4話 そんなのわかるわけがない
雨。
外に出るまで気づかないほどに静かな、さらさらとした細い雨が降っていた。太陽の光を透かす薄い灰色の空から調整されたように少しずつ少しずつアスファルトを濡らしている。優しいけれど鬱陶しい、冬の準備をしている秋の空だ。
移り変わる気配を感じる余裕はある、とどこかホッとした気持ちで窓に張り付いた雨粒が流れていくのをタクシーの中から見ていた。
あれから、――〝相澤消太〟が牛丼を食べた日から――しばらく経った土曜日、高速道路を走って一時間程の距離にあるヒーロー事務所へ向かっていた。私が以前勤めていた事務所で先日の返事をするためだ。有ろう事か相澤先生と一緒に。業務以外の会話もぼちぼち増えたようにも思うけれど、密室と至近距離の気まずさに山ばかりが連なるだけの面白みのない風景を車窓から眺めている。乗って二十分程経つが現時点で会話はなく、相澤先生もシートベルトをきっちりと締め、窓の外を見ている。そちら側には防音壁しかないのに、と思ったところでどうしようもない。会話をしようにも昨夜、寮の共有スペースで行った相澤先生による完璧なまでの打ち合わせで何も問題点などなくなってしまっていた。
向かう所ってどんな街ですかね、なんていう話題も向かっているヒーロー事務所の所在地、〝鳴羽田〟という文字を見ればやり過ごしたくもなる。ミッドナイト先生や先生の言葉からすると何やら私は相澤先生を知っているらしいし、先生もまた私を昔から知っているらしいのだ。土地勘あっての人選か、と変に納得していないで、さっさと聞いてしまえば良いものを。
沈黙が続けば続くほど口を開くのに勇気がいる。気付かれないよう喉の準備をしているとタクシーのスピーカーからマイク先生のラジオのCMが流れた。テンション高いマイク先生の声を聞くと元気が出るというか、やっと共通の会話が見つかったというか、色んな意味で心が少し軽くなった。
CMが明け、聞き流していたラジオのパーソナリティーが喋り出す。それに続いて私も張り付いていた唇を無理矢理剥がし、口を開いた。
「あ、あの、マイク先生のラジオで度々話題に出てる友人Aって相澤先生のことですか?」
「わからないですね」
ん? と低く喉を鳴らしこちらを振り向いた相澤先生が言った。
「え、と、もしかしてマイク先生のラジオ聞いてない、とか」
「そうですね。それにアイツ友人多いんで」
確かに、と思いつつもあの第一回目からサーバーダウンして一時騒然となったというマイク先生の大人気ラジオを聞いていないことに驚いた。放送時間が時間なだけに毎週は無理だとしても、さすがに一回くらいはと聞くと、一回もと返ってきて同期で同じ職場でとなるとそういうものなのかなと思いつつ、いつかの「飲みもメシもフラれてばっかヨ」と笑顔で答えるマイク先生の姿が浮かび、先生の歯に衣着せぬ物言いに、やっぱり友人Aは相澤先生なんじゃないのかなとぼんやりと思った。
「それにしても一度もないなんて」
「アイツが学生の頃、自主配信していたウェブラジオは勉強中聞いたりはしていましたけど」
「え! なにそれ、めちゃくちゃレアじゃないですか! え〜いいな〜」
思わぬ返事にテンションが上がって少し声が高くなってしまった。やってしまった、と口元を手で隠した時、相澤先生の表情は驚いたような怒っているような複雑な顔をしていて、「すみません、大きな声出してしまって」と素直に謝った。頭頂に「いえ」と短い返事が届いて頭を上げれば、先生はいつもの仏頂面に戻っていた。いや、僅かにご機嫌斜めな雰囲気を醸し出している。
タクシー内にまた沈黙が流れる。雨模様は変わらないが、いつの間にかくすんだ緑の中にも所々家屋が見えるようになってきた。
「あの、インスタントの味噌汁ってどこのメーカーですか」
「は、はい?」
もう少しで着くだろうから後はまた風景でも眺めておこうと見覚えのあるローカルチェーン店の看板に思いを寄せていて返事が数テンポ遅れた。
「あの時いただいたやつうまかったんで、夜食に買おうかと」
「あ、ああ! あれは昔からCMであってる有名なものですよ、あさげとかゆうげとかで美味しそうにごはんと食べてるアレです」
「ああ、アレ。そうでしたか、ありがとうございます」
早速注文しているのか、相澤先生は携帯を取り出して操作しだした。心なしか不機嫌さはなくなっているようだ。
「先生はお味噌汁シンプルなのがお好きなんですか?」
このくらいの会話は続けてもいいだろうか。こんなにも表情のわかりやすい先生は初めてで、私の中で何かが重なろうとしていた。
「夜食だとそうですね、ですが具沢山なのも食べ応えあって好きです」
「へ、へえ、相澤先生が何か食べているのあの日初めて見たので、食べ応えという言葉に驚きです」
「初めて、ねえ。夕飯ってよく作ってるんですか? 俺も料理してるの初めて見ました」
『初めて』と言って気づいた。おそらく歓迎会で見たことがあるはずなのに、自ら何も覚えていないと言っているようなものだ。けれどこれは謝る機会なのかもしれない。
「たくさん作っておいて、次の日以降はちょっとアレンジしてって感じですかね」
ふうん、と低い声がタクシー内のひんやりとした空気を揺らす。やはり今日の〝相澤消太〟はちょっとわかりやすい。さあ勇気を出して、と私の中のヒーローな私が囁く。
相澤先生、と改めて声をかけると「どうしました」と思ったより優しい声で返された。その声色を知っているような鼓膜の揺れと不思議な感覚に、耳の裏がぞわりとする。
「え、その、結構前になるんですけど、私の歓迎会の時、えと、先生へご迷惑をかけたようで。つい先日ミッドナイト先生から聞いて、遅くなってしまい申し訳ないのですが、あの時はすみませんでした」
「……本当に記憶ないんですか?」
「はい。あまり強くもないのに飲んでしまったみたいで。それもよく覚えてないんですが」
「いや、酔わせた張本人を知っているので、あなたが悪くないということはあの場に居た皆わかっていますよ」
悪くないという言葉に胸を撫で下ろしたのも束の間、「それで、その前は?」と先生は言った。先ほどと同じ声色に今度は背筋がぞわりとする。その前とは、歓迎会前にも私は何かしでかしたのだろうか。彼からすればそちらの方が問題ということか。覚えていない、けれど何かを思い出せそうな、靄のかかった頭が気持ち悪い。
「……赴任した際のご挨拶で、でしょうか」
ふるふると首を振ったあと私を見つめた相澤先生の顔は寂しそうで、怒っていないことは明白だった。そんな顔を見たかったわけじゃない、といつかの記憶と重なる。歓迎会ではない、もっと昔の誰かとの、いつかの会話。
「もしかして、何度か私の部屋で寝ていたことと関係ありますか」
長い前髪の隙間から僅かに見える下がった眉から目が離せなくて、聞いてしまった。少しずつ上がる心拍に喉のくぼみがきゅっとなる。どくどくと鼓膜を鳴らす煩さに瞬きができない。
〝相澤消太〟は、こくりと静かに頷いた。
空気を切る音が止んで、タクシーが高速道路を降りたことを知る。膝に落ちる柔らかい日差し。
私たちが出会っていたかもしれない街は晴れていた。