまい、つい足がついていってしまう。
「……ついてこないでください」
「いやあ、なんか放っておけなくてな。何の研究してるんだ? 俺は分布図作ってんだ、ポケモンの」
「そう」
「もうちょい興味持ってくれよ」
「名前も名乗らない人に教える義理もないわ」
「んな暇も与えなかったくせに、よく言う。俺はフリード、こう見えてポケモン博士なんだぜ」
「……見えないわね」
「だはっ、自分で言うのはいいが、人に言われると地味に刺さるな」
「ごめんなさい。あまりにもしつこいからもう少しで通報するところだったわ」
「マジか。それだけは勘弁。また仲間に怒られちまう」
それから少しのあいだ、ふたりの間には緊張と警戒を含んだ静かな時間が続いた。
けれど、研究者同士の性なのか、互いの手元をちらりと見るたび、つい言葉がこぼれる。
「なあ、
〇〇、さん。それ、どこのメーカー使ってんだ?」
「こっちは精度重視なの。フリードさんのは、長時間の記録用かしら?」
「へえ、よくわかったな。あと、フリードでいいぜ」
「昔、似たようなのを仕事で使ってたのよ。……私も
〇〇でいいわ」
会話の糸口がほぐれたのは、そんな些細なやりとりからだった。
気がつけば、お互いの研究内容についても少しずつ話すようになっていた。
〇〇は、粒子の濃度とポケモンの変化に関する観察と調査。
フリードは、分布図制作のため、ポケモンの観察と記録。
調査対象は違えど、研究の視線が似ていた。
「……でもなあ、やっぱ一人は危険だ」
「大丈夫よ、今までも一人でやっていたし」
「いやいや、それはなんもなかったから、だろ? 油断した時が一番危ねえんだぜ」
渋々、という顔の
〇〇だったが、最終的には折れ、数日間だけという条件で互いに視界に入る距離での調査が始まった。
最初は奇妙な関係だった。
けれど、何度かデータを見せ合ううち、フリードは
〇〇の分析の鋭さに驚かされることが何度もあった。
……あれ、この観測データどっかで……
始めは偶然かとも思ったが、こんな分析方法、易々と真似できるもんじゃあない。
つい最近発表された、エネルギー論文。
あの切り口。あの理論。
読み終えたあとで「すげえ」としか言えなかったあの論文。
うそだろ。あれ、彼女が書いたものだったのか。
驚きと同時に、胸の奥がざわついた。
あんなすげえもんを書く人がなんで……あんな思い詰めたような顔をして、こんな危険な場所を一人歩いていたんだろう。いや、そんな彼女だから、世界に認められるものを書くことができるのかもしれない。
それでもフリードは、
〇〇の苦しそうな横顔を見るたびに、そして時々ふと見せる笑顔を見るたび、心に熱が帯びていくのを感じていた。
約束の最終日。
〇〇はフリードの目があったからか、あの時のような危険な行為はせず、黙々と観測を続けている。
「……なあ、
〇〇って、あのエネルギー体の論文書いた
〇〇だろ?」
「ええ、そうよ」
「なんでそういつも苦しそうなんだ?」
「人一倍、いや何倍も努力をしないと、」
凄い人にはなれないから。
そうぽつりと溢すように言った
〇〇は、まるで、何度も自分に言い聞かせてきたかのような口ぶりだった。
「
〇〇は、凄いやつになりたいのか?」
困ったように笑う悲しい横顔に、フリードは胸を締め付けられた。
「俺、
〇〇の論文読んだ後、すげえってしか言えなかったんだぜ! 圧倒されて、しばらくボーッとしちまった」
「俺と一緒にこないか」
〇〇は、ゆっくりと首を横に振る。
「もっと自由に空、飛んでみたくないか?」
「……自分の足で進まないと意味ないもの」
なんでそう辛そうなんだ。
「翼なら、貸す。いつでも返却可能だ」
フリードの言葉に顔を上げた
〇〇は、薄らと目を潤ませ、僅かに笑った。
あの時の彼女の顔が今でも忘れられない。
少し悩んだりしている様子も見かけるが、あの頃ほどひどい表情にはなっていないし、今では生き生きとした顔で研究を続けている。
それなのに、なんで、今またあんな顔をするんだよ、
〇〇。
知りたい、近づきたい。
これがどういう感情なのか、
〇〇が船に乗ってしばらくして、声を出して笑ったのを見た時、気づいたんだ。
俺は、
〇〇が好きだ、ってことに。
episode3
ウイングデッキで読書をしていたフリードは、小腹が空いたことに気づき、本を抱えたままブレイブアサギ号のキッチンへと向かった。
調理台では、料理担当のマードックが夕飯の下ごしらえをしている。挨拶代わりに渡されたカップケーキにかぶりついたその時、不意に投げかけられた言葉が、彼の動きを止めた。
「そういや、
〇〇が今日の夕飯いらないって言ってたな」
フリードは、ぽとり、と食べかけのケーキを口から落とした。
「……なんでだ?」
「さあな、理由は言ってなかったが、予定でもあるんだろ」
マードックは手を止めず、淡々と続ける。
「それ、何時ごろ聞いたか覚えてるか?」
フリードの声が急に低くなる。椅子を蹴るようにして立ち上がったが、マードックはちらりと彼を見て、「もう出かけたと思うぞ」と言った。
「ちなみに、どこに行くとか言ってたか?」
「いいや、そこまでは。夜には帰る、っては言ってたな」
思い出すように話すマードックの言葉に、フリードは調理台の縁にへたり込んだ。さっきまでの空腹が嘘のように、ケーキは喉を通らなかった。
ここ最近、
〇〇はパルデア各地にある結晶の観察のため、キャンプを拠点に調査を続けていた。船を拠点にすれば安全だと何度も説得したが、「地元だから慣れてる」の一点張りで、取りつく島もなかった。
「ついていく」と言えば、「フリードにはフリードの研究があるでしょ」と一蹴され、そう言われると、何も言い返せなかった。
そんな中での出来事だった。
久々に連絡が取れたかと思えば、アカデミーの教師ジニアからだった。
結晶を無理やり採掘しようとした男と口論になり、結晶の異常を知ったジニアがその場に駆けつけたのだという。メールには、「本人は一人で帰れると言っているが、念のため迎えに来てくれないか」という内容が続いていた。
その後、彼女からも連絡が入ったが、すまなさそうに謝ったあと、フリードの迎えを断って自分の足で帰ってきた。
ジニアさんには助けを呼んで、俺のは断るのかよ。
……いや、仕方ないだろ。
合理的、状況的に考えても、彼の方が適任だ。そう自分に言い聞かせても、もやもやとした感情が心に居座る。
夕飯がいらない。
それはつまり、誰かと食事をするということだろう。
助けてもらったお礼に、と考えるのが妥当。相手がジニアさんならば遠出しない可能性が高い。となれば、テーブルシティのどこか、か。
……はあ、自分の分析グセが嫌になるな。
いつからこんなに彼女の一挙一動が気になるようになったのか。いや、いまさら考えるまでもない。
嫉妬。
焦燥感。
ざらついた感情が、日を追うごとに輪郭をはっきりとさせていく。
その夜遅く、
〇〇は静かに船へと帰ってきた。
腕の中には、彼女の相棒のひとり、バニプッチが抱かれている。
「おかえり。……外そんなに暑かったか?」
フリードの問いかけに、彼女は少し間を置いて答える。
「ただいま。食べた料理が辛かったのよ」
「ふうん。楽しかったか?」
「え? ええ、有意義な時間だったわ」
あんなことがあった後なんだ。連絡してくれよ、心配するだろ。
そう言おうとして、フリードは言葉を選ぶ。
「……遅くなる時は連絡しろよ、迎えにいくから」
「……今度からそうするわ」
小さくそう告げて、
〇〇は、おやすみの言葉を残し、部屋へと入っていった。
この夜を境に、
〇〇は思い悩むような顔を見せなくなった。
何かが吹っ切れたように、あるいは何かを納得させたように。
けれど、何があったのか、と聞いたところで彼女は答えてくれないだろう。
自分が彼女の恋人であれば、少し強引にでも聞けたのだろうか。
無理矢理こじつけたような、ただの“お試し期間中”の男に、そんな権利もない。……そういえば、俺たちは今、“お試し期間”だった。
どうしたら本気だと伝わるか必死で、咄嗟に出た言葉に
〇〇も、半ば折れるような感じで、「まあ、それなら」と言ってくれた。
一歩前進した、と思った。
それなのに。
お試しって、なんだよ、何をしたらいいんだ。
また数日経った昼過ぎのこと。
フリードがキッチンに顔を出せば、甘い香りが鼻をくすぐる。
マードックのルビーミックスのマホイップと、
〇〇のミルキィソルトのマホイップが、楽しげにクリームをボウルへ注ぎ込んでいた。
「なあ、マードック、
〇〇どこ行ったか知らないか?」
ケーキのトッピング中だったマードックが顔を上げる。
「さあ、こいつがここにいるから、船の中にはいるんじゃないか?」
「それが、どこにもいねえんだよ」
はあ、とため息を吐きながら頭を掻く。
「モリーたちには聞いたか?」
「聞いたさ。モリーもオリオも“自分の胸に手を当てて聞いてみろ”ってしか。……俺が何したってんだ」
「……ああ、まあ、そういうことなら」
「んだよ、マードックもかよ」
「最近のお前、ちょっと子どもみたいだな」
「なっ……!」
フリードは反論しかけたが、言葉に詰まった。
確かに、そうかもしれない。
冷静でいたいのに、どうしようもなく焦っている。
彼女の心に、俺もちゃんといるのか、そればっか考えて。
最後に、とエレベーターの最上階行きのボタンを押したのは、日も落ちかけた頃だった。
展望室。差し込む夕日に照らされた
〇〇を、フリードは見つけた。
――うたた寝してる。
端末の画面には、まとめかけの観測データ。そばには、冷めたミントティー。
くすんだオレンジ色の陽光が、彼女の頬を優しく撫でていた。
フリードは、静かに彼女の隣に腰を下ろした。
顔を覗き込む。安心しきった寝顔に、また少し胸が熱くなる。
「……なんで、逃げるんだよ」
ぼそりと呟いた声が、朱に染まる部屋に溶けた。
「どこにも行くな」
囁きながら彼は、そっと彼女の髪に指を伸ばした。
柔らかな束を、ひとすじだけ指先に絡める。
「……好きだ」
〇〇、好きだよ。
初めて口にした彼女への気持ちを、心の中で、もう一度繰り返した。
episode4
自分と向き合うため外に出たのに、自分のことは自分が一番わからない。
他人からの評価も、時として当てにならない。
じゃあ、私は何を信じて進めばいいのだろうか。
常に付き纏う疑問に、信念が揺らぎそうになる。
けれど最近は、自然と笑えるようになった気がする。
ジニアくんは、考えながらも私のことを夜明けに例えてくれた。
フリードに誘われた空は広くて、息がしやすかった。
――翼なら、貸す。
外を歩いていただけの、下を向いているとも気づかず、それが正しい道だと、ただただ歩いていただけの私に、翼を差し出してくれた。
最初の出会いこそ最悪ではあったけれど、今では彼の自信に満ち溢れる笑顔に、力をもらっている。
真っ直ぐな言葉に裏がないところも、どこかジニアくんと似ていて、不思議と安心できる。
ブレイブアサギ号のキッチンは、パティシエのマードックとマホイップによって生み出される絶品スイーツの甘い香りが立ち込めている。
この日は
〇〇とマードック、そしてふたりのマホイップたちが、ホールケーキ作りの真っ最中だった。
「スイーツ作りって楽しいわね。こう、工程を重ねると着実に出来上がっていくところが気持ちいいわ」
そう言って笑う彼女は、ついさっきまで黙々とクリームを泡立てていた。
絞り袋を持つ姿は研究用ピペットを操る手つきと似ていて、どこか楽しげだった。
「それはなりより。失敗もあるが、次の成功に繋がるからな」
マードックは手元のチョコを削りながら、いつも通りの落ち着いた声で返す。
「研究と似てる。何事もトライアンドエラーなのね」
小さく頷く
〇〇の横で、マホイップがくるりと嬉しそうに回った。
その様子に、彼女はぽつりとこぼす。
「私、今まですっごく視野が狭かったんだわ……」
「真面目だなあ、
〇〇は。モリーと話が合うわけだ!」
「モリーも素晴らしいわ! 志はもちろんだけど、深い知識に観察眼がともなった、的確な診断! しかもそれを傲らない姿勢。見習いたいわ」
「いや、十分に
〇〇もすごいやつだよ。フリードが連れてきた時は顔色も悪くて心配したが、話を聞けば有名な学者さんだっていうから」
「全然。道を間違うほど頑張って得た知名度なんか、ないほうがいいのよ」
「おいおい、自分のこととなると急に卑屈だな。その謙虚さ、フリードに爪の垢煎じて飲ませてやってくれ」
「うふふふ、あはは。私も、しっかり地に足つけて、新たに頑張らなくちゃね」
「マホマホ〜」
楽しげに笑う彼女に合わせて、マホイップもくるくると回る。
その光景は、船に乗る前の彼女には想像もできないものだった。
和やかな空気の中、キッチンのドアがカチャリと開いた。
「お、なんか楽しそうだな」
明るい声とともに、フリードが顔を出した。
エプロン姿の
〇〇が顔を上げて、ぱっと表情を明るくする。
「フリード! ねえ、スイーツ作りって、研究に似てるの、知ってた?」
「おお、そうなのか。俺は料理しねえからなあ」
興味深そうに近づいてきた彼は、完成間近のケーキを見たあと、彼女の顔を見て微笑む。
「……
〇〇、いい顔になったな!」
マードックもうんうんと頷き、「だよな! マホイップも喜んで、すんごい美味いクリーム出すんだ」と言うと、「マッホ〜!」と、
〇〇のマホイップも胸を張って、やる気のポーズを決めた。
その微笑ましい姿に、キッチンは自然とあたたかな空気に包まれる。
ふと、
〇〇は思う。
あの日、あの場所でフリードに手を差し伸べられてから、確かに少しずつ何かが変わっていった。
今なら胸を張って言える。
この船に乗って、ライジングボルテッカーズの一員になれて、本当によかった。
「そういやこのあと時間あるか?」
「うん、今日は1日オフのつもり」
尋ねられた問いに、
〇〇は笑顔で頷いた。
するとフリードはイタズラっぽく笑って、さらりと言った。
「よかった。じゃあ、俺とデートしようぜ」
「で、デート!?」
予想もしなかった言葉に、声を上げてしまう。
けれど、フリードは変わらず軽やかに笑っていて、
〇〇は視線を泳がせた。
「そ、いいだろ?」
遮るものがなく、ジリジリと降り注ぐ熱のような彼の声に、
〇〇は小さくこくりと頷いた。
「決まりだな! んじゃまた後で」
パッと手を振って出ていくフリードの背中を見送りながら、マードックがぼそりと呟く。
「はあ、相変わらず嵐みたいなやつだな」
「直視できない太陽みたい」
〇〇も思わず口にしてしまった。
顔を赤くした
〇〇が気になったのか、パニプッチがそっと寄り添って頬ずりした。
マードックたちと作ったケーキは、「なんかいい感じのときにでもみんなで食べろ」と、ニコニコしながら持たされた。
甘い香りのするバッグを手に、
〇〇はふと自分を見下ろす。
……デートってこんな服装でいいのかしら。
ふたりで出かけるだけ。
それなのに、デートと名前がつくと、やっぱり緊張する。
「なんかでっかい荷物だな」
待ち合わせの場所にやってきたフリードが、肩から下げた荷物を見て声をかけた。
「あ、マードックがさっき作ったケーキ持たせてくれたの。あと紅茶も」
「お、それは楽しみだな。ほら、荷物。俺が持つよ」
そう言って軽々とバッグを受け取り、ニカッと笑った。
買い出しの荷物はみんなそれぞれが持つし、研究の機材だって触られたくなかった。
こういう扱いに慣れていない
〇〇は恥ずかしくなり、俯きがちにお礼を言った。
ふたりきりで歩く街は、いつもより柔らかく、どこまでも見通せるような透明感でキラキラとしていた。
穏やかな天気に誘われて、草むらにシートを広げ、ポケモンたちも一緒にピクニックをすることにした。
「これが
〇〇のマホイップのしあわせの味か、すんげえうまい。愛されてんな、
〇〇」
ひとくちケーキを頬張ったフリードが、感嘆するように言う。
「ん、今までで一番美味しい。ありがとう、マホイップ」
「マホマッホ〜!」
照れたように跳ねるマホイップを撫でながら、
〇〇は表情をゆるめた。
「……この間は、ごめんなさい。避けてたわけじゃないの。ただ、色々とわからなくなってて……私、もっと自分を知るべきだったの。色んなことと向き合うために」
素直な気持ちだった。
いつかの自分なら、言葉にすらできなかった。
「俺こそ、ごめんな。
〇〇にとって必要な時間だったんだよな」
その声に責める色はなく、ただ優しさが滲んでいた。
〇〇は少しだけ視線を落として、けれども、しっかりと頷いた。
彼女の素直な気持ちが伝わってくるような仕草に、フリードはふわりと微笑む。
「お試し期間、やめようと思うんだ」
ぽつりと放たれた言葉に、
〇〇は思わず顔を上げた。
「……え?」
「元から期限なんて設けてなかっただろ。そういうの、やっぱ性に合わないっつーか、俺らしくねえなって思ってさ」
彼女の反応は、驚きなのか、それとも――
一瞬、フリードの目が戸惑いに揺れた。
それでも。
「
〇〇のことが好きだ。ずっと、多分出会った時から惹かれてた。もしよかったらなんだが、俺のこと真剣に考えてもらえると、嬉しい」
そらせないほどに熱を宿した瞳。
太陽のように真っ直ぐで、ひたむきで、あたたかい眼差しが、
〇〇をとらえて離さなかった。
共通エピソード『
追憶と幸福の間で』へ続く
ジニア側の話『
追憶のジニア』はこちらから
write 2025/7/2〜7/4