10話 約束
ポケモンの数だけ、人の数だけ、旅があり冒険がある。
私たちもまた、旅の途中だ。
朝焼けに飛び立つポッポの群れに、揺れる朝露の草。淡い橙にキラキラと眩しいそれは、森の長い夜を終えた安堵の輝きにも見える。
昨日より世界が美しく思えるのは、きっと、恋をしていて、愛しいひとがいるから。
「ん、おはよう、
〇〇。朝早いな」
テントのファスナーが開く音がして振り返れば、捲った隙間からフリードが顔を覗かせていた。寝癖のついた前髪の間から見える顔は、とても眩しそうで、眉はふにゃりと下がり、目はキュッと細められている。
「おはよう、フリード。空気が澄んでて気持ちがいいよ」
寝起きの気怠い声で低く唸ると、顔を引っ込めた。二度寝でもしたかな、と心の中でおやすみと言いかけた時、背中を丸めた彼が大きなあくびをしながら、のそりとテントから出てきた。
私のすぐ後ろに立つと、肩口に顔を埋めて、すうっと鼻から息を吸った。
「ホントだ。空気がうまい」
触れる鼻先と前髪がこそばゆく、照れ隠しの短い返事をした私のお腹に腕を回して緩く抱きしめる。そっと手を重ねると、朝の空気でひんやりしていたからだに、じわりと体温が伝わってきた。昨夜、彼の腕の中で眠った温もりと甘くあたたかい気持ちを思い出す。
「あ、見て。ナゾノクサたちの列だよ。可愛いね」
「掛け声のような鳴き声が可愛いんだよな。草むらだとはぐれちまうから本人たちはいたって真面目なところがまた」
そう言って軽く笑った彼は、私の肩越しに一日の始まりに動き出したポケモンたちの観察を始めた。
オボンの木に集まるコラッタに、モモンの実を巣へと持ち帰るポッポたち、まだ枝の上で眠そうにしているビードルやキャタピー。
そっと語りかけるように話す彼の穏やかな声は、木漏れ日のようで、うっとりと聞きながらも相槌を打つ。当たり前で、何も特別のない些細なことが、こんなにも嬉しい。
新婚旅行、と言われて旅立ってから一日。
目的地には少し距離があるらしく、昨夜はカントー地方の森の入り口で野宿をした。「初っ端野宿で怒んねえの?」と言われたが、想定の範囲内に怒りも驚きすらなく、久しぶりの二人きりの時間に幸せしか感じていなかった。そもそも結婚もまだしていないし、プロポーズさえなかったのだから、実感がないのだと思う。確かに、論文は連名で載ったし、夫婦みたいだと勝手に想像して照れたりはしたけれど、それとこれとは別な気がしなくもない。
それにフリードは、告白してまもなく、1ヶ月ほど調査で船を離れていて、両想いになって顔を合わせたのは両手で数えられるくらいしかなく、付き合えているという実感をやっと噛み締めているところなのだ。
「ジョウト地方に行くの?」
朝食を終え、片付けと荷造りが済むと、私たちはまたリザードンに乗って空の旅へと出かけた。しばらくして下に広がる景色に振り返って声を掛ければ、「まあ、そうと言われればそうだな」と曖昧な返事が返ってくる。そんなに浴衣姿見たかったのかな、とあの時の彼の悔しそうな顔をひっそりと思い出す。けれど予想は外れ、フリードは見えてきた海を指差し、港を目指すようリザードンへ伝えた。
「ここで釣りするの?」
「それもいいよなあ」
この返事ぶりだとこれも違うらしい。ヨシノシティ近くの見晴らしの良い海辺に降りた私たちは、リザードンへお礼を言ってきのみを渡すとハーネスを外してリュックを背負った。
「んで、こっからはフェリーで移動だ」
「え、うん」
見上げた横顔は楽しげで無邪気で、擬音を付けるなら“わくわく”がピッタリな表情をしていた。感情が顔に出てしまう彼は、いい意味でわかりやすい。
手を引かれるままフェリー乗り場へ行き、言われるがまま船に乗り込む。花の香りに見送られながら、降り立ったばかりの陸地をあとにした。
遊覧船ではなく、ここから船で向かう場所。考えられるのは――
「ねえ、目的地ってもしかして、アルトマーレ?」
「正解! 行ったことあったか?」
「ううん、初めて! ずっと行ってみたいって思ってたの」
俺もだ、と微笑む彼の後ろで船が立てた白い水しぶきがチラチラと散り、揺らめく水面は光の粒が輝いていて見惚れた。空も似合うのに、海も似合うなんてずるすぎる。
いつだったか、旅行雑誌で“新婚旅行にオススメ♡”と紹介されていた記事を読んだ。いいなあ、なんて、自分には関係のない話のように、ぼんやりと憧れた記憶がある。まさかフリードと行けるなんて、まるで夢みたいだ。
「着いたぞ! 水の都、アルトマーレ!」
「わあ! 近くで見てもすごい綺麗。ねえねえ、ラティオスとラティアスの像! 伝説が語り継がれる島ってやっぱり博士の血が騒いじゃうね」
「ハハハ、今日は調査じゃないんだからな」
「わかってるよ」
ん、と差し出された手に指を絡ませ、浮かれながらも美しく神秘的な島へ一歩踏み出した。
「ちょっと待って、いつの間にこんなホテル予約してたの?」
「ふふん、すげえだろ」
まずはこっちだ、と引っ張られて着いた立派な建物に圧倒された私は、部屋へ案内されても同じセリフを言ってしまった。その度に謙遜も説明もせず、腰に手を当て、ふんぞり返っているところがなんともフリードらしい。
アンティーク調の家具に、アーチ型の窓が可愛らしい部屋は、二人には広すぎるほどだった。もちろんソファやベッド、お風呂も。共同生活もしているし、昨日だって同じテントで寝たというのに、いざホテルに二人で泊まるのだと思うと、なんだか緊張してくる。
「なあ、部屋探索もいいが、着替えて街に出ようぜ」
「え、ああ、うん!」
荷物を置き、普段の冒険着からお気に入りのワンピースに着替えた。髪もゆるくまとめて、いつもならしないアクセサリーを身につけ、唇に色をのせる。彼もジュアルだけれどきれい目な服へ着替え、洗面台の鏡の前で長い前髪を整えていた。
「お待たせ、用意できたよ」
「ゴーグルの跡ついてねえかな、って……可愛いな、ほんとに
〇〇か? やべ、緊張する」
鏡越しに話しかければ、彼の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。心が落ち着かないのは、私だけではなかったようだ。
「そ、そこで照れないでよ! 私も恥ずかしくなっちゃうでしょ」
ぎこちなくホテルを出たが、外の空気を浴びると目の前に広がる絵画のような景色にまたテンションが上がった。
もしかして、ちゃんとしたデートってこれが初めてかも。
アルトマーレは水の都と言われるように、細く小川のような水路から、ゴンドラが何艘も行き交えるほどの運河まで街中に水路が張り巡らされている。そこに架かる大小さまざまな橋も見逃せない。異国情緒溢れる美しい街並みはもちろん、クラシックなアイアンの柵もランプラーに似た可愛らしい街灯も、丁寧に管理された花園や壁を無造作につたう蔦も、目に入る全ての景色にそう感じて、必死に焼きつけようと心のシャッターをきる。
「そんなにはしゃぐと水路に落ちるぞ」
「だって、どこもきれいすぎて、忘れたくないなって」
「写真、撮ったらいいだろ。肝心な時抜けてんだよなあ。まあそこがいいんだけど」
「そうだ、確かに! わ、見て見て、チョンチーが泳いでる! 可愛い!」
「だーから、写真って。いいや、俺が撮るわ。こんなはしゃいでる
〇〇の記録を残さないなんてもったいねえからな」
顔の横でスマホロトムを起動させたままのフリードが、置いてくなよ、と私へ駆け寄った。触れた指先が自然とゆるく絡んで、優しく包み込む。見上げた彼の口角は上がりっぱなしで、ふと目が合うと「楽しいな」と目を柔く細めた。
これが、デート。買い出しや調査中のキャンプとは全然違う。恋人同士って感じだ。
丸いタイルが可愛らしい路地を抜け、規則正しく敷き詰められたレンガの道へ。街中のどこを歩いていてもどこからか水の音がする。心地がいい。
ひときわ広いメインストリートに出ると、運河の見えるテラス席で昼食をとることにした。
「
〇〇のパスタもうまそうだな、一口くれ」
あーん、と大きな口を開けて待つ彼と、フォークに巻かれたパスタを視線が何度も往復する。
「誰も見てねえって」
「……スマホロトムが見てる」
「これは見てねえ。撮ってんだ」
「余計に恥ずかしいんですけど」
「大丈夫、気にすんな!」
待ちきれなかったのか、フリードはフォークを持った私の手ごと掴んで、パスタを口に入れた。満足そうに笑いながら「うまいなコレ」と呟くと、ナプキンで口元をぬぐって、今度は自分のピザを手に取る。その一切れを、私の前に差し出した。いつも通りのようにも見えて、けれども少しだけ真剣みのあるその仕草に、目が離せなくなる。
「はい、あーん」
「恥ずかしいって、言ってるのに」
「コレもうまいぜ、食べとかないと後悔するかもしれないぞ」
ニヤリといたずらっぽく笑った彼の手が、ほら、と少し近づく。こんな恋人らしいこと、ここじゃないとできないかもしれない。私は意を決して、こちらを向くピザの先にかぶりついた。香ばしくてもちもちとした生地を噛むたびに、トマトソースのほどよい酸味とチーズのまろやかさが広がって、さっきまでの恥ずかしさが少しずつ和らいでいく。
「ん、おいひい!」
「だろ?」
美味しいものを、美味しいと言い合いながら食べるのって、幸せだ。それに、フリードがやりたいと言っていたことをまた一つ、実現できて嬉しかった。
レストランを出て、石畳の立派な橋を渡り、おとぎ話の絵本のような可愛らしい路地裏へと入る。そこには細い水路があり、ゆらゆらと流れる水面の奥に目を凝らせば、テッポウウオが群れになって泳いでいた。
「ひゃあ、こんなとこにも! 住みやすいのかなあ。いいなあ、すごく気持ちよさそう」
「いいなあって、うっとりしすぎ。俺にもそのくらい熱い視線、向けてほしいんだがなあ」
彼とスマホロトムに見つめられているのも忘れて、はしゃぎすぎてしまった。野生の、しかもこんな素敵な街の水辺に住むポケモンを見つけてしまうと、どうも我慢ができないみたいだ。
「ごめんごめん、つい習性で」
「
〇〇から手繋いでくれたら許す」
拗ねたように言った彼の手はどちらもポケットに入っていた。出してとも言いづらく、手首にそっと触れ、隙間に指先を入れ込む。これも繋いだうちに入るのだろうか。こういう経験値は乏しく、正解がわからない。
「……ごめんね?」
「うっ、思ったよりグッときた。大丈夫か、俺、爆発してない?」
「ふふ、大丈夫みたいだよ」
「はあ、よかった。あー、安心したら腹減ったな」
「え、さっき食べたばかりなのに」
機嫌を取り戻したフリードは、食後にはやっぱ甘いやつだよな〜と散策中に見つけて美味しそうだと話していたジェラート屋さんへ行こうと言った。うろ覚えだった道を、彼はしっかり覚えていて、マップ無しでも進んでいく。ここは
〇〇が可愛いって言った柵がとか、あのタイルの色が好きだって言った建物を右にとか、覗き込みすぎて落ちそうになった水路を真っ直ぐだとか、目印のほとんどが私だったのはさすがに照れてしまったけれど。
「
〇〇、どれがいい? いや待て、俺が当てる」
そう言って真剣に選ぶ彼の横で、私も一応心の中で悩んでみる。
うーん、ミルク、ストロベリー、いやここはチョコレート、でもチョコはフリードが選びそうだからストロベリー。あ、半分ずつもできるんだ。じゃあ、ストロベリーとミルクかな。
「ミルクとストロベリーを半々、どうだ!」
「すごい! 正解!」
「よしっ! 当たった!」
ミルクとストロベリーを半分ずつとチョコレートをお願いします、と彼が注文しているのを聞いて、私も当たってる、なんてこっそり喜んだりして。フリードが見事言い当てたジェラートはすごく美味しくて、マードックの話題を出そうかと悩んだけれど、また拗ねてしまう気がしてやめた。
色とりどりの壁が並ぶ街並みは、やはりどこを歩いても楽しい。どの風景を切り取っても絵になる。もちろん、そこに立つフリードも。ぼんやりと運河の先を見つめる彼の横顔を、こっそり写真におさめた。
「結構歩いたね、夕飯どうしようか」
初夏の穏やかな気候は、風も優しい。けれども時折、強く吹き抜ける風は、きっとラティオスとラティアスが追いかけっこをしているのだろう。
雰囲気の良い小さな広場で足を止めた私たちは、木漏れ日が揺れるベンチに座って休憩していた。
噴水から溢れ流れた水は、浅い水路へと繋がっている。そこで水遊びをする子どもとポケモンたちのはしゃぎ声やキラキラと跳ねる水しぶきは、なんとも和やかで自然と頬がゆるむ。
「フリード、大丈夫? 疲れた?」
先ほどから口数が減って、静かになった彼の顔を覗き込む。
「ん? ああ、
〇〇とこんな風にここで過ごせているのが、なんか夢のようだなって改めて思ってさ」
「うん、わかる。会ってない期間も長かったけど、出会ってからいろいろあったよね、私たち」
「だよなあ。何度も好きだって言いかけて。間違えたくねえなんてさ、思ってたのに。近くにいて欲しくて触れたりした」
「ん、言葉にするのって難しいときあるよね、一緒だよ私も」
マジでそういうとこ。敵わねえよ、一生な。そう言って立ち上がったフリードが私の前にゆっくりとひざまずいた。いつになく真摯で深い琥珀色の瞳が、私を真っ直ぐと見つめている。
「
〇〇、大事なこと伝えるから聞いてほしい」
「……はい」
「俺と、結婚してくれませんか」
彼の手のひらには、モンスターボールが乗っていた。開かれたボールの中は科学の塊ではなく、水の色にも空の色にも見える、透き通る青の宝石が美しい指輪が品良く収まっていた。
「はい、私もあなたの側にずっといたい、です」
フリードは、ホッとしたように微笑んで、華奢な指輪を摘むと、私の左手を手に取り、薬指にそっと指輪を滑らせていく。伏目がちの睫毛には、木漏れ日が降り注いで、瞬きに息を飲む。普段はあたたかくて自信に満ち溢れている手も、今は少し冷たく震えていて、とても愛おしく感じた。
左手を僅かにかかげると、彼の顔の横で私たちにぴったりな、青い宝石が輝いている。
「
〇〇、大好きだ、愛してる!」
「きゃっ」
ぎゅうっと力いっぱい抱きついた彼に驚いて視線を上げれば、広場にいた人々が祝福の拍手と言葉を贈ってくれていた。緊張しすぎて聞こえていなかったみたいだ。スマホロトムも変わらずこちらを見ている。
「はあ、すげえ緊張した! これで晴れて新婚旅行だな!」
「婚姻届がまだだよ?」
「連名の論文に、推薦者のサインもあっただろ? あれ公的書類になって婚姻届にもなるらしいぜ」
「そうなの? ねえ、ホントに?」
「腹減ったな、夕飯どうすっか」
「ねえ、フリードってば!」
前途多難だけれど、私たちの旅は、まだまだ続く。
To Be Continued
write 2025/6/8