ミステップス
勤務後の帰り道。この街は夕暮れになると、連なった建物の影が伸びてひんやりとする。
復興が進んで全寮制は緩和され、実家が遠方の生徒と希望する生徒のみが住まうようになった。教員もまた然り。私はなんとなく避難生活を思い出してしまって、早々に寮を出た。同僚で同期の山田も他の仕事が忙しく、利便性の良いところへ引っ越した。合理主義者の相澤は寮へ残ると思ったが、エリちゃんがマンダレイのところでお世話になることが決まると、退寮した。
地元の方々やヒーロー、雄英生が力を合わせて立て直したこの街が好きだ。心地よい風に乗って、お夕飯のいい匂いが流れてくるのも、すれ違いざまの挨拶も、ついうっかり鼻歌を歌ってしまいそうになる長く真っ直ぐな道も、何もかもがお気に入り。
そんな私の好きな場所で、ついこの間、相澤が「好きだ」と言った。
残業で少し遅くなった帰り道でのことだった。歩幅が変わるわけでも声色が変わるわけでもなく、僅かに甘い春の夜風に乗せるように、さらりと言った。あまりにも自然で、私は「うん」とだけ返した。彼は、何も変わらずただ前を見て歩いていた。
相澤は、私の住むマンションから徒歩5分ほど離れたアパートに住んでいる。それを知ったのは3年前、あの子たちの卒業を見送った春だった。数年振りに再開された教員同士の飲み会後、「送る」と隣を歩いた彼の迷いのなさに何故かと聞いた時に知った。それから何度も一緒に帰った。長い影でひやりとする日も、家族の団欒が聞こえるあたたかい夜も、雨音を聞いて帰る日もあった。
私も相澤が好きだった。
山田はそれを知っている。「隠すの上手えな」なんて笑われたくらいに、長く片想いをしている。そんなひとから好きだと言われて嬉しくないはずはない。素直に受け止められないのは、理由がある。
教科書にも残るほどの出来事のあと、より連携を、と他校との交流が増えた。それには傑物学園も含まれており、ヒーロー科の担任であるジョークを見かけることも増えた。もちろん、あの会話も。
「イレイザー髪切ってんじゃん! 失恋?」
「違う」
「失恋ついでに結婚する?」
「違うし、しない。というかこれ先月もやっただろ」
「アハハ、イレイザー律儀だから揶揄うの楽しいんだってば」
二人の仲を知っている人は「そろそろノってやれよ」と茶化す。適齢期を過ぎた私たちにとっては現実的で痛い言葉だ。めんどくさいのか、反応するのに疲れたのか、はたまた満更でもなくなってきたのか、表情も声色も変わらない相澤からは何も読み取れない。私の気持ちを知る山田は、「そっくりジャン」と私を揶揄うが、仕事に支障をきたさないほどに、しっかりと胸は痛んでいる。
何故、今になって相澤がああ言ったのか、わからなかった。相澤は一度、私を振っている。厳密に言えば、告白しようとして、止められた。気持ちを伝えさせてくれなかった。のちにそれは相澤の優しさだったのだと気付いたのだけれど、それでも私はあの時、言いたかった。あれ以上に近づける瞬間なんて、もうないと思ったから。
でも、これは私のわがままだ。
「ハアン。それで?」
「なんも。だって、相澤の真意がわかんないんだもん」
「真意って、オマエ。好きって言われたんだったら、それしかねえって」
「だって、期待しちゃうのも嫌で」
「期待すればいいダロ、相澤がそんなジョーダン言うと思うか?」
「それは……そうだけどさあ」
だって、だってって子どもじゃあるまいし、と相変わらずなオーバーリアクションで山田が返す。
週末、たまにこうやって相談をしたり他愛もない話をしながら、お酒を飲んでいる。集まるのはいつも外で、山田は私の家には絶対に上がらないし、私も山田の家には行かない。軽そうに見えて、その辺の線引きはしっかりしているやつだ。
「オマエも大概、めんどくせーヤツだよなア」
「いろいろありすぎてめんどくさいヤツになってしまいましたよ。相澤が生きて教師してるだけでもう十分な気がしてきた」
「オイオイ、アイツの告白無かったコトにすんなヨ」
「じゃあ私が相澤に好きだって言ったらどうなんの」
「ハッピーエンドじゃねーの?」
「そうかなあ」
付き合いの長い山田が言うのだからきっとそうなのだろう。けれど私は、上手く飲み込めないでいた。
送る、と言った山田の申し出を、考え事をしたいからという理由で断った。
駅を出て、しばらく歩くと、私の好きな街に着く。長く真っ直ぐな道はこの時間人通りは少ないが、家々から漏れる明かりがあたたかい。明日は晴れの予報だったが、十三夜月は霞がかり、空気も僅かにしっとりとしていて雨の気配がする。
考えてみれば、相澤が好きだと言った時、彼も私と同じことを思ったのかもしれない。相澤が隣を歩く帰り道は、穏やかだ。それなのに、とくんとくん、と静かに胸は高鳴って、いろんなしあわせを噛みしめながら歩いている。相澤とはもう深く交わらないと思っていたからだ。知らない間に、近くに、今度はあの瞬間を相澤が感じたのかもしれない。憶測にすぎないけれど。
「だったら、ハッピーエンド、なのかな」
一体、私はどうしたいのだろう。何を臆病になっているのか。私の気持ちは、ただのわがままだからだろうか。それは数年前のことで、今は違う、と思う。じゃあ、この苦しさはなんなのだろうか。
星も見えない空を眺めながら、とぼとぼと歩く先に、コンビニの明かりが目に入る。住宅街にポツリと建つコンビニは、その場所だけふんわり発光しているようだ。その光の中から人が出てきた。
猫背で頭から足の先まで真っ黒。のそりとしているのに隙がない。あれは、相澤だ。
思わず足が止まる。今は顔を見れない。苦しさの理由がわからないからだ。相澤の背中が光の外に出るのを待って歩き出した。帰り道は一緒、真っ直ぐ一本道。先に私のマンションがあるから相澤が通り過ぎれば、会うこともない。
と、思っていたのに。
「今帰りか」
ひとつ先の街灯の下に相澤はいた。
「あ、い、ざわ」
「山田のところか」
名前を呼ぶだけで精一杯なのに、相澤は再び立ち止まった私へと近づいてくる。
「そう、だけど」
「アイツには言えて、俺には言えないのか」
「どうしたの、急に……」
なんで今、そんな顔をするの。
「あ、ほら。ビール、ぬるくなっちゃうよ。帰ろう」
「かまわねえよ」
どうしよう。今は多分、ダメだ。きっとお互いに良くない気がする。
「俺は、ただ返事が聞きたいだけだ」
らしくない言葉が降ってくる。苦しい。
「今、そんな気分じゃない」
「一言でいいんだ」
「じゃあ何、私もジョークみたく、あんなこと言えって?」
間違えた。
「んだよ、それ」
「ごめん、帰る」
「待ってくれ」
苦しくて、逃げたいのに相澤の言葉が、脚を縛り付ける。あんなに柔らかく好きだと言ったのが嘘のようだ。ゆっくりと吸った空気は重く、雨の匂いが濃い。私が今ここで何を言ったって、ハッピーエンドなんて程遠い。たとえ、好き、と返したとしても。「なーんでオマエら、そんなに拗らせちまうかねえ」とため息混じりに言った山田の言葉がふと浮かぶ。深すぎて、絡まってしまったのかもしれない。
「……雨、降ってきたね」
ぽつりぽつりと手の甲に落ちた雨粒は、気付いた頃には、サアと音を立てて降り出した。
「……呼び止めてすまなかった。帰ろう」
「うん」
足音は、二人分。けれど、並んで歩けないのは、今日が初めてだった。マンションのエントランス前で、相澤が「じゃあ」と言う。濡れたままにするなよ、と言った顔は、いつもの相澤だった。エントランスのひやりとした空気に、薄着に染みた雨が冷える。つま先の濡れた靴下が気持ち悪い。早く家へ帰り着きたいのに、静かに上がるエレベーターは、やけに遅く感じた。
嫌でも思い出してしまう。あの苦しくて悲しそうな、感情を曝け出した相澤の顔や声を。ひとを好きになることは、こんなにも苦しいものだっただろうか。いや、私たちはすれ違っているから苦しいんだ。どちらか一方ではなく、お互いに近づけば、もしかすると。これも憶測でしかないのだけれど。
『で! なんで俺に電話すんだヨ! そこは相澤の家にピンポンな展開だろオ?』
「だって、私、嫌なこと言った」
『オイオイオイオイ、オイ! この後に及んで、まーただってカヨ』
シャワーを浴びたあと、スマホを取った手が勝手に山田のアイコンをタップしていた。
「間違ったの、言葉」
『ソレ、相澤も言ってたぜ。間違った、って。マジでそっくりジャン』
あとはタイミングなんじゃねえの、と山田は言って、電話を切った。
相澤も間違ったんだ。
「……タイミング、って今、なのかなあ」
でも、また間違えてしまったら、もう今度こそ隣を歩けなくなるかもしれない。それはとても、こわい。相澤への気持ちを手放すなんて、私には一生無理だ。このままだときっと、そうなってしまう。せっかく近づいたのなら、謝るなら、早いほうが、いい。と思う。
私は着替えて、家を出た。傘を持って出たのに雨は止んでいて、湿度の落ちた冷たい風が頬を撫でる。自然と早足になった踵には、濡れたアスファルトから跳ねた水が当たった。髪を乾かし忘れた。服もその辺にあったのを着てしまった。ぐちゃぐちゃだけれど、気持ちはさっきよりは幾分すっきりしている。
息を整えて、相澤の家のドアの前に立つ。相澤の家を訪ねるのはこれが初めて。もう一度深呼吸をした。インターホンへ人差し指を添えて、あとは押すだけ。
…………押した。こちら側の音が鳴って、部屋の中でも呼び出し音が鳴る。近づく足音に、タイルが擦れる音、開錠する音。そして、ドアがゆっくり開く。
お風呂上がりなのか、ふんわり石鹸の香りがする。アイパッチをしていない右目が長い前髪の隙間から覗く。義足も隠すことなく、そのまま。相澤は、身近なひとには意外と無防備だ。
「どうした」
「連絡もなく来てごめん。さっきはごめんなさい。今、言わなきゃダメな気がして」
「とりあえず、上がるか」
頷く私に、ドアをひとり分押し開く。相澤の腕の下をくぐるよう、玄関へと入った。
「濡らしたままにするなと言っただろう」
廊下の明かりの下で私を見下ろした相澤が呆れた顔をして言った。
「あ、いやこれはシャワー浴びたあとで、乾かし忘れて」
「まったく、こっちおいで」
乱れた前髪をいまさら整える。中へと通されると、あまり物のない部屋の隅で繋がったままになっていたドライヤーの近くに座らされた。乾かせってことかと相澤の方へ振り返れば「前を向いてろ」と言われた。
「自分でするよ」
「いいから」
ドライヤーの温風と、優しく髪を梳く相澤の指が心地よい。
「相澤、ドライヤー持ってたんだね」
「ん? ああ、一応な」
「……さっきは本当にごめんなさい、嫌な言い方した」
「いや、俺も。イラついて八当たりした、ごめんな」
風音の中でも相澤の優しい低い声は、はっきりと届いた。
相澤も八当たりとかするんだ。らしくないとか思ったけれど、まだ知らないこともあるんだな。
おそらく自分の時はこんなにしっかりと乾かしていないだろうと思うくらい、頭を撫でるよう丁寧に丁寧に乾かしてくれた。カチリとスイッチを切る音がして、部屋がシンとする。けれど、私たちのまわりの空気はあたたかい。
「あんな風に聞きたかったわけじゃないんだ」
「うん。髪、ありがとう」
「どういたしまして」
相澤は、コードを抜き取って束ねまとめたドライヤーを隅へ置き、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを2本、持って戻ってくる。寮の部屋より少し広いくらいのリビングには、窓の側の壁にデスク、真ん中にローテーブルとゴミ箱、床には充電のコードと転がったドライヤーがあった。殺風景と言うのだろうが、私は相澤ぽい部屋だと思った。
水くらいしかないけど、と渡して右隣に座る。
「ありがと。さっきのビールは? もう飲んだ?」
「いや」
「そうなんだ。私に気にせず飲んでいいからね、って押しかけといて言うのもあれだけど」
「……おまえの家に行ったんだ。留守だったから寄っただけ」
そっか。だから相澤は怒っていたのか。私が勝手にジョークとの会話に嫉妬しているように、相澤も。その胸の苦しさ、痛いほどにわかる。
「ごめん。でも山田とはそんなんじゃ、」
「わかってるよ。これは俺の問題だ」
「違うの、私も、その、わかるから。ジョークのあれ、とか」
「は? いっつも山田と知らん顔してたくせに」
「だって、冗談でも好きな人が求婚されてるのは見るの、つら、い。……あ、」
言ってしまった。つい、うっかり、ぽろっと。相澤の見開いた三白眼も、あ、と言いたげな顔をしている。
「山田が言ってたんだ、なんでオマエらそんなすれ違ってんのか、って。想い合うのも行き過ぎるとよくないぜ、ってな。まったく、その通りだよ」
「私も、同じこと言われた。私たち、そっくりだって」
「順序、間違ったな」
「ね。気づけただけでもすごい、よね?」
相澤は、そうだな、と言って、ふわりと笑った。
「あの時、ふと、どうしても言いたくなってな。ひとりじめ、じゃあないが、なんと言うか、その、わがままみたいなもんだ」
「うん」
わかる気がする。私も同じだったから。
「……好きだ」
ペットボトルで冷たくなった指先が私の頬を撫で、丁寧に乾かしてくれた髪をそっと掬うと、そのひと束に唇を落とした。
「大事にする。返事を聞かせてほしい」
顔を上げた相澤と目が合う。胸が、きゅうと締め付けられる。これは今までとは違う苦しさだ。鎖骨辺りがむずむずして、甘苦い気持ちが湧き上がる。笑いたいような、泣きたいような、複雑だけれど嫌じゃない。いつまでも覚えていたい感覚。
「好きだよ。私も、相澤が好き」
「ああ、嬉しいよ」
相澤は微笑んで、優しいキスをした。
ハッピーエンド、と呟いた私に、相澤は「これから、だろ」と言ってもう一度唇を重ねる。そうか、私たちはこれから始まるんだ。そう思うと、とてつもなく嬉しくて、しあわせで、今度は私からキスをした。
甘い余韻を残して、唇はゆっくりと離れる。
ふたりの呼吸が、静かに重なった。
もう、言葉なんていらない気がした。
けれど、私たちは似ていて、すぐにすれ違ってしまうから、大切の理由を忘れないよう今度はちゃんと話そう。雨上がりの夜は、きっと全て受け止めてくれる。私たちの今までも、彼の言う、これから、も。
write 2025/5/14 イベントにて展示