5話 曖昧
ここは、東パルデア海近くの草原。
この船は、ポケモンやそれにまつわる世界の謎を追いかけて世界を旅している。どんな場所でも、どんな危険があろうとも、彼らはそこに飛び込んでいく。修理はその都度オリオが施してくれているが、今回は長期メンテナンスのため、しばらく停泊することになった。
雨季に入りかけたパルデアは雨模様が続き、3日目ともなれば洗濯物が溜まる。朝の日課である洗濯以外の家事を終わらせた私たちは、いつものように船の甲板にいた。
濡れるのは苦手だが雨音は好きなヤドンは屋根の下で心地良さそうにしている。マリルは天然のシャワーを全身に浴びながらピョンピョン跳ねている。私はというと、ビーチチェアに傘を差したアンバランスな装備で、それを見守りつつ仕事をしていた。
彼と分布図更新のフィールドワークに出てから数日が経った。学生の頃の延長な関係は未だ続いており、男女のそれになるような出来事は起きていない。お互い気持ちを確かめ合った気もするが、よく考えれば学生時代の答え合わせのようなもので、好きだとか付き合ってくれだとかの愛の告白は交わしていなかった。
「でも、共同研究の話は進んでるんだよねえ」
「ルリ〜?」
あれからというものの、私たちの会話の内容は、まとめた調査の報告や彼が今書いている論文の意見交換、それに謎のままに終わった跡の持ち主の分析が主だ。
ポツリと溢した独り言にマリルが反応する。
「これはこれで嬉しいんだけどね」
キュウと鳴くと、とてとてと少し離れた所へ歩いていき、濡れたからだをふるふると振って水分を飛ばした。
「あれ? 水遊びはもう終わり?」
「ルン!」
マリルが指差す方を見上げれば、西の空から次第に黒い雲は白んでいき、隙間から光の柱が降り注いでいた。貴重な晴れ間だ。
「気づかなかった、ありがとうマリル。洗濯しよっか!」
「ッキュウ!」
ヤドンはそのまま日向ぼっこをするらしく、私とマリルは洗濯物を取りに自室へと戻る。ランドリースペースへ向かう途中、最近特に忙しい彼の助けになればと思い、声を掛けることにした。
半分程開いていたドアをノックする。椅子に人影はあるのに、返事がない。名前を呼んでも無反応。眠っているのだろうか。僅かに開いた窓からはこちらまで風が吹き抜けている。今にも書類が飛びそうだ。
「わ、大変! 失礼しまーす」
間一髪、舞い上がりかけていた書類へペーパーウエイトを置くことができたが、開かれたままの本は数ページ捲れてしまった。
「えーっと、確かこのページだったような」
元のページへ戻し、近くに置いてあったリザードンのシルエットが描かれた栞を挟んだ。これで彼が目を覚ましても資料はそのままだ。窓を閉めればいいだけなのだが、晴れた空から差し込む光と、窓から吹き込む風が心地よくて、閉めるのは少し惜しい気がした。
そっと振り返ると、彼は椅子にもたれ、腕を組んだまま静かに眠っていた。
そばにいられて嬉しい、今では冒険も旅も研究だって一緒にできている。けれど、時々思う。ちゃんとお付き合いをしたいと思っているのは私だけなのだろうか、と。そんなことを考えながら彼の顔を見つめた。
目鼻立ちのはっきりした堀の深い顔に、雨上がりの柔らかな光が差して思わず見惚れる。
「……綺麗な寝顔」
ふと、言葉が漏れた。声にするつもりなんてなかったのに。
「覗きなんてハレンチだな」
「わっ」
目の前の瞼がパチリと開いて、透き通った琥珀色の瞳に、驚いた顔の私が映った。
「起こしちゃった? ごめんね」
「いいや、起きた瞬間
〇〇がいるなんて最高の目覚めだよ」
そう言うなり、彼は座ったままゆっくりと腕を伸ばし、私の腰を逃さぬように引き寄せた。バランスを崩した私を抱き留めると、そのまま胸下に顔を埋める。
いったい、何が起きているの。息するのを忘れてしまいそう。
「ねえ、寝ぼけてる?」
「まさか」
つむじへ話しかける。布越しに低く漏れた息が、肌を撫でた。
どうしよう、そんなとこ抱きつかれたら鼓動速いってバレてしまう。でも、なんだか可愛い。頭撫でたいな。撫でてもいいかな。いいよね、フリードだって無許可だもん。
私は少しクセのある白髪をそっと撫でた。
「……撫でられるなんて久しいな、子どもの頃以来か。案外今でも心地良いもんだな」
抱きしめた腕が、意図を持ってきゅっと締まる。背中に感じる大きな手。指の先までもが力強く、けれど優しく私に触れる。その熱のこもった手が、躊躇いもなく滑り、肩甲骨を撫で上げた。くすぐったさに、思わず体を捩る。
「ん、くすぐったいよ、フリード」
「おっと、すまん。これ以上は抑えが効かなくなりそうだ」
強く回されていた腕が言葉と同時にパッと離れた。隙間が寂しい。
「……嫌じゃないのに」
「そ、……んなこと男の前で言うもんじゃありません!」
「フリードこそ」
彼に触れられると、時に言葉よりも強く、深く、思いが伝わってくる気がする。それはきっと私と同じ気持ち。そう思うのだけれど。
窓からは、変わらず心地良い風が通り抜けている。彼は長い息を吐いて、少し困ったような悩んでいるような顔をした。学生の頃には見たことのない、大人な表情。彼を見ている私は今、どんな顔をしているのだろう。確認したくとも、琥珀色の瞳はデスクに置かれた端末のディスプレイを映している。
「……書類、本もまとめてくれたのか、サンキュー」
こちらを向き直した彼は、普段通りだった。
「風で飛びそうだったの。私がいなかったら今頃部屋は大惨事だったんだからね」
まるで何もなかったみたい。ダメだ、ちょっと泣きそう。
「もしかして、何か用事だったか?」
「うん、洗濯物あるかなって。最近雨続いてたでしょ? 今晴れてきたところなの」
「ああホントだ、でも後から自分でやるよ。ありがとうな」
「ん、わかった。じゃあ、また」
なかなか戻ってこない私を心配したマリルが開けたままのドアから覗き込むのが見えた。振り返ることなく、そちらへ向かう。
拒絶されたわけじゃないのだから大丈夫。
込み上げる何かで喉がきゅっと苦しくて、言い聞かせるようにそっと深呼吸をする。
卒業して徐々に連絡が減っていっても何ともなかったのは、小さく芽吹いたまま成長しなかったからだ。それが今では忘れていた気持ちを取り戻すかのように、蕾はふっくらと膨らみ続けている。大きく育ったそれは“もっと”と欲するが、彼に迷惑をかけたいわけでも困らせたいわけでもない。
マリルへ「お待たせ」と言いかけた時、腕を掴まれた。
彼がそうしたいのなら、私も普段通りに。ゆっくりと振り返る。
「なあに?」
「あ、いや、つい」
「ふふふ、名残惜しくなっちゃった?」
そう言う私の腕を引き、ぎゅっと抱き締めて、「ああ、みたいだ」と優しく囁く。もっと、と欲張りになっていたのは私だけではないのだと、ホッと胸を撫で下ろした。
「一緒に行く?」
「そうしようかな」
ねえ、何であんなことしたの? 可愛いのがいたらするだろ、普通。おまえだって寝顔覗いただろ? え〜、じゃあおあいこね。なんて小言を言い合いながら私たちは、晴れ間に誘われるよう歩き出した。
To Be Continued
write 2025/4/21