7話 人の話聞いてます?
〝相澤消太〟が私のことを好きって言った。
連続して聞こえる水を弾く音に乗ったそれは、同じように耳の奥で何度もリフレインする。
行きも帰りもお世話になったタクシーの運転手さんは、私たちがこんな話をしているからか始終存在感を消してくれていたのに、そんな運転手さんを咳込ませてしまった。さらには「いやいやすみません、大事なお話中に」と謝らせてしまい、「こちらこそすみません」と私たちも声を揃えて謝った。
「べ、別に今言わなくても」
「今言わなくていつ言うんだよ」
お互い自然と声が控えめになる。そのせいか、彼の肩がこちら側へ僅かに傾いた。
「初めて言われた気がするんですけど」
「そうだな。初めて言った」
「覚えて、おきます、とりあえず」
「そうしてくれると助かる」
これで終わった会話は再び始まることなく、雄英へ着くまで相澤先生は腕を組んで窓の外を眺めていた。
はっきりさせられた彼の気持ちを私はどう処理したらいいのだろう。靄のかかった頭はすっきりもしたし、私の部屋で眠っていた理由も、きっと部屋の前で立っていた理由も解決した。自分にも非があったからか、不思議と腹は立たなかった。
それに一度に色んな面を見せられて戸惑っていたし、気付けば目で追っていた。胸が騒つくこともあった。面倒くさがりで、自分のことになると、まあいいか、で済ませてしまうのに忘れられなかったのは、過去の私が彼を知りたかったからだろうか。
今はどうだろう。
知りたい? 昔ではなく、今の彼を。
結局は持ち帰ることになったではないか、と気付いたのは全てが終わってベッドに入った時だった。彼の気持ちを持ち帰って、眠れるはずがなかった。穏やかな寝顔、真っ直ぐ押された印鑑に、綺麗に平らげられたどんぶり、深くて静かな瞳、低くも柔らかい声。知っていく、重なっていく。告げられなくとも、戻れないほどに〝相澤消太〟は私の中で大きくなっていた。
「付き合ってって言われたわけじゃないし、返事もなにもないよね。私の気持ちは昔のことで今は、」
タクシー内で聞いた声も、見た表情も、過去の私が欲しかったものでしょう? だって、今、欲しがる理由がない。今の私は、彼が私の部屋で二度も眠っていたわけを知りたかっただけだ。
遮光性のない薄いカーテンを透かす月明かりは、彼が眠っていた床を淡く照らす。このぼんやりと輪郭のない気持ちはどうすればいいのだろう。知ってしまった〝相澤消太〟と、今の〝私〟が重ならない。泣きそうなほどに優しい光に包まれて、その日は胸が苦しいまま眠った。
それでも雄英へ赴任して染みついた規則正しい生活は、私を時間通りに目覚めさせた。
日曜は当然学校は休みで、寮のある敷地を進み、校舎の前を過ぎればシンと静かだ。雨が去って、今朝の気温はぐっと冷え込んだ。息を吸うと鼻の奥がツンとする。もう何度か雨がやってきて冬になるのだろう。厚手だけれどローゲージのカーディガンは隙間風が寒い。けれどこの肌寒さが、まだ少し眠かった頭をすっきりさせてくれた。
早朝の散歩も悪くない。薄らと黄色い太陽はまだ熱を届けてくれず、木々や草花の朝露をただ美しく輝かせている。ちょっとだけ世界が綺麗になったようだ。
ゆったりと遊歩道を歩いていると、低木の傍に黒い影が見えた。このまま引き返すのも避けているようで、平常心を装いながら近づいてみれば落ち葉の入ったゴミ袋だった。しまい忘れか、捨て忘れか、黒い影はいつだって全く心臓に悪い。
「もう、びっくりした。よく考えたら日曜の朝から相澤先生がこんなとこいるわけないじゃん」
遊歩道から低木を越えて芝生内に入る。ぎっしりと落ち葉が詰められた袋の口を縛りながら、ため息混じりに呟いた。はあ。もう一度大きくため息を吐く。このため息の理由は一体どちらなのだろう。吐きすぎて幸せが逃げそうだ。
ビニール袋を持ち上げると中でカサカサと葉が擦れ合う音がする。水分を失って軽そうなのに、意外と重い。
「俺に何か用か」
これは校舎近くの倉庫に持っていけばいいのだろうか、と幾つか思い当たる場所を脳内でマッピングしていると、突如気配なく声がした。
「ひゃあ!!」
情けない声を上げ、後ろを振り返れば、ジャージ姿の相澤先生が首に掛けたタオルで額を拭きつつ遊歩道に立っていた。
「あ、相澤先生! おはようございます」
「おはようございます。で、何か」
スルーはしてくれないのか。
「……このゴミ袋がそこにあって、先生に見えたんです。よく猫ちゃん撫でてるの見かけるから」
「まあ、落ちてるゴミ袋を猫と見間違えることはあるが、そんなに俺のこと探してたのか。今度は覚えててくれて嬉しいよ」
いつもならば隙間から覗く表情の一部を間違い探しのように見つめていたのに、前髪は分けられ、後ろでお団子で括られた髪型は、にこりと微笑んだ顔を余す事なく見せてくる。それに朝日に汗が光って、キラキラしている。相澤先生がキラキラして見えるなんて、どうしよう。仏頂面しか見たことないとか言っていたついこの間までが信じられないくらいだ。
「ち、違います! ただの散歩の途中です! この先、キンモクセイあるでしょ? もうそろそろ散っちゃうと思って」
「ふうん、そう、じゃあこれは俺が。向かうところに置き場所があるんで」
そう言って私からゴミ袋を奪い取ると、軽々と持って走り去ってしまった。彼が連れてきたキンモクセイの匂いも一緒に。
「自分は言ったからってすっきりした顔して。はっきり言うのも、言わせるのもずるい」
ずるい? 何がどうずるいのだろう。私だって本当のことを言っただけなのだから、ずるいも何もないはずなのに。変だ。ドキドキしている。昨夜の胸の苦しさを甘酸っぱくしたような、ふんわりと香るキンモクセイの甘い匂いに似たような、少しだけ泣きたくなるような。乾燥し始めたこの季節にはあまりにも瑞々しくて胃が痛くなる。
月曜日。私と相澤先生が授業のことで立ち話をし別れた後、それを見ていたミッドナイト先生から「ワタシの出る幕なかったわね」と声をかけられた。相澤先生は普段の先生だったし、私も仕事中なのだからいつも通りだったはず。おかしい。
火曜日。マイク先生とラジオの話をしていると、相澤先生が「これをあげるから向こうで休憩したらどうだ」とチョコをくれた。じゃあ俺も、と席を立ったマイク先生には「お前はこの書類のミスを直してからだ」とプリントをデスクに置いた。あからさまだ、とさすがに思った。
水曜日、食堂で昼食をとっていたら、隣に相澤先生が座った。何も言わず、ただ私が食べ終わるまでそこに居た。胸は苦しかったけれど、嫌じゃなかった。
木曜日、今日。午前最後の授業から戻ると、デスクのパソコンのディスプレイに黄色い付箋が貼ってあった。
『帰寮後、共有の冷蔵庫の中 要確認 相澤』
業務内容のような付箋をそっと剥がして、一番上の引き出しにしまう。癖のある小さめな文字は何度も見たことがあるのに、なぜだか嬉しくて頬が緩んだ。就業時間まで相澤先生と話す機会はあったけれど、お互い付箋の内容については話さなかった。
帰ってすぐ、手を洗って冷蔵庫を開けてみると、真ん中の何も置かれていない段にシュークリームが置いてあった。コンビニに売ってある大きなダブルシュークリーム。手に取ってみれば、朝貼られていたものと同じ黄色の付箋が貼ってあって、相澤先生の字で私の名前が書いてある。むず痒い。それを捲った二枚目には、『牛丼と片付けのお礼だ。ありがとう』と書いてあった。
「え、なに、ふつうに嬉しい。こんなことするの、相澤先生って」
カスタードでも生クリームでもない、私の好きなダブルクリーム。しかもカロリー爆弾かと思うほどに大きい、昔からたまにご褒美で食べるやつ。お風呂上がりに、とも思ったけれど緩んだ顔が戻らなくて、この気持ちのまま食べたくて、コーヒーを淹れて座った。
「へへ、えへへ、いただきます」
じゅわっと柔らかいシュー生地を齧ると、歯がバニラビーンズの入ったもったりと濃厚なカスタードクリームに当たった。よく冷えていて味わうほどに甘さが口の中に広がっていく。美味しい。生クリームの方も早く食べたくて一口分右に回して齧る。まだカスタードだった。でも美味しい。これ相澤先生が買ったんだよね、どんな顔で買ったんだろう。気になる。シュークリーム買ってる先生、見てみたい。右に回してもう一口。運良く生クリームを引き当てた。こっちはあっさりした甘さで上品だ。とろんと溶けて美味しい。これだからダブルクリームはたまらない。
「ふっ、……百面相」
次は名の通りダブルクリームを、と境目を大きく含んだところだった。顔を上げると、ダイニングテーブルの先にあるソファの背もたれ部分に腰掛けた相澤先生がいた。
「んんっ、あいわわへんへい! いふはらほほに!」
口いっぱいに入ったクリームを溢さないよう手で隠したが、もう片方の手は思わず力が入ってクリームが、もにゅんと飛び出してしまった。
「落ち着け、溢れるぞ」
そう言って近づく彼に頷きつつ、コーヒーを啜る。笑ってる。意外とよく笑うんだな。
「これ、ありがとうございます。いただいてます」
「ん」
「あ、先生もコーヒー飲みます?」
立ちあがろうとした私の肩に軽く手を置いて、「いいよ、自分でやる」とキッチンへ向かった。触れられたところがじんわりあったかい。背中に感じる、彼の丁寧でたまに荒っぽい生活音が心地いい。しばらくして、マグカップをコトリとテーブルに置き、私の横に座る。
「どうしていつも私の隣に座るんですか」
「嫌か?」
その返しはずるい、と思いながらも首を横に振った。
「どうして私の好きなもの知ってるんですか」
質問ばっかだな、と彼はまた笑った。下がった目尻が優しくて、このままでは見つめてしまいそうで生クリーム側を一口齧る。
「言っただろ、全部知ってるって。まあ、覚えている、が正しいか」
「じゃあ毛布の畳み方も?」
「そう」
「酒癖悪いのも、記憶力が乏しいのも、適当でめんどくさがりなのも?」
〝相澤消太〟から貰ったシュークリームには素直になる魔法でもかかっているのだろうか。
「ああ」
「私に甘くないですか?」
「惚れてるんだから仕方ないだろ」
「惚れる要素がわからない」
「いいんだよ、俺がわかっていれば。そういうもんだろ」
私だって、わからないけど惹かれる。どこが、と聞かれて正直に答えれば、多分〝相澤消太〟も眉をひそめるだろう。
「……そういうものかも、しれません」
彼は、だろ、と言ってコーヒーを啜った。
そう思ってしまうということは、今の私もきっと、おそらく昔以上に。
「なあ、俺の部屋にまだ買った残りが幾つかあるんだが、食うか?」
「え、あ、はい」
言われるまま席を立ち、食べかけのシュークリームとマグカップを持って彼に着いていく。私の部屋と同じ階のエレベーターを挟んで反対側の塔。いつもと逆に曲がるのは変な感じ。『相澤』と書かれた表札のドアを相澤先生が開ける。どうぞ、と促され何も考えずに入ってしまった。
「お前ねえ、そんな簡単に男にほいほい着いていくなよ」
「ちが、誰でもいいわけじゃ、……ないんですからね」
カチャンと閉まったドアに今更、かあっと顔が熱くなる。やっぱりこのシュークリームには何かあるみたいだ。
「それに私、まだ戸惑ってるんですから」
「俺が好きだと言ったことか?」
首を振った振動で片手に持っていたコーヒーが波打つ。それに気付いた相澤先生は、マグカップをそっと受け取って自分のものとデスクへ置いた。シュ、シュ、というスリッパを擦って歩く音が部屋に反響する。壁に寄り掛かって動かない私の隣に戻ってきた。
「そうですけど、そうじゃないです」
「わからん」
そんなに握りしめると潰れる、と言って食べかけのシュークリームを冷蔵庫の中へしまった。思い出してしまったからこそ、そういうところにも戸惑っている。そんなに優しいひとだったっけ。
『俺といたって、幸せにはなれないだろ』
「確か、前はそんな風なことを言ったんですよ。好きとは真逆じゃないですか」
そして、『そんな顔を見たかったわけじゃない』と続けたはず。
「あの時の私も何故かそうだよな、なんて思っちゃって。そうしたらもう会わなくなって。昔の相澤先生がどうしたかったのか、今もどうしたいのか、不覚にもときめいてしまったけど私自身もどうしたいのかわからなかったんです。今回だって元彼と話してるのを見て嫉妬したのが始まりでしょ? 彼が来なかったら何もなかったわけでしょ?」
また隣に戻ってくる。話を遮ることなく聞いた彼は、私の目を見て「違うよ」と静かに言った。
「二年も空いたのに?」
「何もないから、今度はゆっくり始めようと思ったんだ」
「え、二年もかけて? あの、相澤先生、人を好きになるってわかります?」
「そのくらい」
こういう事だろ、と口付けた。
ポケットへ入れた手はそのままに背中を丸め、軽く触れたキスは少し手慣れているようでムッとしたけれど、小言を言った私への仕返しだと思うことにした。
「じゃあ、今度は一緒に幸せになってみますか」
「ああ」
「あい、えっと、し、消太も何か言ってよ」
「好きだよ。俺と付き合ってくれ」
私は、返事の代わりに背伸びをしてキスをする。
彼は、「ちゃんと言ってくれないとわからないだろ」と言って、もう一度私の口を塞いだ。