5話 これだから嫌なんだ
雄英で教師になることを決め、早数年。
雄英で教鞭を振るうのにはそれ相応の能力と志が必要なため教員の入れ替わりはなかでも少ない。ほぼ異動なしと言ってもいい。精鋭揃いと言えば聞こえはいいが、それでは煮詰まってしまうのも確かだ。そこで新しい風を吹かせてくれるだろうと迎え入れられたのが彼女だった。二年前のことだ。推薦したのは誰だったか、会議中に彼女のヒーロー名を見た時は驚いた。この場所で今になって初めて彼女の本名を知ったことに。彼女と再び会うということに。どくんと一つ打った、忘れかけていた胸の高鳴りに。
ここはもう気が張り詰め、死と隣り合わせな現場ではないし、現実に戻るためそういう存在を必要とすることもないのだから、変に態度に出せばお互い気まずくなるだけだ。と思っていたが、実際会ってみれば俺のことなんて忘れてしまったかのような態度。知らぬ存ぜぬを貫くのはそっちか。「久しぶり」と声を掛けられでもしたらどうしたもんかと身構えていた俺が馬鹿みたいだ。
プライベートは目に余るものがあったが、仕事はきっちりやるヤツだ、きっと就業時間になればとも思ったがそれも外れ、なんだか自分が滑稽に思えてきた。彼女がそうするのであれば、俺も同僚として接すればいい。今度は少しずつ今の彼女を知ることにしよう、そう思うことにした。
一週間程経ち、彼女の歓迎会とかで定時早々に仕事を切り上げ、いつもの居酒屋へ向かった。
飲み物とお通しが運ばれれば歓迎の挨拶もそこそこに飲めや騒げやの目を瞑りたくなる光景が広がる。そんな中、俺は隅で付き合い程度で飲むくらいに留めていた。ふと視線を彼女に向けると案の定、ミッドナイトに捕まり撫でくりまわされながら気味の悪い色の酒を飲まされている。止め役の13号ももうベロベロで近くの教員に絡んでいた。日頃の鬱憤を晴らすかのような暴れっぷりにヒーローで教師たちの苦悩を垣間見た気にもなるが、なんで毎回こうなっちまうんだ、とため息が出る。
小さく出したはずのそれが聞こえたのか、面倒な人と目が合った。
「ねえ、イレイザーも飲んでる? めでたい席なんだからどんどん飲みなさいよ!」
「飲んでますよ」
本日納得の出来というカクテルを詰めた酒瓶を持ち近づいたミッドナイトに、嗅いだことのない臭いを放つ泥のような液体を注がれないようグラスに口をつけながら空いたビール瓶を見せつけると「よしよし」と頷いて次のターゲットの元へ移動した。
珍しく存在感の薄い、というより見つからないよう気配を消していたマイクに絡んでいくのを確認し、胸を撫でおろす。
「いれいじゃあ? あれえ、あいじゃわせんせえって、もしかしていれいじゃあへっどれすかあ?」
ホッとしたのも束の間、耳まで真っ赤にして目の座った彼女がするりと隣に座った。あの頃と変わらない香水の香りに、どきりと心臓が鳴る。これはアルコールのせいではない。
「そうだが、覚えてるのか?」
酔った相手にこんな話をしても何の意味もないことなどわかっているはずなのに、匂いのせいで会話を続けてしまった。
「わらし、いれいじゃあのことなーんにも知らなくって、何度か事務所れヒーロー名鑑見たんれすよ!」
水の入ったグラスを差し出すと、酒と勘違いしたのかちびちびと啜る。
「いれいじゃあ、ヒーロー名とコードネーム以外非公表れ、やっぱりなーんもわからなくって……」
捲し立てるよう一気に喋ったかと思えば、ふにゃりとテーブルに突っ伏し肩を震わせた。
泣いているのだろうか。あの時はお互い名前も知らなかった。若気の至りというやつなのだろうが、俺にとってはそう悪くないものだった。気まずさはあれど、また会えて嬉しいと、心の隅のどこかで思っていたのも事実。声をかけられて簡単に揺らいでしまうほどだ。
慰めることくらい許されるだろうかと彼女の華奢な肩にそっと触れようとした時、ガバッと頭を上げ今度は急にケラケラと笑い出した。
「抹消ヒーローイレイザーヘッド! って、アハハハ! なにをまっしょーするんらーって!」
震えていたのは笑っていたからか。何がそんなに面白いのか、口を大きく開けて愉快そうに笑っている。涙を見なくて済んだ安堵感と久しく見る砕けた顔に自然と顔が緩んだ。柄にもなく少々感傷に耽ってしまったのは、アルコールのせいにするとしよう。
「うるさい、静かにしろ」
「ひどい!」
忘れていたわけではなかった、とこの時はそれだけで十分じゃないかと阿呆のように笑う彼女を見てそう思った。
だが俺は彼女が酔うと記憶をなくすタイプのヤツだというのをすっかり忘れていた。
翌日以降、気まずさに距離が空くこともなければ、同僚以上の会話もない。何故こうも俺だけが掻き乱されなきゃならないんだと僅かに腹が立つ。酔ったヤツの言葉に期待してしまった、どうかしている自分自身にも。
それから進展すらなく、停滞、寧ろ停頓している。何故なら連携の手続き等で彼女の勤め先だった事務所のヒーローがやってきたからだ。俺の記憶だとその元サイドキック仲間は元彼というやつで、まさに今も仲良さげに思い出話に花を咲かせている。
「きみに教師が務まるのかと思っていたけど、なかなか様になってるね」
「まだまだだけどね〜、生徒に教えてもらってばっかだよ」
聞き耳を立てていなくとも聞こえる会話に目を瞑る。
「たまには顔見せに来いって言ってたよ、所長も、みんなも。俺も会いたかったし」
「そう? じゃあ今度、」
やめてくれ、そういう会話はどこか聞こえないところで、いやそれも嫌だな。というか用事が終わったなら早く帰ってくれ。
「おいイレイザー、貧乏ゆすりやべえって、俺のデスクまで揺れてンだケド」
わざとらしく体を小刻みに揺らしながらマイクが話しかけてきた。
「顔怖えよ、どした?」
「……どうもしてない」
しつこく覗き込むトサカがパソコンの画面を邪魔をしだし、仕方なく無意識に動いていた脚を組んで揺れを治める。
嫉妬、しているのか。しているんだろうな。再び現れた彼女の存在に心を掻き乱されている時点で俺はまた彼女のことが気になっているということだ。パソコン越しに見える奥行きにため息が出る。それはぬるくなったコーヒーの水面に消えた。
俺も、彼女と話をしたい。
残業中に入った緊急招集へ赴き、帰寮後シャワーを済ませ、重い足取りで自室へ戻るところだった。日中の光景が脳裏に過ぎる。一言だけでも何か話せればと彼女の部屋のドアを叩いたが、時間が時間なだけに反応はない。現場へ向かう前、彼女にとって様々な元がつく彼が、このドアの先へ入ったと耳にした。全室同じ間取りだが、そういうことじゃない。ひやりと冷たいドアノブに手が伸びる。
彼は過去、俺は頑なに入れてもらえなかった家へも招かれたことがあるのだろうか。用が済んだあとも声をかけ、未練たらしく会いたいとまで言った彼は。未練たらしく、ってどの口が。まだ言葉にしている分、彼の方が健全だろう。
金属の冷たさほどでは俺を冷静にできなかった。
顔を見るだけ、そう思っていたのに。
「だからって勝手に部屋に上がり込んで寝るなんてやばすぎるだろ……」
肩まで掛けてあった毛布を畳み、俺がいた痕跡を消して彼女の部屋を後にしたのは午前四時。どういった思いで毛布を掛けてくれたのかはわからないが、それはとても温かかく、判断が鈍るほどだった。
だが三度目は流石に無い。自分の気持ち悪さに引く。謝ろうと何度かドアの前に立ったが、彼に嫉妬した、とは言えるわけがなく、やめた。
それから幾らか視線を感じるようになった。俺の行動を不審に思い、警戒する目。同僚を抜け出すには良いと思ったが、それではやはり意味がないし警戒されてしまっては弁明する機会もうかがえない。というか何処から言えばいいんだ。重なるどころか差が広がっていく。
好機が訪れた。いや、そういうものは自ら掴んでいくものかもしれない。
一度目は彼女が作った牛丼を食わせてもらった。探り合いをしたからか、それ以来会話が増えたように思う。二度目は鳴羽田にある彼女が勤めていたヒーロー事務所へ赴くため彼女と二人、外出することとなった。先に声がかかったのは彼女だったが、世話焼きな先輩の一声で同行が決定した。珍しく異論を唱えない俺に周りは騒ついたが、知ったこっちゃない。
タクシーの外は雨が降っている。あの時も確か、今日のような静かな雨が降っていた。
さらさらと音が無いからか、それは長く続いていっそのこと一気に降り落ちればいいものをと思うほどで、けれどもその雨があったから彼女を知ることになる。
喋り方や仕草、仕事に打ち込む真剣な眼差しが好きだった。それは今も変わらない。また会えて嬉しいよ、とただ伝えればいいじゃないか。だがそう上手くいくなら最初から悩んではいない。くそ、格好悪いな。
――もしかして何度か私の部屋で寝ていたことと関係ありますか。
彼女の、俺を見る眼がまた変わる。奥を覗くような、質問した答えの向こう側を探している、そういう眼をしていた。言葉にすれば邪魔をしてしまう気がして、頷くだけの返事をする。
いつの間にか空は晴れていた。
卒業後、定住せず各地を転々としていたあと戻った地元は、休む暇なく次々とヴィランが現れるほど一時期治安が悪かった。壊されては修復し、少しずつ変わってしまった街並みは、また何処か変わっていた。だが懐かしい所も残っていて、彼女が「ここで、」と溢す。見つかったのか、と淡い期待を抱いてしまう。
所用を済ませ事務所から出ると、すっきりと遠い空の空気は水分を僅かに残しひんやりとしていた。日差しの入るタクシー内の温度がちょうどいい。
「私、イレイザーのこと、ちゃんと知りたかったんです、多分、きっと」
真っ直ぐ前を向いたままの彼女が、ぽつりとそう言った。
「知ってた」
「ひどい、ですね。やっぱり。イレイザーは」
「付き合ってたんだよな、俺たち」
どうかまた廻り始めてくれ、と願い出た言葉は情けないほどに女々しかった。どこまでも格好つかない。それに返す彼女の言葉は口癖の一言だけだった。