追憶のジニア
episode1
研究者だったジニアが、明るく真面目な生徒たちに囲まれ、教師姿も板に付いてきた頃。
トレードマークと言っても過言ではない、本で膨らんだ白衣のポケットを揺らしながら歩いていると、自身を校長室へ呼び出す校内放送が廊下に響き渡った。
「ぼく、また何かやらかしちゃいましたかねえ」
思わず、近くのスピーカーを見上げたジニアが困ったように頭に手をやる。思い当たる節は、多々ある。以前勤めていた研究施設の元同僚で上司であったクラベル校長からは、今でも大なり小なりお叱りを受けているからだ。
一体どれのことですかねえ、と最後に叱られてからの自身の言動を省みつつ、校長室へと向かった。
――しばらくパルデアにいますので、今後の活動方針についても共有しておきたくて。
この声、
〇〇さん?
校長室に相応しい威厳のあるドアの向こうから聞こえてきたのは、かつての研究仲間の
〇〇の声だった。ジニアにとっては、ただの仲間ではなく、長年想いを寄せていた相手でもあった。
〇〇さんだ。久しぶりに
〇〇さんに会える。緊張するなあ。
ドアノブを握る手は、喜びで力が入る。
――それと、お世話になった方へ、ご挨拶もしたく、
――それはご結婚、ということでしょうか?
挨拶? 結婚?
〇〇さんとクラベル先生の声に、もう一人、聞き覚えのある男性の声。確かポケモン博士の……
単語とドアの向こうにいるであろう人物を思い描けば、招集された理由など容易に想像ができた。振動はただの音として処理されていく。ジニアは、聞かなかったふりができる程度の処世術を持ち合わせていた自分に安堵した。
「いやあ、遅れてすみませえん。お久しぶりですう、
〇〇さん、フリードさん!」
「ジニアくん、久しぶり」
「ご無沙汰してます、ジニアさん。以前はお世話になりました!」
「いえいえ、ぼくの方こそ、すごく助かりましたあ」
機能性重視の冒険家らしい服装と、博士らしく自信に満ち溢れた凛々しい顔の割に、好感の持てる落ち着いた声は、ジニアの記憶にも印象深く残っていた。
パルデア図鑑を制作する際、分布図の提供と記録したポケモンの表示方法などでアドバイスを貰い、その代わりパルデア地方に生息するポケモンの生態調査を手伝っていたのだった。
ジニアは、フリードとは面識はあったものの、彼女と知り合いだったことを、この場で初めて知った。しかも、彼女の研究に惹かれて飛行船へ誘ったという。目の前で和やかに交わされる三人の会話が、聞き間違いであってほしかった単語の意味を強引に理解させようとしてくる。
……ああ、そういうことですかあ。
ジニアは笑顔を崩さず、長年染み付いた相槌でその事実をやり過ごした。
目線を彼女へ向ければ、嫌でも並んで立つふたりの姿が目に入る。
アカデミーを訪れたのも、彼女の研究内容についてかつての仲間であるクラベルとジニアの意見も聞きたかったからだと言うのを意識半分に聞いていた。
こんなことって、あるんですねえ。これも『縁』なんでしょうか。
独りごちるわけでもなく、肌の裏で感じるいつかの彼女の言葉に静かに瞬きをした。
談笑する三人を背に、校長室を後にするジニアの背中を軽く叩いたのは視界に入れないようにしていた
〇〇だった。
「ジニアくん、元気そうでよかった。大丈夫? ちゃんと寝て、食べてる?」
「うーん、あの頃よりは、まあ。
〇〇さんも、お元気そうでなによりです」
研究室にこもってばかりの頃より生き生きしてる。
綺麗だ。
「結婚、したんですねえ、ぼく以外のひとと」
「……え? ちが、それは……」
言いかけた言葉が、喉の奥で絡まる。
動揺を隠すよう視線を逸らす彼女の目元が、ジニアには見えていた。返せない言葉を探している、そんな顔だった。それはジニアにとって、肯定とも取れる仕草で、笑うしかなかった。
「おーい、
〇〇、一旦船に戻るぞー」
廊下の先から呼ぶ良く通る声に、彼女の言葉が飲み込まれる。
何度もつむがれては開かれる唇は、戸惑いを滲ませていた。その見たことのない表情は、ジニアの胸をじわりと締めつける。
「あ、うん。でも、」
「いいですよ、行ってください」
……
〇〇さん。
「もう、ジニアくんったらまた書類に埋まって! ちゃんと仮眠室で寝なきゃダメでしょう?」
デスクに山積みにされた資料に頭を突っ込むようにして寝ていたジニアを起こしたのは、幼い子どもを叱るような優しく諭す声だった。
「んん、
〇〇さあん。すみませえん。昨日、
〇〇さんが言ったことが気になって、夢中になりすぎましたあ」
バサバサと床に落ちていく資料の中からひと束の書類を掴むと、彼女へと渡す。
「え、これって。私のたった一言でここまで調べたの? 一人で? すごいわ……」
「えへへへへえ」
「でもちゃんと自分も大事にしてね。はい、これ食べて。あとは私が片付けておくから、少しは横になって、ね?」
人手が足りないからと現地調査班に入り、無茶をして上司のクラベルに叱られたこともあった。
「
〇〇さんも人のこと言えないじゃないですかあ」
「うふふ、ほんとに」
「そこ、ふたりとも、聞いてるんですか」
「すみません」
「すみませえん」
どんなに自分が忙しくても、手を差し伸べてしまう、困っている人を見過ごせないひとだった。
人として尊敬していたし、憧れていた。そして、惹かれていた。
「クラベルさんの誘い、断ったんですね。ぼくはてっきり……」
「閉じこもってばかりだったから、少し外に出てみたくなったの。縁があれば、また会えるわ。そういうものでしょう?」
「ぼく、ずっと……いや、また会える日を楽しみにしてます」
何度も、何度も、告白しようと思った。
けれど、タイミングを失ってばかりだった。
なぜ、もっと必死に手を伸ばさなかったんだろう。
手が届かなくなってからでは遅いというのに。
溢れ出す記憶を後押ししたのは、追憶の中の
〇〇の笑顔だった。
張り付いて動かなかった足を、床から剥がすように一歩、また一歩と廊下を進んでく。
「
〇〇さん……!」
ぼくも、フリードさんのように言えていれば――
気づけばジニアは走り出していた。走り慣れない脚は絡れ、何度も転びそうになる。とうに息が上がり、呼吸をするたびに肺が痛んだ。やっとの思いでエントランスへ着いたが、見渡してもふたりの姿はなく、外へと続く中央扉へと進んだ。
ジニアは、眩しさに目を細めながらも重いドアを押す。行き交う生徒たちを縫って、大階段へ向かって再び走った。
そこにもふたりの姿はすでになく、眼下に広がるバトルコート広場にも見当たらない。
叫びたいのを我慢し、飲み込んだ空気に乾いた喉がひりつく。うるさい心臓の音と自分の荒い息がジニアを世界から遮断しているようだった。下を向けば、吹き出した汗がぽたりぽたりと足元に落ちていく。
あの時、伝えていれば、違う未来を歩めたのかなあ。
あなたが笑っているなら、それだけでいい。
そんな風に、思える人間だったなら、少しは報われたのだろうか。
虚しいほどに爽やかな風が、ジニアの背中を強く吹き抜けた。
episode2
校長のクラベルが生物室の隣にある準備室の前を通りかかると、窓から見えたのはいつにも増してぼんやりと空を見つめるジニアだった。
風に揺れるカーテンを見ているのか、それとも遠くの何かを見ているのか、はたまた何も見ておらず頭の中と対話しているのか。ジニアであればどれもあり得るし、普段ならばいつもの事かと気に留めなかったのだが、クラベルは先日、
〇〇が訪れた際の彼の様子を気にしていた。
「ジニア先生、お疲れさまです」
「……あ、クラベル先生、お疲れさまでえす」
クラベルが声を掛ければ、ジニアはゆっくりと振り返り、変わらず間延びした口調で返事をした。
「そういえば、
〇〇さんへ返事しましたか?」
「まだですう。なかなか気が乗らなくて」
彼女が調査していたテラレイド結晶に対して言ったつもりだったが、ジニアから返ってきた言葉はらしくないもので、クラベルは違和感を覚えた。
この違和感が、彼の様子をおかしくしているのだとしたら。
「
〇〇さんも困っているでしょう。急ぎだったからこそ挨拶も兼ねてみえたんですから」
「挨拶、ですかあ。心から祝えるかなあ、ぼく」
やはり。
クラベルは、ジニアが挨拶の意味を勘違いし、彼女への返事を渋っていることに確信を得た。教師として生徒や他の教員と関わるようになり、身だしなみや生活習慣こそまだ途上とはいえ、少しずつ人間らしい暮らしを送れている。その姿に、クラベルは僅かながらも安堵を覚えていた。もう一歩踏み込んでみればまた世界は変わるはず。そう考え、敢えて勘違いを正さずにジニアの成長を促す道を残した。
「人間らしく悩み、ぶつかるのもいいと思いますよ」
「ぶつかったら痛いですよお」
「それもまた必要なことです。とはいえジニア先生も
〇〇さんも夢中になるとどこまでも突っ走るきらいがあるので、私の心配は尽きませんね」
生物準備室には柔らかい風が吹き込んでいる。山積みされた書類がパラパラと捲れ、まるで見えない何かが通り過ぎたようだった。それは、ジニアの中の何かにも、そっと触れていった気がした。
けれども、クラベルの本当の意図は、やはりわからないまま、チャイムが鳴った。
本鈴間近となり、慌てて教室へ入っていく生徒たちの後ろを、ジニアはゆったりと歩く。
研究職は、天職だと思っていた。
人前に立つ、ましてや人に何かを教えるなんて自分には無理だと一度は断った。最終的には、『より自由に研究が、好きなことができるから』と甘い言葉で誘われ、それならばと不安を抱えたまま承諾した。しかし、腹を括って初めて立った教壇は、新しい世界が開けたようで、感動で目頭を熱くしたほどだった。
「どおも、どおも。さあて、今日も楽しくお勉強を始めましょうかあ」
慕ってくる受け持ちの生徒たち。
知りたいことを知ろうとする、真っ直ぐな姿勢は、とても眩しい。
自分のできる限りの知識をもって、応えたいと心から思った。
施設の中だけでは到底集めることの出来ない莫大な、夢、宝物のカタチは日々、ジニアのパソコンへと集まっていく。それらもまた、彼にとっての宝物となっていた。
その日の授業も無事に終わり、生徒たちは次の授業へと教室を後にしていく。
ざわつきが少しずつ静けさへと変わっていく中で、ジニアは荷物をまとめ始めていた。
「……あの、ジニア先生……」
「はあい、どうしましたあ?」
教室の隅に残っていたひとりの生徒が、戸惑いがちに声をかけてくる。ジニアは、猫背気味の背中をさらに屈ませ、生徒の目線に合わせ返事をした。
「この間、校長先生からやってみないかって、連絡もらったんです。ポケモンウォッシュの、講師の、」
自信なさげに話す彼は、俯いて話を続ける。
「ジニア先生、僕、自信ありません。なんで僕なんかに。実家がポケモン専用の美容室だからですか? それは親がやってることで、僕には……」
「クラベル先生は、あなたが適任だと、やり遂げられると思って推薦したのだと、先生は思いますよ。クラベル先生の人を見る目は確かなんです」
「でも……」
「無理に、とは言いません。けれど、あなたならわかるはずなんです。ポケモンの喜ぶことが、自然に。先生も、あなたと、あなたのポケモンのウォッシュ中の姿をよく見かけてまして、感心しているんですよお」
あれ、自分で言っておいてなんですが、なんだかこの会話、ぼくにも刺さりますね。
――人間らしく悩み、ぶつかるのもいいと思いますよ。
――それもまた必要なことです。
――私の心配は尽きませんね。
準備室で交わしたクラベルとの会話が、今の自分の言葉と地続きで繋がっていることに気がついた。
「……喜ぶこと、」
ゆっくりと顔を上げた生徒と、ジニアの目が合った。その目は、まだ不安を残しつつも、希望が見えたように輝きはじめていた。
「大丈夫です! 一緒に考えてみましょうか、できるだけサポートしますよお」
――できるだけサポートするわ、一緒に乗り越えましょう。
それは、いつか彼女がくれた言葉と重なった。
ジニアは、はっと息を呑んだ。
自分の中に、憧れていた彼女の姿が息づいている。迷いながらも、こうして誰かに言葉を届けられる。この想いは、何も恋だけではない。一緒に過ごした日々は、自分を動かしてくれる糧となっていた。
心の靄が晴れていくような、そんな感覚がした。
ジニアは、笑顔を取り戻した生徒を見送り、振っていた手を荷物へ戻そうとした。その時、胸ポケットにおさまっていたスマホロトムが、短く2回鳴る。
テラレイド結晶の異常を知らせる通知と、
〇〇からのメッセージだった。
「……これは一体……
〇〇さん……?」
記憶と感情が少しずつ、確かに結びついていく。
episode3
テラスタル。
パルデア地方全土と、一部地域で見られる、この地特有のエネルギー結晶体。
パルデアの大穴と呼ばれる、まだ前人未到の地も多くあるという未知なる場所から溢れ出たエネルギーが、このような現象を起こしているという。
この地のトレーナーならば、必ずと言っていいほど憧れるバトル時のテラスタルも、このエネルギーを特殊なボール『テラスタルオーブ』へ集め、相棒のポケモンを強化するというというものだ。
メガストーン、Zクリスタル、マックス粒子――。
ポケモンの技や身体能力、タイプまでにも影響を与える不思議なエネルギーを追い、
〇〇は各地方を巡っていた。
きっかけは、かつての研究仲間だったクラベルとジニアが、アカデミーへ籍を移すと聞いたことだった。
〇〇もクラベルから誘いを受けたが、これも何かの転機だと、以前より興味のあった分野へ進む道を選んだ。
セルクルタウン外れ、川のほとり。
〇〇はキャンプを張り、幻想的な輝きを放つテラレイド結晶の観察をしていた。
この結晶の中には、強化されたポケモンが潜んでいる。決して一人では入ってはいけない場所だ。観光案内でも、飛行機内でも繰り返し注意されている危険地帯で、一般の観光客は無闇に近づかない。
しかし、それでも無謀な者はいる。
研究員だと名乗る男が、片手にピッケルを持ち、今にも結晶を叩き割ろうとしていた。
「許可のない結晶の採取は禁止されているって言っているでしょう?」
「誰が何の権利があって禁止してるんだ? 自然発生しているものでしょ」
「あなたも研究者なら、勝手なエネルギー体の採掘は御法度だってわかっているはず」
図星を突かれた男は、クッと顔を顰めた。
「この結晶は、ポケモンリーグとアカデミーに管理されているわ。異常があればすぐに通知が行く」
「そんな監視システムあるわけないだろ! パルデア全土に点在し、出現と消滅を繰り返してるんだぞ! お前が黙っていれば済む話だ!」
叫ぶと同時に、大きく振りかぶったピッケルの先が、結晶をかすめ、鐘の音のような軽やかな音が響きわった。結晶を纏う光が一瞬揺らぎ、乱れたエネルギーがパチパチと弾け始める。
〇〇は男に意識を向けつつも、スマホでマップを確認すると、異常を知らせるマークが点滅していた。本来ならば、ジュンサーかリーグへ連絡を入れるべきなのだが、これ以上逆上されては止めることができない。
「危ないわ、すぐに離れて!」
「通知なんてお前のハッタリだ! ここまで来てやめるヤツがいるかよ!」
「だから、それが可能なほど優秀な人たちがいるの! 何度言ったらわかってくれるの!?」
もし内部まで影響が及んでいたら、もし暴走した力が周辺のポケモンや人に悪影響を与えてしまったら――。
「彼女のいう通りですよ」
「……っ! ジニアくん!」
〇〇が声のする方を振り向けば、険しい顔をしたジニアが立っていた。
男は、突如現れた白衣姿のジニアに狼狽える。僅かにピッケルを握る手が緩んだ気がした。隙を見てあれだけでも奪うことができれば、そう考えた
〇〇は、すり足で男に近づく。
彼女の目線の先に気づいたジニアが、
〇〇の肩に触れ、優しく制した。
「どおも。ぼくはアカデミーの生物教師、ジニアといいます」
「……先生がなんだってここに」
「ぼくのたいせつなひと、傷つけないでもらえますか」
自称研究員は、ふうと荒く息を吐き、腰のモンスターボールへ手を伸ばす。
「バトルですか。それでしたら、ぼくの相棒でお相手しますよ。でもまずはこれ見てもらえますか?」
スマホロトムには、管理しているシステム画面と、異常発生時のグラフが表示されていた。ずらりと並ぶ他の緩やかな波と比べて、一箇所だけがある時刻を境に激しい波状を描き始め、現在もなお、その状態が続いている。
男が研究者でなくとも、この画面が偽物ではないことくらいわかる。それほどまでに緻密で正確なデータだった。
「し、信じられない」
「わかってもらえてよかったです。調査されたいのでしたら申請してくださいねえ。トップ兼、理事長が直々に取り合ってくれると思いますよお」
男はジニアを睨み返したが、有無を言わせない笑顔の圧に言葉を失った。丁寧で柔らかな口調は、逆に威圧的ですらあり、男の戦意を喪失させた。
ジュンサーが駆けつけ、男の身柄を受け渡すと、結晶は徐々に元の幻想的な光で包まれる。データでも結晶の数値が安定したことを確認し、ふたりはホッと胸を撫で下ろした。
「そういえば、フリードさんは?」
「ここには私ひとりよ。きっと彼も自身の研究を続けていると思うわ」
「そうなんですねえ。本当ならおふたりにご挨拶したかったんですが」
「ん? 挨拶ならこの間したじゃない」
「いえ、あの時は心ここに在らずでしたので。今ならちゃんと祝福できそうです。ご結婚、おめでとうございます」
顔を上げたジニアの目に映ったのは、戸惑いに加え、困ったような顔をした
〇〇だった。先日とはまた違った気まずい空気に、場違いだったかと考えたジニアは、子犬のように首を傾げる。
「……あのね、私に結婚の予定はないわ」
「えええ? でも、あの時、」
確か、フリードさんの声がそう言って……あれ? よく思い出せばクラベル先生の声だったような。あの時は気が動転してて、最後まで話をちゃんと聞いていませんでした……。反省です。
では、ぼくが口走った言葉は……!
「やっぱり。聞こえてたのね。あの日、ジニアくんの様子が変だったから、どうしたのかと心配していたのよ」
〇〇は、あの日の会話を順を追って説明した。
ふたりの関係には一切触れられなかった。その不自然さがジニアを悩ませる。
あの言葉も、様子がおかしい、で済まされてしまうほどに、なんとも思われてなかったんでしょうか。気持ちの整理はできたとはいえ、それはそれで悲しいものがありますねえ。
ジニアは昔から感情が顔に出やすい。隠し事もすぐにバレてしまうほどに素直だ。
最後の別れの日も、自分のために感情を抑え込んでくれたのを、
〇〇は気づいていた。静かに頷いてはいるものの、彼の中で思考されているであろう感情に合わせ、ころころと変わる表情に
〇〇は、申し訳ない気持ちになった。
「助けてくれてありがとう。お礼が遅れてごめんなさい。来てくれて、とても安心したわ」
「いえ、
〇〇さんがあんな一言だけのメッセージ送るなんて只事じゃないと思いまして。あとはもう無我夢中でしたあ。お怪我してませんかあ?」
「ジニアくんなら気づいてくれると思って。本当にありがとう。私は無事よ、ジニアくんのおかげで」
「それはなによりですう」
今も信頼してくれてるんですね。
ぼくが来たことで安心してもらえたなら、よかった。
ううん、すごく嬉しい。
たった一言でこんなにも胸があたたかくなるなんて、やっぱりぼくは、まだ
〇〇さんのことが好きなんだなあ。
ふにゃりと下がったジニアの眉の、心底安心したような表情を見た
〇〇は、ふふふと笑い出す。つられて笑うも、なぜ笑ったかわからず、小首を傾げた。
「ジニアくんのその顔を見たら、なんだかホッとした!」
その顔とは、どんな顔をしていたのか気になり、自分の頬に手をやった。普段と変わらないような気もするが、彼女が笑っているならいいかと、ジニアもまた笑った。
あの日は彼女の笑顔さえも喜べなかったというのに。
そうか、
〇〇さんには自分のそばで笑っていて欲しいのか。
ふっと囁くような風が、頬を優しく撫でる。
まるで、よくできました、と言っているようで、やっと辿り着いた答えに、ジニアはそっと目を伏せた。
episode4
あの自称研究員の男がどうなったのかというと、ジニアの言った通り、ポケモンリーグのトップで委員長、さらにはアカデミー理事長をも務めるオモダカより直々にお叱りの言葉をもらったという。
静かなる怒りは、男を改心させることができたようで、普段温厚な人が怒ると怖いというのは本当なのだな、と
〇〇は改めてそう思った。
それは、ジニアに対してもだった。
――結婚するんですね、ぼく以外のひとと
――ぼくのたいせつなひと、傷つけないでもらえますか
周りが自然と和んでしまう柔らかい雰囲気の彼が、強く感情を表す時、あんな表情になるなんて。長く同じチームにいて、彼のことは他の同僚よりも知っているつもりだったが、初めて見る顔だった。
別れの日に見た、曖昧な笑顔が彼の隠したかった本心なのだとしたら。
「全然隠せてないの、気づいてるのかしら」
自分はどうだろうか、とブレイブアサギ号船内の自室に備え付けられているベッドに横たわった。ジニアには、フリードといる時とは違う安心感がある。それは、長年の仲間としての信頼だろうか。
目を瞑り、考えていると、枕元に置いていたスマホロトムが短く鳴った。
届いたのは、ジニアからの返事だった。助けてもらったお礼にと、食事に誘っていた
〇〇は、少し緊張しながら画面をタップする。
『もちろん、よろこんでお受けします。楽しみにしてますね〜』
声が聞こえてきそうな、ゆるくも優しいジニアの言葉。
ふわりと心が軽くなるようなこの気持ちは、同じ施設で研究していた時も時折感じていた。もしかすると隠していたのは、自分だったのだろうか。
わからない。
「……誰かこの謎、解明して」
〇〇は、ぽつりと呟くと、スマホを胸の上に置いた。
ジニアが返事をしてから数日後の午後、ふたりはアカデミーへと続く大階段の下で待ち合わせをしていた。まだ日も高く、賑やかな声が飛び交う中、ひときわ明るい声が響き渡る。
「
〇〇さーん!」
手を大きく振りながら階段を駆け降りてくるジニアに、
〇〇は思わず小さく笑った。
「お待たせしてすみませえん」
「大丈夫、珍しく時間通りよ」
「えへへへへえ」
ジニアは照れ笑いを浮かべながら、弾む足取りで横に並ぶ。サンダルで階段は危ないのでは、と嗜める
〇〇に、「慣れればどこへでも行けますよお」と返しつつ、ふたりは歩き出した。
向かうは、パルデアの郷土料理が評判のバル・キバル。
学生の街として栄えるテーブルシティは、いつも活気に溢れている。レンガ造りの街並みにカフェやレストラン、様々なブティックが軒を連ね、ハッコウシティに並ぶほどの賑わいが広がっていた。
観光客や近くに住む人々も多いが、すれ違うのはやはりアカデミーの生徒がほとんどで、ジニアが外を歩くのはどうやら珍しい光景らしく、あちこちから視線と声が飛んできた。
「ジニア先生が外にいる!」
驚いた生徒のひとりが、慌てて帽子を落とす。ジニアはそれを拾い、軽くはらうと「先生もたまにはお外に出ますよお」と穏やかに手渡した。
「先生、その方は?」
お礼を言って受け取った生徒が、帽子を被り直し終えると、
〇〇を見て首を傾げる。
「この方ですかあ? この方は、ぼくのたいせつな方ですよお」
ジニアは、にこやかに返した。
その笑顔は、まるでまわりに花が咲いたかのように周囲の空気をやわらげる。
〇〇は幾度もこの空気に癒されてきた。
けれども、先ほどまで彼のことを考えていたせいか、ふいに聞かされた二度目の“たいせつなひと”という言葉に、
〇〇は思わず顔が熱くなるのを感じた。
――私は、ただ照れているだけ?
しかし、この感情を明確に言語化するには、まだ調査と比較分析が足りない気がした。
「ジニアくん、あなたってひとは。素直すぎるんだから」
「なんのことですかあ」
手を振りながら去っていく生徒に手を振り返しつつ、ジニアはふと隣に目をやる。
頬を少しだけ染めた彼女の横顔を見て、「
〇〇さんも照れることあるんですねえ」と、眉をゆるめ、ふわりとした笑顔を浮かべた。
料理はどれも素朴であたたかく、どこか懐かしい味がした。
ジニアは相変わらずマイペースで、料理の見た目や香りを丁寧に語りながら、ひとくちひとくち大切に味わっている。
微笑ましい姿に、
〇〇もつられて笑った。助けてもらったお礼も、美味しい料理とジニアの笑顔に、気負うことなく伝えることができ、
〇〇は胸を撫で下ろした。
早めの夕食だったが、店を出る頃にはすでに空は薄暗く、夕焼けに染まった空に藍が滲みはじめていた。
青く影を落としたレンガ造りの街並みに、オレンジの街灯が一つ、また一つと星のように灯っていく。
「わあ、トワイライトタイムですねえ」
ジニアが空を見上げながら呟く。
その言葉に、
〇〇も同じように空を見上げた。
「なんだかジニアくんみたい。ホッとするのに、少しだけ切なくなっちゃうみたいな」
「えっ、ぼくそんな感じですかあ?」
「そうねえ、なんとなく、かな」
「うーん……
〇〇さんは、夜明け、ですかねえ。明け方? 暁、黎明? なんかこう、新しい一日が始まるような、力強さがあって。……でもちょっとだけ儚くて、綺麗な……。ああっ、例え難いなあ」
腕を組み、指を顎に当てて、うんうんと考え込むジニアの横で、
〇〇は小さく吹き出した。
「真剣に悩んでくれて、嬉しい。ジニアくんから見たら私ってそんな感じなのね」
「上手く言えたら、かっこよかったんですけどねえ」
〇〇はゆっくりと首を振る。
十分すぎるほどに真っ直ぐなジニアの言葉は、
〇〇の胸をじんわりとあたたかくさせた。
「もう少し、歩きませんか」
ジニアの落ち着いた声に、
〇〇は短く返事を返す。
ふたりはテーブルシティを囲む城壁に沿って、ゆるやかにカーブを描く道を並んで歩き出した。すっかり日も沈み、城壁の向こう側に流れる豊かな水路には、澄んだ月明かりが反射していた。
「伝えたいことがあったんですけど、今日
〇〇さんと会えて、お話できたのが嬉しくて、終わるのがもったいなく感じてきちゃいました」
ジニアは困ったように笑い、肩をすくめる。
何度も見たことのある彼の仕草に、
〇〇は心が揺れるのを感じた。
「また今度、会えた時でもいいでしょうか」
ほんの一瞬、ふたりの指先が触れる。
〇〇の指が、ぴくんと小さく跳ねた。ジニアの長い指がそっと追いかけるように伸びてくる。触れるか触れないかの距離で躊躇い、ひと呼吸したあと、静かに彼女の指を優しく絡めとる。
包み込むような柔らかい風が、ふたりの間を通り過ぎ、優しく髪を撫でていった。
共通エピソード『
追憶と幸福の間で』へ続く
フリード側の話『
フリードの幸福』はこちらから
write 2025/6/27〜7/6