深夜二時の誘惑
終わらない。
効率が悪いとか、量が多いとかじゃなく、ただただ時間がない。
焦っている。この部屋にはアナログ時計はないのに、チッチッチッと秒針の音が聞こえてきそうだ。赤で横線の引かれたto doリストのいくつかの項目に全く進んでいないわけじゃないのだからと自分を励ましつつ、手と頭を必死に動かす。
エアコンのゴウという力強い風量の音と、キーボードを叩く音、私の小さなため息の以外の音が、玄関から聞こえた。
彼が帰ってきたようだ。携帯へ届いた『ヒーローしてくる』と急いだような文面の後、『今日は遅くなる、すまん』と律儀な一言を目でなぞり、彼の安全を願う言葉を送ったのは、夕方と夜の間あたり。
深夜だからか、私の睡眠のためか、からだの大きな彼が出しているとは思えない静かな生活音は、彼の優しさのようで心地よい。焦りでぎゅっとなっていた心が不思議と緩んでいく。
こんなところでヒーローしなくても、と私の中のヒーローに笑いかける。
ため息をこぼさず、リストへ二つ目の赤線が引けたとき、シャワーの音が止まった。
お風呂から上がった彼が、廊下を進んで、また戻ってくる。私の部屋の前で止まる。控えめなノック音。
「ただいま。寝室にいないから驚いた」
髪が濡れたままの彼が、ドアの隙間から覗く。
「おかえり。仕事してたの。遅くまでおつかれさま」
「ああ、おつかれ。邪魔したか」
部屋やデスクに散らばったノートや資材、ボツになったものたちを、今日もクマの濃い三白眼がくるりと見渡す。全然だよ、と言うと、「そうか
、ならいいんだが」と言って、髪を乾かしに行った。
彼はドアを閉める前、また来る、と言った。生活音は心地よいのに、顔を見てしまったからか、しばしの別れが寂しく感じる。23時頃に入れたマグカップの中身はすっかり冷えていて、ニットのコースターも寒そうだった。散らかった部屋を少し整えながら待った。
「お待たせ」
今度はノックもなく、髪がふわふわになった彼がドアを開けた。手には乳白色の小さな買い物袋。
「帰り買ってきたんだ。一緒に食わないか」
「え、なに? 甘いやつ?」
歩み寄った私に、彼は「甘いやつ」と言って柔らかく笑った。つられて笑った私の頬をふにふにと抓って、彼はまた、ただいま、と言った。ぎゅっと抱きついて、おかえり、と返す。ちゃんとしっかり二人、素に戻ったようだった。
エアコンを切って、携帯をポケットに入れ、マグカップを持つ。電気を消して部屋を出た。
「それ、なに飲んでたんだ?」
「ココアだよ。集中力高めてくれるとか? あ、寝る前に飲むとよく眠れるってやつもあるよ」
「へえ。色々あるんだな」
「何飲む? こんな時間だし、カフェインレス?」
キッチンでお湯を沸かしつつ、飲み物が入っている引き出しを開け、紅茶の缶やコーヒーの箱を手に取って見てみる。
「ココアにしようかな」
「わ、意外。消太くんがココア飲むなんて」
「たまに飲みたくなるんだよ」
「甘いやつに甘い飲み物、この時間には背徳的だねえ」
せっかくだから、とミルクで練って丁寧に入れた。
リビングに置いているこたつに、ココアを入れたマグカップを二つ、彼が買ってきたチョコレートのロールケーキを二つ、スプーンを2本並べた。ロールケーキのパッケージには黄色と赤の派手な値引きシールが貼ってあって、時間外感が増す。
「もし私が寝てたら消太くん一人で食べたの?」
生地の真ん中にたっぷり入っている、チョコ味の生クリームに乗ったフィルムを剥がす。
「いや、寝る」
彼もフィルムを剥がして、パッケージの上に置いた。スプーンで生クリームを掬いながら「で、朝一緒に食う、かな」と言った。
私は周りの生地を1センチほどスプーンの先で切って、口へ入れる。
「一緒に食べたかったんだね」
「うん、そう」
「どうしても食べたかったら起こしていいからね」
「ケーキ食うぞ、起きろって? 夜中に?」
「んふふ、夜中に。ポテチでもいいよ、多分ステーキとかカレーとかカツ丼でも大丈夫」
彼は、「ははは」と、ふにゃりと眉を下げて楽しそうに笑った。触れ合っていた肩が小刻みに揺れている。こたつの中で脚が絡まる。嬉しくて、温かい。私も彼のヒーローになれているだろうか。
「ココア、美味いな」
「うん、ケーキも美味しい。ありがと、消太くん」
「俺のほうこそ。ありがとうね」
きっと互いにしか癒せないものなのだと、瞼も頬もとろける、深夜二時の誘惑。
write 2025/2/6