6話 忘れてください
「付き合ってたんだよな、俺たち」
そう言われたのは出張帰りのタクシーの中だった。思い出した後だったからか驚きはせず、ぐるぐると回っていた幾つかのことが重なっていくことに、あの日からずっと忙しかった感情が落ち着きを取り戻していた。
けれどもあれはそういう関係だったのか、と見たこともないほどに深い眼をした〝相澤消太〟から発せられた言葉にチクリと胸が痛んだ。
駅近くや大通りの変わらない街並み。パトロールしていた路地裏。よく休憩に使っていた事務所の外階段の踊り場に、少し狭い会議室。懐かしい場所を見て、歩くと、この様々な風景にあの黒いコスチューム姿が薄らと浮かぶ。それは徐々に濃くなり、行きのタクシーの中、静かに頷いた今の彼と重なっていった。
私はこの街で彼と出会っていた。もう十年近くも前のことだから記憶が所々曖昧で、合っているかはわからないけれど。
勤めていたヒーロー事務所に短期契約していた、何処にも属していない独立独行のイレイザーヘッドは、ヒーロー名鑑にもヒーロー名とコードネームしか載っていない謎の多いヒーローだった。彼自身も自分のことを話す人じゃなかったから、気になってこの本棚から名鑑を手に取り、何度か同じページを捲った。
手入れされていない伸び放題の髪と無精髭で見た目では年齢不詳だったが、会議中の生意気そうな話し方に青臭さを感じ、勝手に同じくらいの歳だろうと思っていた。なんでも一人でやってしまいそうで、その危なっかしさを所長に注意されていた。そう、この少し狭い会議室の角に置かれた観葉植物の隣で。
少し風景は変わっていたけれど、外階段の踊り場は見晴らしがよく、相変わらず風が気持ちよかった。
「ここで一緒に休憩しました、よ、ね?」
「ああ、そうだな」
契約は三ヶ月ほどで、夏の終わり頃から冬になる前までだった気がする。どうやってそういう流れになったのかは忘れてしまったけれど、任務後飲みに行って、そのままはっきりしない関係になった。若かったとはいえお互い大人だったし、私は別れたばかりでフリーだったし、肌寒かったし、こういうのもまあいいかなと思っていた。任務が被った日だけの、それだけの関係。
不覚にも好きになりかけた頃にはもうイレイザーはいなくて、連絡先も知らないからそれっきり。ただただ忙しい日々に戻れば、いつの間にか忘れていたというオチ。だってそうでしょう。たった数ヶ月の間、たまに会っていただけの人なのだから、十年も経てば声も顔も忘れてしまうのが普通だ。
付き合っていた、という彼の言葉に、「みたいですね」と答えると相澤先生の方が驚いた顔をしていた。こんな表情もするのかと見開かれた三白眼を私は見すぎてしまった。決して見つめたわけではない。
「正直、昔すぎて曖昧なんですけど」
「まあ、十年も経てば」
「相澤先生は覚えていたじゃないですか」
「記憶力には自信あるんでな、誰かさんと違って。酔い潰れたりもしないし」
「ひどい!」
それ口癖なのかよ、と手を口元にやり、くつくつと笑う彼は初めて見るのに、一番〝相澤消太〟らしかった。
「みたいですねと言いましたけど、あれは付き合ってた、になるんですね」
「なるだろ」
「そういう認識とは。私はてっきり。まあまあもう昔のことですし、最近の色々もこれでチャラにしましょう」
多分、おそらく、私のことを覚えていた相澤先生は気まずさに避けようとしていたけれど、歓迎会で執拗に絡んできた私を無視することができず話してはみたが、酔った私の記憶はさっぱりで、付き合っていたやつのことを忘れやがって、って感じだろう。その苛立ちが二年間積りに積もって、仕返ししたくなったというところか。うん、これなら色々辻褄が合う。すっきりだ。やっと平穏な日々に戻れる。
けれどこの胸につかえた、飲み込めない苦しさはなんなのだろう。
「てっきりなんだよ。俺が部屋で寝てたこと、気にならないのか」
「だって、思い出せってことでしょう? 思い出したのでもう先生の目的は達成したのでは」
はあ、と大きなため息をついた彼は、「早合点、自己完結」と溢した。私の何を知ってるんですか、と聞くと、全部と言った。
全部とは大きく出たな、〝相澤消太〟。確かにやることはやっていたけれども、それはそれであってこれはこれじゃないか。
「この間雄英で前の事務所のヤツと話してただろ。今日は非番だったな。確か俺の前に付き合ってたヤツじゃなかったか?」
「なんでそんなことまで覚えてんのよ」
あの彼とは事務所で毎日顔を合わせていたし、なにより普通に告白され、普通にお付き合いをしていたわけで、別れた後も普通に一緒に仕事していた。それをそのまま伝えると〝相澤消太〟は「普通、普通って」と拗ねた子どものように下唇を突き出した。
「だから、彼と話していたのと、先生が部屋に入ったのとどう関係があるんですか」
「あ、いや、すまん。今のは自分の不甲斐なさから出たものだ」
はあ、とも、ふう、とも聞こえるような長い息を鼻から出した彼が、軽く頭を軽く振りながらそう言った。
「じゃあどういうわけがあるんですか」
「アイツのことは覚えていたのに、俺のことは思い出す素振りもなくて」
「嫉妬した、ってことですか? え、いや、わかんない。すみません、一旦持ち帰らせてください」
私が何故、彼の眼に胸が痛んだのか。それは、あのどうしようもないと思っていた関係を意味のあるものだと言っているようだったから。でもこれは思い出したからであって、あの真夜中から始まった彼との奇妙な距離とは関係ないはずだ。だから事が解決した今日、まさにこの瞬間から私はまた、生徒の成長を見守る穏やかな日々を取り戻したのだから、胸が騒つくことなんてないはずなのに。
「それお前の悪いところ。持ち帰ったところでなかったことにするだろ。今はっきりしよう」
「なにを」
「俺はお前が好きだってこと」
雄英へと帰るタクシーは、行きの薄灰色の空とは違い、澄んだ青空の下を走っている。乾いていないコンクリートの水分を弾く音がアンバランスで、やけに耳に響いていた。